27.たったそれだけの事で
今朝プリスカと扉をくぐった時はまさか、こんな一日になるとは思いもしなかった。
屋敷の使用人達に急かされて汗を流し、ドレスに着替えた私はようやく自室に戻る。
心配させないようにという気遣いなのか、部屋で待っていたプリスカは包帯を巻いていなかった。応接室に居た時はまだつけていたのに。
早足に近付いて、私より少し背の高い彼女を見上げた。
「プリスカ……怪我は平気なの?」
「ええ、お嬢様の無事なお姿を見たらすっかり良くなりました。包帯も、元から少しやり過ぎでしたしね。」
「そんな事を言って…お願いだから、きちんと治るまで安静にしていてね。」
「大丈夫ですよ、本当に。相棒は折れてしまいましたけれど」
「修理が無理であれば、貴女が欲しいものを何でも買うわ。お陰で助かったんだもの」
私達が棘蜘蛛に襲われた時のこと。
プリスカはそのナイフで一撃を防いだものの、重さに耐えきれずに壁へ叩きつけられてしまった。彼女が武器を持たずにいたらどうなっていたか。
きっとプリスカは素手でも魔物の前に立ちはだかったし、彼女が目の前で殺されたら、私はきっと動けなかった。
「おかみさん達も無事でいるわ。避難所で会えたの」
「良かったです。しかし……ユリウス・ヴィンケル様がゼイルにいらしたとは。」
「ふふ、本当よね。さっき『別人として』と説明なさっていたけれど、何を隠そう、レオンさんが彼だったのよ。」
「騎士団の…そうでしたか。」
流石のプリスカも驚いたみたいで、目を丸くしている。
でもすぐに何か、考え込むような難しい顔になった。
「どうかした?」
「いえ……これからゼイルに住むのであれば、私も魔物退治の指導を受けた方がいいかと考えていました。」
「ええ?今日みたいな事は、中々ないと思うわよ。」
「それでもです。私は対人であれば早々負けはしませんが、魔物とまともにやり合ったのは今日が初めてでした。お嬢様をお守りするため、知識も技術も身に付けなければ。」
「頼もしいけれど、治ってからよ。くれぐれも、治ってから。」
でないと許さないからと念押ししておいた。
プリスカときたら、私にほんの少しでも怪我をしてほしくないらしい。もう少し自分の事も大事にしてほしい。
ノックの音がして、扉を見る。
ここの使用人が鳴らす聞き慣れた音より、少し大きい気がした。プリスカがそちらへ歩きながら「はい」と答える。
「ユリウスだ。マリアンネ嬢はいるだろうか」
「っ、います」
小さく肩が跳ねた。声が上ずらないようにだけ気を付けて、私も扉の方に向かう。まさか今、ユリウス様が来るなんて。
プリスカが扉を開けると、彼はこちらへ入る気はないのだろう、一歩引いた位置に立っていた。
「もう少し話でもできればと思ったんだが……疲れていたら、無理にとは言わない。」
「大丈夫よ。プリスカ、椅子に座るなりして、安静にして待っていてね。」
「はい、仰せのままに。」
並んで廊下を歩きながら、隣のユリウス様を眺めてみる。
白いシャツに灰色のジレ、皺のないスラックスにぴかぴかの革靴。丁寧に保管されていたのか、あるいは、帰還と聞いて急いで用意されたのかしら。
堂々と見ていたものだから、ユリウス様も私を見返した。
「うん?」
「騎士服ばかり見ていたし、なんだか新鮮で。」
「それもそうか。君も、ドレスを着ているのは初めて見た。」
「新鮮?」
「とても。見てると少し緊張する」
……そんな事を言われたら、こっちが目を合わせられない。
ぱっと視線を前に戻して、心臓の鼓動の早さなんて気付かないふりをする。
「どこが」なんて、心の中で呟いた。貴方、まったく平然としてるじゃない。
そうやって今日だけで何度も何度も、私ばかりが心を乱されている気がする。
小さなサロンには赤い一人用のソファが三つ、一輪挿しが置かれた丸テーブルを囲んでいた。座り心地はふかっとしていて、備え付けの柔らかいクッションをお腹に抱えてみる。
お義母様やロッテさんが好きそうな部屋だけど、ユリウス様がこんな可愛らしいところに案内するのは、ちょっと意外かもしれない。
ユリウス様がじっと見てくるので、負けじと平静を装って、見つめ返してみた。
彼の眼差しがふと優しくなって、微笑んでくれるところを見てしまう。顔がじわりと熱くなった。
「…なにか、おかしい?」
「何も。君が妻になってくれてよかったなと。」
「だけど、貴方。その……シーラの事が好きだったでしょう?」
「そうだな。」
ちょっとでも動揺してほしかったのか、恥ずかしくてやけくそになってしまったのか…私はなんて事を聞いてしまったの。
そしてユリウス様、貴方はどうして平然と答えられるの。
怒っているわけじゃない。誤解されていたら嫌だと、慌てて手を振った。
「せっ、責めるつもりは全然ないのよ?ないけれど……認めるのね。」
「事実だからな。正体が君でなければ、一生誰にも言うつもりはなかった。」
胸がちくりとする。
私もだ。それは……私も。
気付いた時にはもう、レオンさんが好きで。ずっと秘めるつもりで。
彼に言わせておいて自分だけ言っていない事実に、後ろ暗い気持ちになる。
伝えてしまおうと口を開きかけて、けれど、彼が続ける方が早かった。
「でも、いつから気付いていたんだ?」
「…ガレトに出かけた時。」
正直に言うと、ユリウス様はきょとりと目を丸くした。とても見覚えのある表情。
「……すごいな。俺はその時まだ、まったく自覚していなかったんだが。」
「ええ、それもわかっていたけれど……高台で少し話したのを覚えてる?あの時の、貴方の笑顔が…ね。」
「顔に出ていたのか、君が好きだと?」
「………直球で言われると恥ずかしいけど、そういった感情が見えたのは確か。」
「そうなのか」
自分では気づかなかったなと、首を傾げるユリウス様は照れる様子もない。
それなら私が伝えても、彼は傷ついたり嫌な思いをしないのかしら。小さく唾を飲んで、今度こそ。
「私も、自覚は遅かったわ。今日魔物に襲われて……貴方が来てくれたけど、どうなるかわからなくて。どうにか生きていてほしくて、死んでほしくなんかなくて……そこでようやっと、とっくにレオンさんの事が好きだったと気付いたの。」
「そうか……」
大して動揺もないユリウス様も、もしかしたら、どこかで私の恋心に気付いていたのかしら。
だとしたら少し、恥ずかしい。いつだろう?
ユリウス様がぱちりと瞬いた。
「………今、君は俺が好きだと言ったのか?」
「え?…えぇ。まぁ、厳密にはレオンさんの事を?夫がいる以上は絶対に口にしないと決めていたけれど。お互い様だったようだし………えっと、もしかして、貴方は気付いてなかったの?」
「俺がそういった事に大層鈍い事は、よく知ってるだろう。シーラさん」
「言われてみればそうね、レオンさん。」
納得した私はつい、自分の片頬に手をあてて頷いた。
ユリウス様の視線がちょっぴり彷徨っていて、あら、もしかして、照れてくれている?
「帰郷すると伝えた時に、少しばかり君が寂しそうには見えたが……友人だからだとばかり。俺が自分の気持ちを自覚したのは、その時だ。君が寂しがってくれた事が、嬉しく思えてしまって…」
「…ふふ。私だけどきどきさせられてると思ったけれど、ようやくかしら?」
「どきどき?…君がか?」
こてりと首を傾げられた。嘘でしょう、貴方。
つい真顔になってしまう。
「さすがにもう知られていると思っていたわ。ちょっと待って、ユリウス様。私、顔が赤かったりしたでしょう?」
「確かに今日、君がマリアンネ嬢だと知ってから……いつもよりさらに愛らしく見えると思った時が何度かあった。理由は深く考えていなかったが――そう、今みたいに。」
「誰のせいだと…」
どうかあまり見ないでほしくて、顔を少し俯けて手をかざした。
ユリウス様の言葉は正直過ぎるわ。嬉しいけれど、嬉しいのだけれど、でも。
「マリアンネ嬢」
「はい…」
「なぜか無性に、君の手に触れたいんだが。いいだろうか」
悲鳴を上げそうになって、飲み込んだ。
私、これに慣れていかなければならないの?いつ慣れるの?むしろ、許可を取らないでいてくれた方が恥ずかしくなかったかも?いいえ、わからない。
「恐らく君が愛しいから、何か行動に移して落ち着きたいのだと思う。」
「…よ、よいのでは、ないでしょうか…」
まったく良くない。
私はきっともう耳まで真っ赤になっているし、ユリウス様の方なんてとても見られない。
そっと手に触れられて、テーブルへと下ろさせられて。彼の手が少しひんやりしているように思うのは、私の体温が上がっているせいで。
男性に「愛しい」なんて言われたら、どうしたらいいの?
手を握られたら、どうしていたらいいの?私ったら緊張し過ぎて、手汗をかいていないかしら。わからない。
どぎまぎして、でもこれ以上顔をそむけているのも失礼な気がして。
思い切って視線を戻し――…ふと、肩に入っていた力が抜ける。
私の手を握って薄く微笑むユリウス様は、あまりに穏やかで、温かくて。
聖具が間に合わなくても、私がいなくてもきっと戦い続けてた、遠く感じるほどに強い貴方が。
あの時「たとえ一緒に居られなくてもいい」と、「貴方が生きていてくれれば」と願った人が。
私がこうして傍で手を握る、それだけでそんな風に笑ってくれるの。
なんて、幸せなんだろう。
気付けば私は、無意識にその手を握り返していた。
視線を上げたユリウス様と目を合わせて、自然とこちらも微笑んで。
「マリアンネ嬢、君が好きだ。俺と結婚してほしい」
「私も貴方が好きです、ユリウス様。謹んでお受け致します」
「うん――…嬉し過ぎるな、これは。」
「ふふっ!私達、もうとっくに結婚してるけれどね?」
空いている方の手をこめかみにあてて、ユリウス様はほんのちょっぴり困惑気味。
彼をそんな気持ちにさせたのは私が初めてなのだろうなと思って、繋いだ手をとんとんと小さく上下に動かしてみる。
「ねぇ?もしかして、私も貴方が好きだと言わなかったら、口説いてくれたのかしら。」
「ご希望に沿えたかはわからないが、俺なりに。妻になる事を正式に了承してくれたとはいえ、君の同意がとれるまでは、手を出すつもりもなかったし。」
「手を?」
危うく動揺するところだったけれど、なにせ相手はユリウス様。私は引っ掛からないわ。
意味が違うという事も十二分にあり得るから、手を軽くにぎにぎして首を傾げてみた。ユリウス様が頷く。
「そうしている君は可愛いが、今の『手を出す』は閨事の――」
抱えていたクッションを反射的に顔へ投げてしまった。
慌てて謝ったら許してくれたけれど、びっくりした。
とんでもなく鈍かったのに、夫婦生活の事とかちゃんと頭にあったのね。
それはそうよね、伯爵家の嫡男なんだから、それはそうなんだけど……び、びっくりした……。




