第3章「最強の堕天使」
「解除する」
迷いはなかった。
> 所有者の意思を確認。
>
> 第一封印を解除します。
世界から音が消えた。
岩甲熊の爪がジュンの目前で止まる。違う。止まって見えるほど、周囲の時間が引き延ばされていた。
セレスティアル・レコードから、黒い鎖が飛び出した。
一本、二本、十本。
鎖は広間の天井を突き抜け、目に見えない高みへ伸びる。遠い空の向こうで、巨大な鐘が鳴った。
その音には怒りがあった。
人が触れてはならないものに触れた。その罪を告げる音だ。
ジュンの両腕へ銀色の刻印が走った。熱い。皮膚ではなく、骨と魂を焼かれている。
痛みと一緒に、アザリアの記憶が流れ込んだ。
まだ翼が白かった頃。夜空を怖がる人間の子どもへ、星の名を一つ教えた。翌日には村中の子どもが集まり、季節を知る方法を尋ねた。
星図を描き、方角を教え、種をまく時期を伝えた。
人々は飢えなくなった。
天界は、その知識を規定外成長と呼んだ。
『教えたことを忘れさせれば許す』
白翼の使者へ、アザリアは首を振った。
『知った者から空を奪うことはできません』
町が焼かれ、翼が黒く染まる。鎖へつながれる最後の瞬間まで、彼女は地上へ星明かりを送った。
記憶の中の痛みがジュンのものになる。
「これは罰じゃない」
歯を食いしばり、鎖を握る。
「誰かを助けた証拠だ」
刻印の炎が一瞬弱まった。
ページの中で、閉じていたアザリアの指が動く。千年ぶりに届いた言葉を、眠りの底で握り返すように。
> 天罰《星墜の枷》を継承します。
>
> 致死量を超過。
「ぐっ……!」
膝が折れる。
それでも本から手を離さなかった。
ページの中で、少女を縛る鎖が一本ずつ砕けていく。最後の一本が切れた瞬間、広間の天井が夜空へ変わった。
満天の星。
そのすべてが落ちてくる。
岩甲熊が初めて怯えた声を上げた。逃げようとした巨体が床へ沈む。目に見えない重力が背を押し潰し、岩の鎧に亀裂を走らせた。
夜空から、少女が降りる。
裸足が石床へ触れた。
銀髪が星明かりを帯びて揺れる。黒い翼は傷だらけで、左の翼は半ばから折れていた。それでも、彼女を弱いとは思えなかった。
少女が目を開く。
青白い瞳へ最初に映ったのは、ジュンではなかった。
広間の天井にある偽物の夜空を見た。星の配置が、封印された日と同じまま止まっている。
「千年」
アザリアの唇から、乾いた声が漏れる。
「そんなに経ったのか」
「この星座は千年周期で同じ位置へ戻ります」
彼女は自分の手を見た。鎖の跡。黒く染まった翼。教えた人々が生きている可能性はない。
解放された喜びより、取り残された事実のほうが大きかった。
「地上へ出るのが怖いか?」
ジュンが聞く。
「恐怖はありません」
「嘘だな」
アザリアが鋭く見る。
「怖くてもいい。俺も、この遺跡から出たあと行く場所がない」
「契約者には帰る国があるはずです」
「昨日、捨てられた」
二人はしばらく見つめ合った。
千年の封印と、一日の追放。同じ重さではない。それでも帰る場所をなくした孤独だけは、少し分けられた。
「では、命令を」
アザリアが求めたのは、従う習慣だけではない。自分で次を選ぶことが怖かったからだ。
鎖の向こうで、少女の指がほんの少し動いた。
青白い瞳に、空そのものが宿っていた。
「私を起こしたのは、あなたですか」
声は静かだった。
「たぶん、そうだ」
「命令を」
「その前に、あれを何とかしてほしい」
ジュンが指さす。
重力に抵抗していた岩甲熊が立ち上がった。鎧が剥がれ、むき出しになった筋肉が膨れ上がる。傷から黒い霧が噴き出した。
セレスティアル・レコードが情報を表示する。
> 岩甲熊・異常進化個体
>
> 天界廃棄魔力を摂取。
>
> 推奨討伐人数:百二十名。
「命令を」
少女は同じ言葉を繰り返した。
ジュンは息を整える。腕を焼く刻印の痛みで、意識が遠のきそうだった。
「生きたいなら逃げてもいい」
少女が瞬きをした。
「理解不能です。契約者には、私へ絶対命令を下す権利があります」
「俺はそんな契約をした覚えはない。鎖を外しただけだ」
「天罰を引き受けてまで?」
「痛い目を見るのには慣れてる」
答えた途端、少女の顔から感情が消えた。
「訂正を要求します」
「何を?」
「あなたが傷つくことを、軽く扱わないでください」
初対面の相手に叱られ、ジュンは言葉を失った。
岩甲熊が床を蹴る。
巨体が迫った。少女はそちらを見もしない。
「では、お願いする」
ジュンは言った。
「俺と一緒に、生きてくれ」
少女の瞳がわずかに見開かれる。
「そのために、まずあいつを倒そう」
返事より早く、熊の爪が二人へ振り下ろされた。
少女は片手を上げた。
「承知しました」
広間に星が一つ灯る。
小さな光だった。
その光が熊の額へ触れた瞬間、岩の巨体が消えた。
爆発も衝撃もない。頭から尾まで、光に触れた場所が灰すら残さず消滅した。振り下ろされた爪だけが勢いを失い、ジュンの足元へ転がる。
天井に広がっていた夜空が閉じた。
「え?」
「討伐しました」
少女は手を下ろした。
「いや、それは見れば分かる。今のは・・・全力なのか?」
「現在の出力は、本来の0.01%未満です」
世界崩壊級という表示が、急に現実味を帯びた。
セレスティアル・レコードが激しく光る。
> 契約対象による討伐を確認。
>
> 固有スキル《無限昇華》が経験値共有を開始します。
光が少女からジュンへ流れ込んだ。
熱が全身を駆け抜ける。傷ついた肩が塞がり、腫れていた頬から痛みが消えた。筋肉と骨が内側から作り替えられていく。
> レベルが1から42へ上昇しました。
>
> スキル《星界感知》を獲得しました。
>
> スキル《重力耐性》を獲得しました。
>
> スキル《天罰耐性》を獲得しました。
見える世界が変わった。
石壁を流れる魔力。地上を歩く牙狼の生命。目の前の少女の胸に刺さった、七本の黒い針。
力を得た喜びより先に、その針が気になった。
「胸のそれは、痛くないのか」
少女が自分の胸へ目を落とす。彼女には見えていなかったらしい。
「封印の残滓でしょう。支障はありません」
「嘘だ」
「……なぜ分かるのですか」
「分からない。ただ、そう見えた」
ジュンは手を伸ばしかけ、止めた。
「触れても?」
許可を求められるとは思わなかったのか、少女はまた瞬いた。
「はい」
指先で一本目の針へ触れる。
焼けるような痛みが胸へ移った。針が溶け、ジュンの腕の刻印へ吸い込まれる。
少女の黒い翼から傷が一つ消えた。
「やはり、あなたは異常です」
「よく言われる」
「褒めてはいません」
そう言った彼女の声は、ほんの少しだけ柔らかかった。
「名前を聞いてもいいか」
「第一記録個体。識別名アザリア」
「俺は八神ジュンだ。よろしく、アザリア」
ジュンが手を差し出す。
アザリアはその手をしばらく見つめ、おそるおそる握った。
「よろしく、という行為は記録にありません」
「仲間になるときの挨拶だ」
「仲間」
初めて知った言葉のように、アザリアは小さく繰り返した。
握る手に少しだけ力がこもる。
その瞬間、セレスティアル・レコードが二人の間へ割り込んだ。
ページが勝手にめくれ、見たことのない赤い文字が空中を埋める。
> 《警告》
>
> 第一契約を確認。
>
> 規定外成長を検出。
>
> 天界による所有者抹消処理を開始します。
遺跡のはるか上空で、雲が円形に割れた。
白い巨大な目が開き、地上を見下ろした。




