第2章「セレスティアル・レコード」
十二頭の牙狼と、正体の知れない地下の穴。
ジュンは迷わなかった。
「こっちだな」
穴へ飛び込む。
身体が暗闇へ沈んだ。落下は数秒で終わり、背中から硬い石床へ叩きつけられる。息が詰まったが、立ち止まってはいられない。
牙狼の爪が穴の縁を引っかいた。土が崩れ、一頭が続いて落ちてくる。
ジュンは転がって避けた。牙狼は石床へ頭から激突する。そこへ剣を突き立てた。
今度は刃が首を貫いた。
魔物の身体が黒い粒となって消える。小さな魔石だけが床に残った。
上では群れが騒いでいる。穴は狭く、一度に一頭しか入れない。戦うなら地上よりましだ。
だが、二頭目は降りてこなかった。
牙狼たちは何かを恐れていた。しばらく唸り声が続いたあと、足音が遠ざかっていく。
「俺を怖がった、わけじゃないよな」
剣についた血を払い、周囲を見る。
そこは人工の通路だった。
壁も床も黒い石でできている。継ぎ目がなく、鏡のように滑らかだ。天井には淡い銀光を放つ線が走り、奥へ続いていた。
遺跡に潜った経験は何度もある。だが、これほど傷一つない場所は初めてだった。
壁へ手を当てると、遠い振動が返ってきた。
地上の牙狼。さらに深い場所を流れる地下水。その奥に、規則正しく脈打つ何か。
心臓に似ていた。
通路の床へ薄い足跡が残っている。人間より細く、裸足。先へ進むほど濃くなり、突然途切れた。
ジュンはしゃがみ込んだ。
足跡の最後に、小さな文字が刻まれている。
『戻れ』
警告にしては、線が震えていた。
「来るな、じゃないのか」
封印された誰かが、近づく者を守ろうとして残した言葉かもしれない。
そのとき背後の闇で石が転がった。
剣を構える。何もいない。
代わりに壁の浮き彫りが変わっていた。七人の少女のうち、一人目の削られた顔へ、青白い瞳が浮かんでいる。
瞳はジュンを見ず、彼の背後を見ていた。
近づく岩甲熊を警告していたのだ。
千年封じられても、見知らぬ人を守ろうとする者がいる。
ジュンは奥へ進む足を速めた。
肩の傷を布で縛り、銀の線を追う。
一歩進むたび、空気が重くなる。
通路の両側には、翼を持つ少女たちの浮き彫りが並んでいた。七人。どの顔も削り取られ、足元には鎖が刻まれている。
最後の壁だけ、何も描かれていない。
白紙の石板へ触れようとしたとき、壁の向こうで何かが動いた。
石が左右へ開く。
円形の広間が現れた。
中央には黒い台座。その上に、一冊の本が置かれている。
表紙は光を吸い込むほど黒い。縁を囲む銀色の金属には、細かな文字が流れるように刻まれていた。埃は積もっていない。この場所そのものが、本を守るために存在しているようだった。
近づくほど、胸の奥が熱くなる。
「呼んだのは、お前か?」
返事はない。
当然だ。本に話しかけるなんて、疲れている。
それでもジュンは手を伸ばした。
指先が表紙へ触れる。
広間を銀光が満たした。
文字が空中へ浮かび、ジュンの目の前で並び替わる。
> 未登録生命体を確認。
>
> 管理番号が存在しません。
「未登録?」
次の文字が現れる。
> 魂魄波形に管理外世界の痕跡を検出。
>
> 緊急規定に基づき、暫定所有者として登録します。
銀の文字が手の甲へ流れ、円形の印を作った。
触れた瞬間、ジュンの頭へ大量の情報が入る。
封印個体の状態。残存魔力。命令可能範囲。罰則の設定。所有者が許可すれば食事も睡眠も不要にできる。反抗した個体へ痛覚を与える項目まであった。
吐き気がした。
「所有者って、そういう意味か」
ページの中では少女が鎖につながれている。名前より先に番号があり、心より先に利用できる力が並ぶ。
ジュンは手を本から離そうとした。
> 所有権放棄を検出。
>
> 放棄時、第一記録対象を自動廃棄します。
「人質にするのか」
返事はない。
所有者にならなければ少女は消える。なれば命令する権利を持つ。どちらを選んでも、彼女自身の意思が入る場所がない。
ジュンは印を爪で引っかいた。皮膚が裂れても銀の円は消えない。
「暫定所有者なら、規則を変える権限はあるか」
> 権限が不足しています。
「契約を対等にできるか」
> 該当形式は存在しません。
「なら、いつか作る」
この時点では、根拠のない反発にすぎなかった。
それでもジュンは、少女へ命令を入れる欄を閉じた。自動服従、記憶閲覧、痛覚制御。使える権能を一つずつ無効へする。
> 所有者保護機能が低下します。
「保護されたいわけじゃない」
最後に、所有者という表示の横へ自分で小さく書き足した。
『同行者。返事を待つ』
銀の文字はすぐ消そうとした。ジュンが何度も書き直すと、やがて諦めたように余白へ残った。
本の規則は変わらない。それでも余白には、天界が用意しなかった関係が一つ残った。
前世のことを言っているのか。
疑問を口にする前に、表紙へ銀の文字が刻まれた。
CELESTIAL RECORD。
意味は読めた。セレスティアル・レコード。天界の記録。
本がひとりでに開く。
最初のページへ、ジュンの姿と情報が描かれていった。
> 八神ジュン
>
> レベル:1
>
> 最大レベル:測定不能
>
> 固有スキル:《無限昇華》
>
> 種族:該当記録なし
表示は一度消え、別の文字を試すように明滅した。
> 人間――不一致。
>
> 魔族――不一致。
>
> 天界種――不一致。
>
> 転生処理記録――存在しません。
「転生したこと自体、記録にないのか」
神にも女神にも会わなかった理由が、少しだけ見えた。
誰かの計画で呼ばれたのではない。世界の隙間へ、偶然落ちた。
特別な使命がないことに失望はなかった。むしろ肩の力が抜けた。
助ける相手も、進む道も、自分で選んでいい。
本はなおもジュンを分類しようとした。
> 推奨行動を算出。
>
> 第一記録対象の権能を回収し、地上管理への協力を開始してください。
「拒否したら?」
> 生存率が低下します。
「何パーセントだ」
> 現時点で3.8%。
数字を見て、ジュンは笑った。
雨の横断歩道へ飛び出したとき、生存率を計算する時間はなかった。孤児院で森へ入った日も、兎が取れる保証はなかった。
成功率が低いことと、選ばない理由は同じではない。
「その三・八を使う」
表示が一度止まる。
> 非合理的選択を確認。
「人間はそういうことをする」
種族判定では不一致と出たばかりだった。それでも、ジュンが守りたい人間らしさは血や記録の中ではなく、保証のない相手へ手を伸ばす瞬間にあった。
ページの余白へ、見たことのない小さな注記が浮かぶ。
> 管理対象外のため、未来確定処理を適用できません。
ジュンは意味を理解できず、手で触れた。文字はすぐ消えた。
未来を確定できない。その表示が何を意味するのか、今のジュンにはまだ分からなかった。
「二十三年生きて、三年冒険者をやって、レベル一か」
乾いた笑いが漏れた。
レオンたちは五十を超えていた。自分が経験値を吸っていると責められたこともある。実際には一つも受け取っていなかったらしい。
《無限昇華》の文字へ触れる。
> 閲覧権限が不足しています。
>
> 権限獲得条件:世界の法則に反すること。
「追放された直後に、世界へ反逆しろって?」
ずいぶん勝手な本だ。
背後で岩の割れる音がした。
振り向く。
広間へ通じる入口とは別の壁から、巨大な爪が突き出していた。黒い石が砕け、赤い目がのぞく。
牙狼の群れが逃げた理由を、ジュンはようやく理解した。
岩甲熊。
全身を岩の鎧で覆う上級魔物だ。討伐には熟練の冒険者が十人は必要になる。片目が潰れ、背中には古い槍が何本も刺さっている。傷ついてなお、この遺跡を巣にした牙狼よりはるかに強い。
岩甲熊が壁を破り、広間へ入ってきた。
逃げ道を巨体が塞ぐ。
ジュンは剣を構えた。ひびの入った刃では、岩の鎧を傷つけることすらできない。
熊が腕を振るう。
伏せた頭上を爪が通り過ぎ、風圧だけで身体が転がった。肩の傷が開く。石床へ血が落ちた。
セレスティアル・レコードが浮かび上がり、勝手にページをめくる。
> 所有者の生命危機を確認。
>
> 第一記録領域を緊急開示します。
ページに、一人の少女が描かれた。
銀の長い髪。閉じた青白い瞳。背中を包む黒い翼。無数の鎖が細い身体を縛り、暗闇の底へつないでいる。
岩甲熊が咆哮した。
ジュンは剣を捨て、本を両手でつかむ。
> 第一封印個体の権能を一時使用できます。
>
> 使用条件:封印対象との契約。
>
> 契約には対象が負う天罰の継承が必要です。
「つまり、あの子の罰を俺が引き受ければいいんだな」
> 推奨しません。
>
> 所有者の生存率は0.003%です。
熊が迫る。
ページの中の少女は目を閉じたままだった。
千年もの間、誰にも届かない場所で鎖につながれている。なぜか、そう分かった。
ジュンは考えた。
今日会ったばかりの、名前も知らない相手だ。自分が死んでまで助ける理由はない。
同時に、もう一つ思った。
助けない理由にもならない。
「生存率がゼロじゃないなら十分だ」
本へ血のついた手を押し当てた。
新たな問いが銀色に燃え上がる。
> 封印を解除しますか?
>
> 対象――第一堕天使アザリア。
>
> 危険度――世界崩壊級。




