第35章「今度は私たちが救う」
アザリアが崩れ落ちるジュンを抱いた。
身体は軽かった。
大陸を支え、天界の攻撃を受け止めた人とは思えないほど。中から記憶と感情が抜け、器だけになり始めている。
アザリアは初めて会った地下遺跡を思い出した。
命令を求めた自分へ、ジュンは同行を頼んだ。痛みを隠した彼を叱った。焦げた肉を分け、廃村へ歩いた。
「私は、もっと早く止めるべきでした」
「一人で責任を取らないで」
ミレイアが肩を抱く。
「私たちは全員、彼の優しさへ甘えました。救われる側に慣れ、自分たちが救えることを忘れていた」
ノクティアはジュンの精神へ潜ったまま戻らない。
内側には空白しかなかった。かつて並んでいた記憶の扉は消え、床も空も白い。
「ジュン!」
叫びがどこまでも吸われる。
ノクティアは怖かった。深く眠れば、この何もない場所へ落ちると思っていた。今、一番会いたい人が同じ場所で消えようとしている。
「一人じゃないって言ったくせに」
影から細い道を伸ばす。
「約束を破ったら、夢の中で毎晩説教するから」
届かない声でも、呼ぶのをやめなかった。
外ではセフィラが契約式を何度も書き直した。指から血が出ても止めない。ガルネアは書かれた式を壊れない形へ鍛え、ラミナは成功する未来を探そうとした。
「見ない」
ラミナは自分で瞳を閉じた。
「成功が見えたから選ぶのではない。成功させたいから選ぶ」
未来視に頼らず、七人が初めて同じ答えを選んだ。
瞳は開いている。呼吸もある。だが、誰の声にも反応しない。
「天罰を返します」
アザリアは自分の契約印へ指を立てた。
「待ちなさい!」
セフィラが腕をつかむ。
「単純に戻せば、彼の魂が空になる。今のジュンは、私たちの力も含めて一人なのよ」
「では、どうすれば」
アザリアがセフィラへ問い返す。
「契約の形を変える」
今までの契約は、天罰をジュン一人へ流す主従契約だった。救われた七人が力を与え、所有者が代償を負う。
「所有者をなくす。八人全員を同じ位置へ置くの」
「天界式にそんな契約はねえぞ」
ガルネアが槌を握る。
「なら作るわ。私たちは、人へ新しいものを与えた罪で落とされたのだから」
七人がジュンを囲む。
対等契約には、全員が差し出すものを自分で決める必要があった。
アザリアは絶対の忠誠を手放した。
「ジュンの命令でも、間違っていると思えば逆らいます」
「今までも逆らってた気がする」
「より明確に逆らいます」
セフィラは知識を独占する権利を、ラミナは未来を理由に他人の選択を止める権利を捨てた。ガルネアは作った武器への執着を、ミレイアは自分だけを治さない誓いを、ノクティアは他人の夢へ無断で入る自由を差し出す。
「最後のは今まで駄目だっただろ」
「契約で正式に駄目になるの!」
ノクティアが不満そうに頬を膨らませる。
ティアネは持っていた最後のパンを輪の中央へ置いた。
「これ、みんなで食べる」
彼女にとって最も重い誓いだった。
七人は力ではなく、自分の弱さも輪へ置いた。
輪へ置かれたものは、言葉だけではなかった。
アザリアの星が砕け、忠誠を命じる鎖へ変わる前の光を取り戻す。彼女はその光の半分をジュンへ、半分を残る六人へ分けた。
セフィラは自分だけが読めた天界文字を、八人全員の視界へ開く。秘密を渡す恐怖に指が震えた。それでも頁を閉じなかった。
ラミナは最も安全な未来を一つ消した。そこでは彼女だけが生き残っていた。
ガルネアは《昇星》へ刻んだ自分の銘を削り、代わりに八つの小さな印を打つ。誰の剣でもない。八人が責任を持つ道具にした。
ミレイアは治癒の根を自分の古傷へも伸ばす。痛みに耐えることを誇りにしてきた彼女が、初めて自分へ助けを求めた。
ノクティアは夢の扉へ鍵をかけ、その鍵を輪の中央へ置く。
ティアネはパンを八つに割ろうとして、大きさがばらばらになった。
「同じじゃない」
「同じでなくていい」ジュンの唇が、かすかに動いた。「足りない人へ、大きいのを渡せばいい」
消えかけた意識から返った最初の言葉だった。
七人が同時に泣き、同時に笑った。
ジュンも、自分だけで誰かを救う権利を手放す。
「俺が無茶をしたら止めてくれ」
「ようやく契約になりました」
アザリアの頬に涙が伝った。
アザリアは星の記憶を渡した。セフィラは彼の名を一文字ずつ書いた。ラミナは見えない未来を選び、ガルネアは八つの契約印を一つの輪へ鍛えた。ミレイアは自分の命を輪へ流し、ノクティアは消えかけた夢を引き戻す。ティアネは八人の存在を同じ空間へ固定した。
「今度は私たちが救う番です」
アザリアが額を合わせる。
「あなたが私へくれた言葉を返します。一緒に生きてください」
セフィラは頬へ触れた。
「私の知らない答えを、これからも見せて」
ラミナは手を握る。
「見えない明日を、一緒に選びたい」
ガルネアは胸を軽く叩いた。
「壊れたら、何度でも直してやる」
ミレイアは涙を拭う。
「あなた自身も、救われる側になってください」
ノクティアは影へ潜る。
「夢がないなら、私たちとの夢を作ればいい」
ティアネは首へ抱きついた。
「家族は、置いていかないよ」
七つの声が暗闇へ届く。
ジュンは雨の横断歩道に立っていた。
今度は誰もいない。車も少年も、異世界もない。
遠くに七つの光が見える。
一歩ずつ近づくたび、名前が戻った。
八神ジュン。
特別ではなかった男。失敗し、捨てられ、それでも目の前の誰かへ手を伸ばした男。
「帰ろう」
光へ手を伸ばす。
> 主従契約を破棄。
>
> 対等共有契約を新規構築。
>
> 八名を相互所有者として登録します。
ジュンが目を開いた。
七人の泣き顔が見えた。
「ただいま」
背中には、八枚の翼が開いていた。




