第27章「消えていく八神ジュン」
「誰に食べられた」
アザリアが少女へ重力を向ける。
「あなたたちに」
少女は平然と答えた。
「契約で流れ込んだ記憶が、彼の記憶へ根を張ってる。五人の人生は五千年分。二度の人生を合わせた五十年近い記憶だって、とっくに埋もれ始めてる」
ジュンは反論しようとした。
前世の母親の顔を思い出せない。
名前も声も、家で食べた料理も。
「いつから気づいていたの?」
ミレイアの声が震える。
「ニナの名前が出なかった日から」
「なぜ黙っていた!」
ガルネアが胸ぐらをつかむ。
「心配させたくなかった」
「それが一人で決めないって誓った奴の台詞か!」
言い返せない。
黒髪の少女が寝台から下りた。
足が床へ触れた途端、影の鎖が短くなる。ノクティアは顔をしかめたが、声を上げなかった。
「ここから三歩しか歩けない。四歩目で、千年前の最初へ戻される」
彼女は一歩、二歩と近づく。三歩目でジュンの前へ立った。
「何度も試した。走っても、影へ潜っても、ほかの人の夢を通っても駄目。だから諦めたふりをした」
「ふり?」
「本当に諦めたら、待てないから」
ノクティアがジュンの胸へ指を当てる。
空白の奥に、わずかな夢の欠片が浮かんだ。
昇星の街の朝。食堂の卓。七つの椅子。まだ座っていない二人のために空けた場所。
「あなた、自分の夢はないのに、私たちの席は用意してたんだ」
「皆で帰る場所が欲しかった」
「それを夢って言うんじゃない?」
ジュンは答えられなかった。
自分のために望むことへ、慣れていなかった。
「なら、追加する」
ノクティアの頭へ手を置く。
「その席へ君も座ってくれ」
少女の影が震えた。
「私はノクティア。夢と精神の番人。契約すれば侵食を遅らせられる。でも六人目の記憶も入る。治療と毒が同じなの」
「契約せずに力だけ借りる方法は?」
セフィラが問う。
「ない。天界はそう作った。私たちが一人で自由になれないように」
「なら契約する」
「ジュン!」
アザリアが鋭く名を呼んだ。
「聞いてくれ」
五人を見た。
「今度は勝手に決めない。ノクティアをここへ残せば、彼女は永遠に目覚めない。俺の侵食も進む。契約して時間を作り、全員で別の方法を探したい」
沈黙のあと、アザリアがうなずく。
「条件があります。痛みも記憶も共有すること」
「分かった」
「忘れたくないものを、私たちにも預けて」
ラミナが手を出す。
ジュンは雨の日の横断歩道を思い出した。救った少年。孤児院の匂い。初めて買った剣。青い石。廃村へ最初の火がともった夜。
記憶を一つずつ、五人へ渡した。
渡すたび、受け取った者の胸に小さな光が灯った。
アザリアには孤児院の夜を預けた。空腹の子どもへパンを分け、院長に叱られた記憶。
「昔から同じことをしていたのですね」
「成長してないみたいに言うな」
「成長していません」
セフィラには、初めて文字を覚えた日。ラミナには、未来を知らずに会社を辞めようか迷った夜。ガルネアには、不器用に磨いた青い石。ミレイアには、誰かに作ってもらった温かい食事の味。
ノクティアには、まだ言葉にできない願いを渡した。
「中身が見えない」
「俺にも分からない」
「じゃあ、私が見つける」
黒い影が願いを包む。
記憶は複製されても薄くならなかった。誰かへ話すことで輪郭が戻り、自分のものだと確かめられる。
ノクティアは初めて、夢を盗むのではなく預かった。
「返してほしいときは?」
「名前を呼んで」
「忘れていたら?」
「私たちが呼ぶ」
その約束が、消えていく名前をつなぎ止めた。
ノクティアが目を丸くする。
「変な契約者。普通は力だけ欲しがるのに」
「君も仲間になるなら、記憶を預かってくれ」
「私、他人の夢を盗み見る悪い子だよ?」
「寂しいなら、勝手に来てもいい」
ノクティアは顔をそらした。
「そういうの、ずるい」
影の鎖が切れる。
> 第六封印を解除しました。
>
> 天罰《永劫悪夢》を継承します。
闇がジュンへ押し寄せる。六人の恐怖と孤独が胸へ入る。
今度は一人で受けなかった。
六人が手をつなぎ、痛みを分ける。
> 第六契約を確認。
>
> スキル《精神共有》を獲得しました。
夢の牢獄が崩れ、全員が会議室へ戻った。
ノクティアは小さな身体でジュンの背へ乗り、耳元で囁く。
「今夜から夢の見張りは私。秘密も全部見るから」
「加減してくれ」
「嫌」
アザリアが彼女を引きはがし、セフィラが侵食を測る。
その夜、ノクティアは与えられた部屋の寝台に座り、朝まで目を閉じなかった。
「眠りの堕天使が、不眠か」
戸口に立ったジュンへ、彼女は枕を投げた。
「眠れば夢を見る。夢を見れば、また誰かの中へ入ってしまうかもしれない」
「扉の外にいるよ」
「一晩中?」
「交代でな」
廊下には、すでに毛布を持った五人がいた。ガルネアは壁へ背を預け、ラミナは湯気の立つ茶を二つ抱えている。ミレイアは眠り草を持ってきたが、セフィラに効きすぎると止められていた。
「監視?」
「同伴」アザリアが答えた。「あなたが誰かの夢へ落ちたら、全員で引き上げる」
ノクティアは何度も疑うように皆を見た。やがて寝台へ潜り、頭まで毛布をかぶる。
「……名前を呼んで」
「ノクティア」
六つの声が、少しずつ違う調子で重なった。
彼女は初めて、自分の意思で眠った。
代わりに翌朝から、昇星の街には妙な習慣ができた。ジュンと顔を合わせた者は名前を呼び、昨日の彼について一つ話す。
「ジュン、昨日は井戸の縄を直した」
「ジュン兄、俺の干し肉を勝手に食べた」
「それはガルネアだ」
「ばらすな」
人格侵食で記憶が削られても、街中に同じ名前と別々の記憶が残る。セフィラの帳面だけではない。子どもの落書き、鍛冶場の注文票、食堂の未払い札にまで、ジュンの名が増えていった。
人は一人の頭の中だけで生きているのではない。
ノクティアは壁に増える文字を指でなぞり、誰にも聞こえない声で言った。
「これなら、消すほうが難しいね」
「人間該当率、三十一%。低下は止まっていない」
セレスティアル・レコードが勝手に開いた。
所有者欄にあった『八神ジュン』の文字が薄くなる。
八が消えた。
次に、神が消えた。
残った『ジュン』の最初の一文字へ、黒い染みが広がり始めた。




