第24章「元婚約者の帰還」
リリアが街へ来たのは、雨の朝だった。
門番は彼女を入れようとしなかった。
元婚約者という噂は街中へ広まっている。住民にとって、ジュンを捨てた聖女は王国兵より嫌われていた。
「帰れ!」
「今さら何をしに来た!」
雨の中で罵声が飛ぶ。
リリアは反論せず、泥の上へ立ち続けた。
ジュンが門へ着くと、ベルグが腕を組んだ。
「会う必要はありません」
「話を聞いてから決める」
「また傷つけられるかもしれない」
「そのときは、皆がいる」
住民たちは不満そうだった。それでも門を開けた。
リリアが通るとき、ニナだけが古い布を差し出した。
「濡れてるから」
「私が誰か知ってる?」
「ジュンお兄ちゃんを泣かせた人」
リリアの顔が歪む。
「でも、風邪ひくのは別だから」
ジュンの甘さは、すでに街の子どもへまで伝わっていた。
門をくぐったあとも、リリアへ石を投げる者がいた。
小石は彼女の肩へ当たり、泥へ落ちた。投げたのは、王国軍の侵攻で父を負傷させた少年だった。
「お前たちがジュンを捨てなければ、軍も来なかった!」
リリアは拾った石を握り、少年の前へ歩いた。
ジュンが止めるより先に、彼女は石を地面へ置く。
「そうかもしれない。ごめんなさい」
「謝れば治るのかよ」
「治らない」
言い訳をしなかったことが、かえって少年を困らせた。もう一つ石を拾ったが、投げられずに泣き出す。
リリアは手を伸ばさなかった。慰める資格がないと分かっていた。
ミレイアが少年を抱き、治療所へ連れていく。街の者たちは道を空けたが、誰もリリアを歓迎しない。
救う街だからといって、怒りまで美しく整うわけではない。
ジュンは彼女を客室ではなく、見張りのいる空き倉庫へ案内した。
「当然だと思う」
リリアは濡れた床へ座った。
「昔のあなたなら、自分の部屋を渡したわ」
「昔の俺は、相手を助けることと自分を削ることの区別がつかなかった」
「変わったのね」
「変えてもらった」
扉の外でアザリアが聞いている。隠す気もないらしい。
リリアはその気配に気づき、寂しそうに目を伏せた。
「私が捨てた場所へ、あの人たちが入ったのね」
「違う。そこは空席じゃなかった。俺が誰かのために消していた、自分自身の場所だ」
彼女は返す言葉を失った。
リリアは布を胸へ抱き、初めて自分が捨てたものの大きさを見た。
ジュンが倉庫の外へ出ると、待っていたラミナが声を落とした。
「罠の可能性、七十三%」
「このまま追い返す未来は?」
「彼女が教会へ戻り、処刑される」
「なら、正式に話を聞く」
五人の視線が一斉に刺さった。
「皆も同席してくれ」
視線が少し和らぐ。
会議室へ入ったリリアは、アザリアたちを見て唇を噛んだ。
彼女の視線は、七つ用意された椅子を数えた。まだ五人しか揃っていないのに、街の職人が先を見越して作ったものだ。
壁には子どもたちが描いた絵がある。黒い翼のアザリア。眼鏡をかけたセフィラ。雷を手にしたラミナ。大きな槌を持つガルネア。花に囲まれたミレイア。そして中央に、皆と同じ大きさで描かれたジュン。
リリアはその絵から目をそらした。
「王都では、あなたが女を魔法で従えていると言われているわ」
「失礼です」
アザリアが即座に答える。
「私たちは自分で選びました」
「そう。だから私を見る目が違うのね」
「あなたはジュンを傷つけた人です」
「分かってる!」
リリアの声が裏返る。
彼女は一度深呼吸し、法衣の袖を握った。手首に白い痣がある。教会の拘束印だ。
「私だって好きで来たんじゃない。教会に捕まって、過去の罪を全部読み上げられた。あなたを捨てたこと。レオンと嘘をついたこと。聖女の力が借り物だったこと」
「それで暗殺を命じられたのか」
ジュンの問いに、リリアの瞳が一瞬揺れた。
「何のこと?」
嘘だった。
ジュンには、嘘が魔力の濁りとして見えるようになっていた。それでも指摘しなかった。彼女自身が話す機会を待った。
「ずいぶん賑やかになったのね」
「用件は?」
ジュンは向かいへ座った。
「勇者パーティーは終わったわ。ガレスは酒場で暴れて投獄。メルダは学園から姿を消した。レオンは聖剣を失って、王にも見放された」
「それを伝えに来たのか」
「違う」
リリアは椅子を離れ、ジュンの前へ膝をついた。
「あの青い石、まだ持っているわ」
リリアは袋から婚約の印を出した。
ジュンが磨いた石には、細いひびが入っている。
「レオンから首飾りをもらった日に捨てようとした。でも、できなかった」
「だから何だ」
「本当は、ずっと分かっていたの。あなたが私を支えてくれたことも、レオンが私を飾りとして見ていたことも」
彼女は石を握る。
「分かっていて、勇者を選んだ。貧しい孤児の妻になるのが怖かった。聖女なのに報われない人生が嫌だった」
言い訳ではなく、醜さをそのまま差し出す言葉だった。
「ジュンが強くなったと聞いたとき、うれしいより先に思った。これなら私もまた特別になれるって」
リリアは自分で吐いた言葉に傷ついた顔をする。
「最低でしょう」
「人は、きれいな理由だけで動かない」
「それでも、やり直せない?」
「やり直すなら、俺とではなく自分からだ」
ジュンは青い石を受け取らず、彼女の手を閉じさせた。
「それは君が持っていろ。捨てたものを忘れないために」
このとき一度だけ、リリアは復縁ではなく謝罪を選びかけた。
だが、胸へ埋め込まれた聖遺物が鼓動し、彼女の言葉を飲み込んだ。
「やり直してほしいの」
机の下で、木が軋む。アザリアが端を握り潰しかけていた。
「私は間違えた。レオンなら私を王妃にしてくれると思った。でも、本当に私を守っていたのはあなた。今なら分かる」
「俺が弱いままだったら?」
リリアは答えられない。
「街を持たず、堕天使もいない。荒野で命だけ拾って戻った俺にも、同じことを言ったか?」
「それは……」
「お前が欲しかったのは俺じゃない。役に立つ俺だ」
言葉にしても、胸は晴れなかった。
リリアとの日々には本物の笑顔もあった。だからこそ、戻れない。
「復縁はしない。でも、ここで暮らしたいなら一人の住民として受け入れる」
「どうして、そこまで冷たくなれるの」
「冷たいんじゃない。俺も自分を大切にすると約束した」
アザリアが潰しかけた机から手を離す。
リリアは立ち上がった。涙を拭い、扉へ向かう。
「分かったわ」
その声から、何かが抜け落ちていた。
ラミナが椅子を蹴って立つ。
「ジュン、伏せて!」
リリアが振り返る。
法衣の内側から、白い短剣を取り出した。
刃には天界の紋章が刻まれている。
「ごめんなさい」
暗殺用の聖遺物が、ジュンの胸へ振り下ろされた。




