第23章「人間ではなくなる」
昇星の街へ戻った夜、ジュンは眠れなかった。
正確には、眠る必要がなくなっていた。
三日眠らなくても疲れない。食事を抜いても空腹を感じない。毒霧を吸っても喉一つ痛まない。
便利になった。そう思おうとした。
食堂の前を通る。焼きたてのパンの匂いがしたはずなのに、何も感じない。
前世で好きだった缶コーヒーの味を思い出そうとする。
苦かった。それ以上が出てこない。
「ジュン?」
ミレイアが立っていた。
「こんな時間に何を?」
「見回りだ」
「昨夜も、その前も?」
「眠くなくて」
彼女は笑わなかった。手を取り、脈を測る。
「心臓が二分に一度しか動いていません」
「でも生きてる」
「それを生きていると呼べるか、調べさせてください」
翌朝、ジュンは五人へ異変を話した。
検査の前に、ミレイアは小さな皿を三枚並べた。
一枚目に蜂蜜。二枚目に焦がした薬草。三枚目には、孤児院でよく出た薄い豆粥を再現したもの。
「味だけでなく、何を思い出すか教えてください」
蜂蜜は甘いと分かった。薬草は苦い。だが言葉以上の感覚がない。
豆粥を口へ運んだとき、古い食堂の光景が一瞬だけ戻った。年下の子へ豆を分け、自分の皿へ湯を足した夜。空腹より、向かいの子が笑った顔を覚えている。
「これは、分かる」
「舌ではなく、記憶で味わっています」
ミレイアは結果を書きながら唇を噛んだ。
「感覚が消えたのではなく、力を使うための情報へ整理されている。毒か、栄養か、温度はいくつか。それ以外を不要として捨て始めています」
「天界の見方と同じか」
「はい。世界を、生きる場所ではなく処理する対象として見るようになる」
ジュンは冷めた粥をもう一口食べた。
おいしくはない。それでも、食べる意味はある。
「毎日、皆と食事をする」
「空腹がなくても?」
「なくてもだ。味が分からなくなったら、昨日の味を教えてくれ」
続く検査は、食堂を閉めて行われた。
ミレイアが心音を測り、セフィラが魂の輪郭を紙へ写す。アザリアは自分と同じ魔力を探し、ラミナは変化が進む時間だけを見る。ガルネアはジュンの血を炉で熱し、人間の鉄分が残っているか調べた。
「検査方法が一人だけ怖い」
「文句言うな。血は返す」
「返さなくていい」
結果は帳面へ記録した。
睡眠不要。毒無効。心拍低下。魂視。感情による天候変化。記憶混線。
悪いことだけではない。夜通し病人を看られ、毒沼で薬草を採れた。誰かの嘘を見抜き、罠を避けられる。
「力を使わない選択も必要です」
ミレイアが言う。
「便利だから使い続ければ、人間だった感覚を早く忘れます」
検査の途中、ジュンは残っていた朝食のパンへ手を伸ばした。
ミレイアが焼いたパンを一口かじる。柔らかい。温かい。それは分かる。だが、小麦の甘さを感じない。
「おいしいですか」
ミレイアの問いへ、すぐ答えられなかった。
アザリアが自分のパンを半分に割り、ジュンの皿へ置く。
「こちらは私の分です」
「同じパンだぞ」
「違います。私が渡しました」
ジュンはもう一度かじった。
味は薄い。それでも、先ほどより温かく感じた。
セフィラが紙へ記録する。
「感覚は失われても、意味に結びつく感情は残る。完全な空白ではないわ」
ラミナは何も言わず、蜂蜜の壺をジュン側へ押した。ガルネアは肉を厚く切り、ミレイアは香草を増やす。
五人が必死に味を取り戻そうとしている。
ジュンはその光景を忘れたくなかった。
「パンの味は分からない。でも、うれしい」
ミレイアは泣きそうな顔で笑った。
その日から、ジュンは眠れなくても毎晩寝台へ入った。味が薄くても三食を皆と食べた。雨が降れば傘を差し、毒の場所では防具を着ける。
食卓では、料理の感想を一人ずつ言うことになった。アザリアの「熱い」だけは感想として認められず、セフィラに三度やり直させられた。
必要がなくなった習慣を、無意味とは呼ばない。
人であった時間を身体へ思い出させる、大切な儀式になった。
アザリアは自分の翼を一本切り、ジュンの血と比べた。セフィラは種族表示を解析する。ラミナは未来を見ようとして顔を歪めた。ガルネアは酒を置き、ミレイアは一晩中、生命の流れを追った。
「人間該当率、五十七%」
セフィラが告げる。
「契約のたび、天罰だけでなく私たちの性質も移っている」
「元へ戻せるか?」
「契約を切れば、可能性はある」
「それはしない」
「即答すると思った」
ガルネアが机を叩く。
「俺たちに相談しろ!」
「相談しても答えは同じだ」
「それを相談って言わねえ!」
部屋の空気が重くなる。ジュンの感情に反応し、外で雲が渦巻いた。
アザリアが彼の手を握ると、風が止んだ。
「ジュン。私たちを大切にするように、自分自身も大切にしてください」
教本から借りた正論ではない。彼女自身の、震える声だった。
「あなたが消えたら、私はまた封印されたときより暗い場所へ戻ります」
セフィラも眼鏡を外す。
「研究対象を失うのは困るわ」
「まだそれを言うのか」
「仲間を失うのは、もっと困る」
ラミナは未来を見ずにジュンの袖をつかんだ。ガルネアは拳を握り、ミレイアは背中へ手を当てる。
五人分の体温があった。
「分かった。一人で決めない」
「誓ってください」
「誓う」
その日の午後、ジュンは街の子どもへ剣を教えた。
稽古のあと、セフィラは一冊の帳面を渡した。
表紙には『八神ジュン』とだけ書いてある。
「毎日、三つ記録して。今日見たもの。感じたこと。あなたが選んだこと」
「宿題か」
「人間性の保存よ。記憶が混ざっても、昨日のあなたが書いた言葉は残る」
最初のページへ、ジュンは書いた。
『ニナが木剣で三回転んだ。四回立った』
『アザリアの料理を皆で止めた。本人は納得していない』
『味は分からなかったが、昼のスープをまた飲みたいと思った』
アザリアが背後からのぞく。
「私の料理は止める必要がありましたか」
「帳面を勝手に読むな」
「仲間の記録です」
ラミナも反対側からのぞき、ガルネアは声に出して読み、ミレイアが二人を叱った。
騒ぎの中でジュンは笑った。
この笑い方も書いておこうと思った。
帳面は日ごとに厚くなった。昨日の自分が何を選んだか、明日の自分へ残す道標だった。
ニナが転び、膝を擦りむく。泣き出した彼女を抱き起こした瞬間、知らない記憶が浮かんだ。
星を教えた少女。文字を覚えた少年。雷に焼かれる塔。燃える鍛冶場。疫病の赤子。
五人の記憶が、自分の幼い頃の記憶へ重なる。
「負傷個体を確認。治癒を推奨します」
自分の口から出た声に、ジュンは凍りついた。
言い方も抑揚も、封印から目覚めたばかりのアザリアと同じだった。
「今の、誰?」
ニナが涙を忘れて見上げる。
「俺だ」
そう答えた直後、頭の奥でセフィラの声が『不正確ね』と訂正した。
口調を真似たのではない。誰の言葉を選んだか、自分でも分からなかった。
「ジュンお兄ちゃん?」
ニナの名が出てこない。
一秒。二秒。
「……ニナ」
思い出すと、少女は安心して笑った。
夜、ジュンは一人で鏡を見た。
顔は変わっていない。瞳の奥に星が映り、耳元へ文字が流れ、髪の先から小さな火花が落ちるだけだ。
背後で何かが開いた。
鏡の中に、五枚の翼が映っていた。




