第20章「異世界人の墓」
校舎の時計は、二時十七分で止まっていた。
廊下には机が積まれ、窓の外は異世界の毒霧に覆われている。教室の黒板へ魔法陣が描かれ、その横に日本語の数式が並ぶ。
「ジュンの故郷?」
アザリアが尋ねる。
「似ている。でも、俺が通った学校じゃない」
職員室で日記を見つけた。
机は八十七年前の放課後で止まっていた。
採点途中の答案。飲みかけの茶。黒板へ残る『明日は避難訓練』の文字。持ち主が次の日も来るつもりだった物ばかりだ。
ジュンは生徒名簿を開いた。
一人ずつ写真が貼られている。笑う者、緊張する者、眠そうな者。天界の記録では『外部生命八十六体』としか書かれていなかった人々だ。
音楽室には、最後まで弦の張られた楽器があった。家庭科室の棚には、異世界の穀物を使ったパンの作り方が残る。理科室では、魔石を電池へ変えようとした実験器具が埃をかぶっていた。
「彼らも、この世界で生きようとした」
セフィラがレシピ帳をめくる。
「利用されただけではない。学び、作り、誰かへ渡した」
ガルネアは壊れた実験器具を一つ直した。アザリアは写真へ積もった埃を浮かせ、ラミナは未来視を使わず、名前を声に出して読んだ。
ジュンは知っている日本の歌を小さく口ずさんだ。
校歌ではない。葬送の歌でもない。それでも、同じ世界の言葉が静かな校舎へ戻った。
誰も記録しなければ、存在しなかったことにされる。
名簿の最後には、教師の字で短い備考が残っていた。
近藤美咲。数学が苦手。転移後は水魔法で井戸を掘り、最後まで一年生の面倒を見た。
原田修。喧嘩が多い。魔物の襲撃では校舎の扉を一人で押さえ、右腕を失った。その後、義手でパン窯を作った。
リン・シャオユエ。交換留学生。三つの言葉を話し、異世界の種族間交渉を任された。最初の共同市場を開いた。
名前の横には、英雄や賢者という肩書きがない。
遅刻が多い。猫が好き。辛いものが苦手。卒業したら美容師になりたい。
帰れなかった八十六人は、天界へ知識を渡すために生まれた集団ではない。それぞれに、途中だった暮らしがあった。
ジュンは一枚の写真で手を止めた。
廊下の隅に座り込む少年を、三人の友人が無理やり写真へ引き込んでいる。少年だけが笑っていない。写真の裏には『次は笑わせる』と書かれていた。
「次は、来なかったんだな」
自分も突然死んだ。机の上に途中の仕事や、返していない連絡が残ったかもしれない。異世界で生き直すことに必死で、前世で置いてきた側を考えないようにしていた。
セフィラは隣へ座った。
「忘れなくても、前へ進めるわ」
「残された人に何も言えない」
「なら、今いる人へ言い残さないことね」
ジュンはその日から、危険な場所へ行く前に必ず帰る約束を口にするようになった。守れる保証ではない。黙って消えないための約束だった。
だから五人は、名簿の全員をセレスティアル・レコードの余白へ写した。管理番号ではなく、本人たちが生きた名前で。
持ち帰る物も選んだ。
すべてを運ぶことはできない。校舎そのものを移せば、彼らが最後に守った場所を壊してしまう。
ジュンは名簿の写し、パンのレシピ、魔石電池の設計図、一本の楽器を選んだ。
「戦う武器は持っていかないの?」
ラミナが尋ねる。
「彼らが残したのは兵器だけじゃない」
ガルネアも同意した。
「強い物ばかり拾えば、天界と同じ見方になる」
レシピは食堂へ、魔石電池は夜学へ、楽器は子どもたちへ持ち帰ることにした。
ここで途切れた営みを、別の誰かが続けられる。そう思えば、墓は過去を閉じるだけの場所ではなかった。
書いたのは佐伯冬真。三十二歳の高校教師。地震で生徒とともに校舎ごと転移し、八十七年前にこの世界へ来た。
『天界は私を救世主と呼んだ。知識を渡せば生徒を元の世界へ戻すと言った』
日付を追うほど、文字が乱れる。
『火薬、蒸気機関、電力。渡すたびに生徒が一人帰った。本当に帰ったと信じたかった』
『帰還ではない。消去だった。世界にない記録を処分していた』
最後のページは血で汚れている。
『私はレコードを盗んだ。七人を解放すれば管理命令へ届く。だが七頁目は初期化の鍵だ』
床下に白骨があった。胸には錆びた教員証。周囲を小さな骨が囲んでいる。
ジュンは目を閉じた。
「帰してやれなかったんだな」
「天界は彼を利用した」
ラミナの声が冷える。
セフィラは壁の術式を調べた。
「彼は最後まで抵抗した。校舎を隠し、異世界人の魂が消去されない仕組みを作ったのね」
ガルネアが教室の椅子を集め、棺を作った。ジュンは日本の葬儀を正確には知らない。だから、名を一人ずつ読んだ。
誰にも記録されなかった者を、忘れないために。
> 他者の記憶を継承しました。
>
> 未登録生命への経験値分配が開放されます。
白骨から淡い光が上がり、夜空へ消えた。
佐伯の日記には、天界から送られた命令書も挟まっていた。
『異世界人は世界修正のための外部道具とする。使命完了後、記録を消去する』
「俺も道具として呼ばれたのか?」
「あなたは校舎ごとではない。出生記録も使命もない」
セフィラが首を振る。
「事故のように入り込んだ。だからレコードが扱えない」
偶然だった。
神に選ばれたわけではない。その事実に、ジュンはむしろ安堵した。
「特別じゃない顔ね」
「実際、特別じゃない」
「七人の天罰を背負おうとする普通の男は、十分珍しいわよ」
「褒めてないだろ」
「少しだけ」
最奥の教室で、石壁に刻まれた文を見つけた。
その前に、ジュンは放送室で一本の音声記録を見つけた。
魔石へ移された佐伯冬真の声だった。
『もし私と同じ世界から来た者が聞いているなら、まず謝る。私は英雄になりたかった。生徒を救うという名目で、天界から力を受け取った』
雑音の向こうで、男が息を整える。
『最初の町を救ったとき、人々は私を救世主と呼んだ。気持ちがよかった。生徒が一人消えたことにも、帰還成功という説明を信じた。信じたかった』
声はそこで長く途切れた。
『特別に選ばれたと思うと、人は見たいものしか見なくなる。君がレコードを持つなら、自分だけで決めるな。君を止めてくれる人を、大切にしてほしい』
記録は終わった。
ジュンは無言で魔石を握っていた。
「彼は、あなたと似ていますか」
アザリアが聞く。
「誰かを救いたかったところは。でも俺よりずっと多くを背負った」
「違いもあります」
「何だ?」
「あなたは、私たちへ止めてほしいと言いました」
ジュンは仲間たちを見る。
セフィラは当然だという顔をし、ガルネアは腕を組んだ。
「止めるだけじゃ足りねえ。殴ってでも戻す」
「それは手加減してくれ」
死者の残した警告が、今を生きる五人の約束へ変わった。
刃物で何度もなぞった日本語だった。
> セレスティアル・レコードを七ページ開くな。
その下に、さらに小さな文字がある。
> それでも開くなら、八人目を一人にするな。




