第9章「第二の契約」
「そこをどいてくれ、メルダ」
「できない」
「俺を捕まえるのか?」
「それもできない」
杖の先が揺れていた。
アザリアの周囲で重力が歪む。メルダの身体がわずかに沈んだ。
「アザリア、待ってくれ」
「彼女は敵です」
「まだ決まってない」
「私たちは、決められなかったせいでガレスを死なせかけた」
メルダが言った。
「ジュンを追放した翌日、甲殻蜥蜴に負けたわ。リリアの治癒は失敗した。レオンは黒竜の谷へ進むと言い張ったけど、私が転移術で全員を戻した」
「ガレスは?」
「学園の治療室。命は助かった」
安堵した自分に、ジュンは苦笑した。殴られた相手でも、死んでほしいとは思えない。
「あなたが支えていたのね」
「俺も今知った」
「そんなはずない。あなたはいつも先に危険へ気づいた。私の詠唱が乱れたときだけ魔力が戻った。レア素材が見つかる日は、必ずあなたが地図を持っていた」
「偶然だと思ってた」
「私もよ。都合のいい偶然を疑わなかった」
メルダは杖を下ろした。
だが、完全には手放さなかった。
「一つだけ確かめたい。あなたが力を得て、王国へ復讐するつもりなら、私は止める」
「必要なら王国とは戦う。でも、王都を焼くつもりはない」
「レオンを殺すつもりは?」
「今はない」
「今は、なのね」
「また仲間へ手を出せば、止める。その結果は保証しない」
メルダはジュンの目を見た。
三年前、彼が初めて一行へ加わった日と同じ目だった。力を持っても、怒りを持っても、目の前の命を数として扱わない。
「分かった。なら私は、勇者側に残る」
アザリアの周囲で重力が揺れる。
「裏切りですか」
「違う。レオンが何を命じられているか調べる。全員が離れれば、王国は別の監視役を置く」
メルダは自嘲した。
「追放を止めなかった卑怯さを、今度は潜るために使うわ」
「危険だ」
「あなたが言う?」
ジュンは返せなかった。
「証拠を守って、生きて戻れ」
「命令?」
「頼みだ」
メルダは初めて少し笑い、杖を完全に下ろした。
「止められなかった。ごめんなさい」
謝罪は小さかった。言えば許されると思っている声ではない。
「許すとは言えない」
「分かってる」
「でも、謝罪は聞いた」
それで今は十分だった。
「なぜここへ来た?」
「レオンが学園へ命じたの。ジュンに関する記録を全部消せって。地下にあなたの痕跡が出たから、私が先に確かめに来た」
「消す手伝いを?」
「違う。証拠を守るためよ」
メルダは懐から記録水晶を出した。レオンが王国の記録官へ虚偽報告を頼む会話が保存されている。
「これを公表すれば、勇者は終わる」
「今はやめてくれ」
メルダが目を見開く。
「どうして?」
「俺が復讐のために生きていると思われたくない。それに、追い詰めれば王国は証拠ごと君を消す」
「まだ私の心配をするの?」
「目の前で誰かが死にそうなら、する」
アザリアがジュンの外套を強く引いた。
「私は心配です」
「分かってる」
「違います。メルダばかり見ています」
メルダが目を丸くし、ノルドが露骨に顔をそらした。
「そういう意味じゃない」
「その言葉を今朝、恋人ではない説明にも使いました」
「あとで話そう」
「二人だけで?」
アザリアは満足げに手を離した。
封印された女性から笑い声が聞こえた。
「千年眠っている間に、ずいぶん面白い契約者を見つけたのね」
セフィラが目を開く。
瞼に刻まれていた文が剥がれ、床へ落ちる。
「久しぶりの現実は、夢より散らかっているわね」
紫の瞳が最初に見たのは、本ではなかった。
彼女はノルドへ目を向け、着古した教師のローブとインク染みの指を眺めた。
「文字は残ったのね」
「あなたが人へ渡したものです」
「天界は消したはず」
「人から人へ伝わりました。禁じられるたび、別の名前をつけて」
ノルドは初歩魔法の教本を差し出した。
著者名にセフィラの名はない。それでも最初のページには、彼女が千年前に作った文字の並びがそのまま使われている。
セフィラは表紙を撫でた。
「私は、自分の名が消えれば知識も死ぬと思っていた」
「知識はもう、あなた一人のものではありません」
その言葉に、彼女は救われたような、少し寂しいような顔をした。
「なら私は、続きを教えてもいいのかしら」
「ぜひ」
千年を隔てた創設者と教師が、短く頭を下げ合った。
ジュンはその姿を見て、封印を解く意味を改めて知った。強い仲間を得るためではない。途中で断たれた人生へ、続きを返すためだ。
紫の瞳が一同を見回した。
「再会を喜びたいけれど、先にこの無粋な文章を剥がしてくださる?」
「消去処理は?」
「七割を超えたわ。あと十分ほどで、私は名前から消える。急ぎましょう」
セレスティアル・レコードが開く。
> 第二封印を解除しますか?
>
> 継承天罰:《無知の烙印》
「解除する」
「待ちなさい」
セフィラが鋭く言った。
「アザリアの天罰を受けただけで、あなたの魂には亀裂がある。二つ目を入れれば、人間として何かを失う」
「あなたを消さずに解く方法は?」
「今のところ、ないわ」
「なら同じだ」
「自分の価値を知らない男は嫌いよ」
「奇遇だな。俺も物知り顔で諦める人は苦手だ」
セフィラの眉が上がる。
アザリアは止めなかった。ただ、ジュンの手へ自分の手を重ねた。
「痛みは分けます」
「契約前にできるのか?」
「できるようになります」
断言すると、黒い翼がジュンの背を包んだ。
ジュンは本へ手を置く。
「第二封印を解除する」
空中の文字が一斉に反転した。
黒い文章がセフィラの身体から剥がれ、細い刃となってジュンへ突き刺さる。
言葉が消えていく。
石。火。空。剣。痛み。
知っているはずの名前が頭から抜け落ちる。自分の名前まで思い出せなくなる。
「彼の名はジュン」
アザリアの声がした。
「八神ジュン。私を救った人です」
その言葉だけをつかむ。
ジュン。
自分の名を心の中で繰り返すと、消えた言葉が戻ってきた。
> 固有スキル《無限昇華》が天罰を経験へ変換します。
>
> 《無知の烙印》への抵抗に成功。
>
> 第二封印を解除しました。
文字の鎖が砕けた。
紫髪の女性が落ちてくる。ジュンは受け止めようとしたが、身体に力が入らない。
セフィラは空中で姿勢を変え、逆にジュンを抱き留めた。
「無茶をする坊やね」
「坊やはやめてくれ」
「なら、ジュンと呼ぶわ」
彼女の指が額へ触れる。膨大な文字と魔法の知識が流れ込んだ。すべては受け取れない。必要なものだけを《無限昇華》が選び、形にしていく。
> レベルが48から63へ上昇しました。
>
> スキル《高速思考》を獲得しました。
>
> スキル《術式改変》を獲得しました。
「興味深い能力ね。知識を丸暗記するのではなく、自分で理解した分だけ力に変える」
セフィラは顔を近づけ、ジュンの瞳をのぞき込んだ。
「千年分の研究対象を見つけた気分だわ」
「私は仲間を探しました」
アザリアが二人の間へ入り込む。
「研究対象ではありません」
「あら。仲間なら研究してはいけないの?」
「いけません」
「ジュン、規則が増えそうよ」
「もう増えてる」
セレスティアル・レコードの二枚目から、紫の光がほどけた。
> 第二契約を確認。
>
> スキル《術式読解》を獲得しました。
セフィラは表示を読み、満足そうに眼鏡を押し上げる。
「所有ではなく、共同研究者として登録し直しておいて」
「この本、そういう注文を聞かないんだ」
「なら、聞くまで書き換えましょう」
アザリアが小さくうなずいた。方法は違っても、同じ場所へ立とうとする者が二人になった。
ノルドが封印部屋へ歩み寄り、セフィラへ深く頭を下げた。
「創設者。あなたの知識を守りきれず、申し訳ありません」
「顔を上げて。知識は守るだけでは腐るものよ。あなたは生徒へ渡した。それで十分」
ノルドの目に涙が浮かぶ。
メルダは遠くで足音を聞きつけた。学園の警備兵が近づいている。
「裏の転移陣を使って。行き先は王都の外よ」
「君はどうする」
「残る。今逃げれば、レオンが証拠の存在に気づく」
メルダは記録水晶をジュンへ渡した。
「次に会ったとき、敵として立っているかもしれない」
「そのときは、理由を聞く」
「甘いわね」
「よく言われる」
ノルドが転移陣を起動する。
光に包まれる直前、セフィラが床へ落ちていた黒い文字を一つ拾った。
彼女の笑みが消える。
村へ戻る道中、セフィラはセレスティアル・レコードを何度も読み返した。
一枚目にはアザリア。二枚目にはセフィラ。表面上は封印記録に見える。
「何が気になる?」
「この本の名前よ」
「天界の記録だろう」
「違う。正式な綴りでは、最後の一字に二つ意味がある。記録と、終了」
セフィラが本を閉じた。
「ジュン。この本は、封印を解くためのものではありません」
紫の瞳に、初めて恐れが浮かぶ。
「世界を消去するための装置です」




