四十一話
フルケル橋のスバニア駐屯地の後方にはエクエス=シュヴァリンがいる。この報告はゲピュラ皇国の陣営に瞬く間に広がった。
「これは好奇だ。間諜の話では陣営は浮かれ騒ぎだそうだ。この私が水を注いでやる」
現皇帝ゲピュラ四世の長男ダッパジョーゾ公は拳を平手に打ち付けて、厚い胸板を鳩のように膨らませて意気込んだ。
「火に油を注ぐことにならなければいいのだけどね。見方を変えれば、敵の士気は今まで以上に高くなっていると言える」次男のカリエント公はそう言いながら、背もたれの高い椅子に深く腰掛けて足を組み、陣取り遊びの盤を手で示した。「兄上の番だ」
ダッパジョーゾは、カリエントの歳を重ねても美男子の名残りが見て取れる顔を見て、顎髭を生やした顔に無骨な笑みを見せた。
「だとしたら、その士気を挫く。私の精鋭部隊を全軍動かしてな」ダッパジョーゾは盤の上の駒を動かしてにやりと笑った。
「カリエント、詰めが甘いな。私の勝ちだ」
カリエントは椅子の背もたれから身を起こすと、勝てると思ったのに、と残念そうに言って再び椅子に腰掛けた。
「お前は先ほどから黙っているが、異論は無いということか? テレディア」
末っ子のテレディアは、ダッパジョーゾに似た無骨な表情のまま、二人の兄が遊んでいた盤の上を見つめている。
「兄上の決定に異論はない」
ダッパジョーゾは鼻で嗤った。
「変わらんな。意見があるなら言え。昔からそうだ。私達が話を聞かない者と陰で見下している」
テレディアは顎の筋を浮き立たせ、しかし表情は変えずに兄を見上げた。
「兄上の意見に賛成だ。兄上が兵を出すならば私も出す。父上は三人で西を征服せよと仰った」
ダッパジョーゾは目を細めた。
「ほぉ、それで? エクエスを打ち倒した功を肖るつもりか。そして何を算段しているのだ我が弟よ。西で密かに交易で稼いでいるお前のことだ」
手を叩く音に二人が目を向けた。
「我々が啀み合うのは向こうの利にしか成り得ない。兄上、テレディアが言う通り三人で力を合わせなければならない。父上もそう望んでいる。だから、私からの提案だ」カリエントは指で器用に弄っていた駒を机に置いた。
「奴らの士気は高い。ここで兄上の精鋭を送れば、向こうは相応の気を持って先陣に立つ。高い士気を鋼のように堅くするようなものだ。だから、ここは敢えて傭兵を送りましょう。高い士気は油断にも繋がるもの。雑魚を差し向ければ、エクエスを崇める彼らの誇りを踏みにじることができる。奴らの士気を怒りに変え、冷静さを失わせる。兵力で言えば我々のほうが多い。だから、ここはひとまず捨て駒を送り出すべき。同時に、エクエスの力が伝説どおりか確かめられる」
ダッパジョーゾが顎髭を撫でつけて、ひとつ鼻を鳴らした。
「よかろう。だが、決戦では我が軍が先陣を切る。忘れるな、弟達よ」
「それが一番利にかなっている。異論はないよ兄上」
ダッパジョーゾは黙っているテレディアを睨んだ。
「異論ない」
ふん、とダッパジョーゾは外套を翻して天幕を出ていった。
テレディアは盤の上を見つめた。カリエントが席を立ち、体を伸ばして天幕から出ていこうとするのを止めるように、呟いた。
「勝てたはずだ」
テレディアが盤を見ているのを見て、カリエントは肩を竦めた。
「兄上は頭も切れる。それに、武の才にも恵まれている。兄上が言ったように、私は詰めが甘いようだ」
カリエントが天幕の垂れ幕に手をかけると、再びテレディアが呟いた。
「兄上は、本当に兄上か」
「どういうことだ?」
テレディアはカリエントを見据えた。
「兄上は、他国に人質として送り出され、何十年も経って帰ってきた。決して楽な暮らしではない上に、死の縁も彷徨った。ダッパジョーゾ兄上の話では、兄上は家族想いの少年だったという。実の父親に他国に売られ、利用されて死にそうになったのに、なぜ今も家族を想うことができる?」
カリエントは自嘲するように微笑んだ。
「そういうことか。確かに、私は少年時代をネブリーナで暮らした。王族とは思えない暮らしをした。それでも、いつか故郷に帰れると信じていたからだ。どんな道を辿ったのであれ、今こうして私はゲピュラ皇国の皇子の一人としている。家族への愛は変わらない」
カリエントはテレディアの目を真っ直ぐと見返した。見えない緊張の糸は、カリエントの瞬きで消え失せた。
「失礼した。私は兄上との幼い頃の記憶がない。だから……」
「無理もない。それに、私は芸術家だ。芸術家は、変人が多い。格好つければ、複雑で繊細だ」
カリエントの仰々しい物言いに、テレディアはふっと笑った。
「それなら、最後に教えて欲しい。兄上の天幕に出入りしている白い衣の男は何者ですか?」
「詩人であり、私の善き相談役だ。賢者の如く私を導く存在だと言える。なんだその顔は。ユーモアの通じないやつだなお前は。彼は補佐官だ。軍事にも長けた者で、私の足りない部分を補佐してくれる優秀なやつだ」
「そうですか。私にも信頼できる誰かが欲しいものです」
カリエントは手を広げて顔を顰めた。
「まったく、心外だな。私は兄弟だぞ」
カリエントはテレディアを指差すと、天幕を後にした。
テレディアは兄の姿が消えると、盤に目を落として笑みを消した。
「道化め」




