三十九話
朝が始まり、看護師が格子窓を開け放ち、どんよりとした曇り空を見上げて、これは今日も降りそうですねと言うと、悪戯っぽい笑みを見せた。
「ウィリアムさんには毎日晴れでしょうけど」
看護師は入り口の方をちらりと見てから、意味ありげに微笑んで次の窓を開けに行った。
「おはよう、ウィリアアム」
籐かごに林檎を入れてやってきたマーシャルが、微笑みと共に寝台の横の椅子に腰かけた。ここ毎日のように訪れるマーシャルのために用意されたものだ。
他の寝台からすかさず、飽きもしない野次がとんで、それを看護師が注意する、いつもの朝が訪れた。
しかし、ウィリアムは窓から入ってくる風に揺れる、マーシャルの後ろにあるカーテンを見ていた。
「これね、今朝港の市場に届いたんだよ」
マーシャルはいつものように市場の状況を語り、林檎の皮を剥く。話は独唱のことに変わり、エクエスの聖剣アシュラムとの会話を嬉しそうに語り、そしてついに話題が尽きてマーシャルは窓の外に目をやった。
ウィリアムは一言も話さず、風が止んで動かないカーテンの向こう側の壁を見ていた。
「見てて腹が立つぜまったく」
松葉杖をついた患者がウィリアムの寝台の横を通り過ぎながら吐き捨てた。マーシャルが慌てて首を振った。
「わたしが勝手に押しかけてるだけですから、どうぞお構いなく」
患者は、茶色くなった林檎を見て目尻を痙攣らせた。
「おいこのウジ虫野郎。てめぇのために可愛い娘が毎朝きてくれてるのに、なに黙ってんだ」
患者の野太い声に、マーシャルは胸の前で手を握り立ち上がった。
「貴女もなぜこんな奴のために? 俺なら貴女の気持ちを無碍にはしない。礼の一つも言わないこの男のためにしてやることなどありませんよ」
「お気遣いありがとうございます。でも、どうか、お構いなく。わたしがそばにいたくて押しかけているだけですので」
男は鼻を鳴らすと、林檎を見て穏やかな声で言った。
「これから少し外の空気を吸おうと思っていたところなのです。小腹も空いているので、もしよろしければ、そちらの林檎をいただけませんか?」
マーシャルは逡巡し、壁を見つめているウィリアムを見て、つっと表情を曇らせるも薄い笑みでそれを消した。
「どうぞ。農家の方も喜ぶと思います」
それから一週間、マーシャルは変わらず毎日林檎を届け、話をし、ウィリアムを労った。そして、ウィリアムのために剥いた林檎が茶色くなるころ、マーシャルは「また明日ね」と言って去っていった。
マーシャルが剥いた林檎が載った皿を、男たちがむんずと掴み見下した視線を向けてくるのをウィリアムは感じていたし、視界の端で捉えていたが相手にしなかった。
こんなことをしてもらうことは、罪だ――ウィリアムは自分に言い聞かせた。マーシャルの微笑みと、美しい声に触れることはできない。あいつらができないことを感じてはならない。
別の日、マーシャルがいつものように寝台から去ったあとにウィリアムは身を起こした。林檎を取りに来ようと近づいてきた男が足を止めた。ウィリアムは周囲の好奇の視線を感じた。前までは気にすることもなかったその視線に、毛穴がむずむずしたが、気にせずに寝台の脇に足を垂らした。
久しぶりの地面の感触だった。冷たい石の感触が心地よかった。
皿を引き寄せながら、男を一瞥した。
「これは俺のだ」
ウィリアムは無言で林檎を食べ続けた。まるで珍しい動物を見るかのような視線が集まってきていたが、気にしなかった。ウィリアムは立ち上がろうとしたが、すぐに貧血に襲われて倒れそうになった。
「ウィリアムさん! あらまぁ、いきなり立つのは危険ですよ」
黙ったまま立つことを敢行するウィリアムに、看護師は急いで松葉杖を持ってきた。ウィリアムはそれを腋の下に入れると、腕を震わせながらゆっくりと立ち上がった。
ウィリアムは松葉杖をついて病室を出ようと扉の方へ一歩踏み出した。
「どこに行くんですかウィリアムさん! 誰か付き添ってあげてくれる?」
悪戯っぽい笑みを浮かべた看護師の一人が名乗りをあげてウィリアムの傍についた。
ウィリアムはベルド城の廊下をゆっくりと一歩ずつ歩いた。突き当たりまでやってきて左右のどちらに行こうか迷っていると、見るからに騎士であろう身なりをした三人が目に入った。
柔らかそうな綺麗な長靴に、天鵞絨の胴衣、肩には飾りの外套、飾り羽根をつけた片方がつばが反り返った洒落た帽子――コンティーレを思い出し、ウィリアムは顔を逸らした。
三人が長靴の拍車を鳴らして近づいてくる。ウィリアムの前を通り過ぎる瞬間、先頭の騎士が足を止め振り向いた。
その騎士は、片方の手を、琥珀よりも鮮やかな宝石を戴く剣の柄頭に乗せて、値踏みするようにウィリアムを見た。
「君がウィリアムか」
騎士は左頬にから耳に走る傷があり、灰色の瞳をしていた。ウィリアムはその男を見て息を呑んだ。マーシャルに果物を投げる学舎の野郎たちを止めて、石礫をくらわした、あの男だった。あのときはかなり擦れた軍衣を着ていたが、今は違う。
「君が、ウィリアム・ダーリアか」
ウィリアムが頷くよりも早く、傍にいた看護師が焦ったように恭しくお辞儀した。騎士も足を一歩ひいて恭しくお辞儀すると、ウィリアムに向き直った。
「ジョンは元気か。従士に任命してまもなくああなったのは、とても残念だった。故郷でうまくやっているといいのだが」
ウィリアムは二度も息を呑み、ぎこちなく頭を下げた。
「すみません。では、貴方が父を従士に召し上げられたエクエス=シュヴァリンですか。そうとは知らず……」
月剣院に入った者たちは、みなエクエスの活躍を知っている。その存在が目の前にあると考えて、ウィリアムは顔をあげることができなかった。
「君は、マーシャルくんを悲しませるのが趣味なのか?」
ウィリアムは顔をあげて問うように眉を曲げた。エクエス=シュヴァリンの灰色の瞳は、刃のように冷たかった。
「〝天を知らぬ者〟。そんな君に、マーシャルくんの想いを受け取る資格はない」
冷たく言い放ち、エクエスと連れの騎士の二人は看護師に挨拶をすると颯爽と廊下を去っていった。
天を知らぬ者――ウィリアムはなぜか胸騒ぎがした。
「今のエクエスの言葉の意味を、知ってますか?」
看護師は首を捻り、はっとなにかを思い出したように頷いた。
「おそらく星教にまつわる言葉だと思いますよ。フレル院に行ってみてはどうですか?」
ウィリアムは翌朝、看護師がくるよりも早く寝台から抜けると、鴇色の朝陽を写す雲を見上げながらひっそりとした廊下を歩いた。
そこにはベルド城が芸術的な美しさを保つゆえんたる姿があった。前掛けと羽のはたきをもった仕着せ姿の宮廷使いたちが静かに掃除をしていた。
宮廷使いの横を会釈しながら過ぎ去り、堂々と螺旋を描く幅の広い階段を下ってフレル院を目指した。
フレル院の、ゆうに一ビル――大人五人ほど――はある背の高い鉄張の扉は開け放たれていた。中の聖堂はスバニアのそれとは趣が違っていた。左右に側廊が奥まで延びて、中央の身廊には椅子もなく淡紅色の絨毯だけが敷かれていた。堂内の奥の内陣の天井だけ一段低くなっていて、天井はステンドグラスが嵌め込まれている。ステンドグラスが朝陽を取り込んで堂内を煌びやかに照らし出し、床には七つの星が線で繋がれた姿が落ちている。星教でもっとも崇高な七つの星、一週間の区切りにも一役かっているその星々が並び、線で繋がれた姿は蛇のようにも見えた。
「いやはや、珍しい」
音のない堂内に、朗々とした声が響いた。ウィリアムがその声につられて振り向いた場所には、白い髭を生やし頭を丸めた星官が立っていた。
星官は白い長衣のフードを外した手で、もっと奥に進むように促した。
「さぁ遠慮せずに奥へ。星に祈る戦士はそうそういません。星は毎日の感謝や希望を願い、敬うために存在し、貧者と王に等しく微笑みかける」
ウィリアムはステンドグラスを見上げた。星が瞬くような夜空が描かれ、濃淡色の青地は夜空を表しているのだろうと推測できた。そこに、色とりどりの星がある。
「俺は農民でした。豊穣を祈り、感謝するために祈ってきましたが、剣を握るようになってから祈ったことはありません。星教には、戦にまつわる神はいないのですか」
「おりません。星教は聖戦の終わりと同時にルヴァの〝愛と断罪の神サンアール〟が、人々が健やかな日を過ごせるようにとお授けになったものですから」
ウィリアムはステンドグラスを見上げたまましばし黙った。星官も、ウィリアムの傍らで見上げている。
「訊きたいことがあります」
星官は、ゆったりとした笑みを浮かべてウィリアムの言葉の続きを待った。
「〝天を知らぬ者〟とはどういう意味か、ご存知ですか?」
老人は頷き、裾を押さえながら優雅にステンドグラスを指し示した。
「あれは、夜空。ルヴァは――星教では星が神ですので、アルヴェ神話の神をルヴァと呼びます――夜空を天と呼びました。私たちが立つこの大地、その大地は夜空に瞬く星と同じように一つの星であり、天はそれらを納める箱であると言ったのです。天は夜空であり、夜空は箱である。〝天を知らぬ者〟とは、その漠漠とした箱でも満たせぬ人の欲を表した言葉であります。心を満たせない人間の愚かな心を、ルヴァは憂いていたのです」
心を満たせない愚かな心――ウィリアムは昨日の患者の言葉を思い出した。「礼の一つも言わない」と、確かにそう言った。俺はマーシャルの想いを受け取ることは罪だと思っていたが、それよりも思うべきことがあったはずだ。
マーシャルの純粋な気持ちを無碍にすることが誰のためになっただろうか。自分を責めることで自分を苦しめ、あたかも贖罪のように捉えて自分の弱さを正当化していただけだ。
なにもない俺を気にかけて、そして今は近くにいてくれている。どれほどありがたいことか。
ウィリアムは奥歯が痛くなるほど噛み締め、空えづきしそうになるのを堪えると、熱くなる目頭をおさめるべく震える息を吐いた。
ウィリアムはするべきことを理解した。天を知らぬ者であってはならない。今の俺は自分を愛撫する臆病者だ。マーシャルの愛を感じられているのは、一重に命があるからだ。それがどれほど……。
マーシャルに会いにいかなければ。
ウィリアムは星官の方を見た。
「すべきことがわかりました。ここは、自分を見つめ直すにはいい場所ですね」
星官は頷いた。
「すべては星々の導きにあります。さぁ、感謝しましょう。祈りましょう」




