三十二話
痛みが意識を侵食してやがて痛みと意識の境界線が曖昧になる。眩しい光と男と女の短い声のやりとり。誰かの呻き声に血の生臭さ。それらが長く長く続いた。自分が呼吸をしているのかもわからない。
――生きなければ。
だが、なんのために?
纏まらない思考は朦朧とした意識の中に溶けていき、目の前が真っ暗になった。
目を開けて最初に感じたのは全身に響く金の音のような痛みだった。漏らしそうになった呻き声が詰まり、ウィリアムは左手でシーツを握りながら目だけを動かして周囲を見回した。
看護師の白衣姿を見て、ようやく自分がどこかの病室にいるのだと知った。
看護師のゆっくりとした口調と笑顔に、ウィリアムはようやく呼吸を落ち着かせることができた。しかし、体を打ち鳴らすような痛みは残響のように続いている。
看護師はウィリアムの額に手を当てた。
「ここはプルッケル自由都市の治療院ですよ。まだ安静にしていてください」
「俺は……」
ウィリアムがつっと顔を歪めて黙った。
「まだ痛むでしょう? 手術から四日間寝ていたんですから、まだ動かないでくださいね」
ウィリアムは両手両脚があることを恐る恐る確認し、安堵の息を吐いた。しかしその安堵の余裕をすぐに不安の波が埋めてしまう。俺はどうなった? 何があったんだ? きっとあの明るい風景は手術のときの記憶だ。なら、霊樹の森で俺は、みんなはどうなったんだ?
看護師が驚いた様子で起きようとするウィリアムを押さえつける。ウィリアムは左腕に鋭い痛みを感じると同時に、寝台に沈み込むような倦怠感に征服されて再び瞼を閉じた。
寒気がした。髪の毛の一本までもが逆立つような震慄に体が動かない。周囲は暗く鬱蒼とし――ここは霊樹の森だ。男の叫び声が聞こえて振り返った。無意識に手を伸ばした腰の剣の柄を握ろうとしたが滑る。見れば自分の手は血だらけだ。今度は女の叫び声。引き笑い。
「コンティーレだ!」
ベーネがすぐ隣で叫んだ。剣で指し示す方には四人のコンティーレが木の間を走ってこっちに迫っていた。
ウィリアムは周囲をぐるりと見回した。ジルクートが不思議そうに一瞬こちらを見た。カルの父親が娘の肩を握って歯茎を剥き出して慄いた顔をしている。弓を構えているヤグサは冷静だった。そうだ、俺は霊樹の森にいるんだ。ウィリアムは剣を抜いた。手に血は付いていない。
紅涙のコンティーレが笛を口に当てた。ヤグサの弓の弦が弾けて笛を砕いた。
「なにやってんだウィリアム! 走れ!」
ベーネがウィリアムの肩を殴って叫んだ。
霊樹の森の中から引き笑いが聞こえてくる。
「あれはなに?」とカルが泣きそうになった。
「グズリだ。霊獣に棲む――」
「いま講義してる場合か、走れ莫迦!」
「これ以上の足止めは無理だ。矢が尽きた。あの笛野郎、他の笛まで持ってやがる」
「わ、私はもう無理だ」カルの父親が足を引き摺った。
ウィリアムは振り返り川下の先を見つめ、茫洋と見える大きな影を見つけて指差した。
「あの岩だ。あの岩で左に折れて真っ直ぐ進めば森から出られる。そうして南下すれば駐屯地が見えるはずだ!」ウィリアムは剣を手首で回した。「いけ、俺が足止めする!」
カルは青年達になんとも言えない、悔やむような視線を送ってから「ありがとう」と言って父親の手を引いて走り去った。
「足止めって言ってもよ……」ベーネが苛立たしげに言った。
「貴様には皮肉のほうが似合う」
「お前達っていつもこんななのか」とヤグサ。
ウィリアムは三人のやり取りに薄く笑んだ。こめかみにすらっと汗が落ちた。
「ここまで来たんだ。なんとしてもこいつらを倒して帰るぞ!」
ウィリアムの声に三人も剣を抜いた。紅涙のコンティーレの剣士二人がまるで儀礼のように、幅の狭い刀身の剣を片手でひゅっと振って風を切った。一人が距離を詰め、もう一人は後方で剣を顔の前に立てて何かを唱えている。鞭女の鞭は森の中では役に立たないと思われたがその期待を裏切った。雷を纏わせたような白い光を帯びた鞭は、意思を持ったように奇怪な動きをして四人を襲ったのだ。
ウィリアム達四人は最初の手合わせで苦いものを噛み締めた。後方で詠唱している剣士がこちらにやってくる前に、一人で突っ込んできた前衛剣士を倒す算段だったのだが、前衛剣士は目にも止まらぬ巧みな剣筋と素早い足捌きで三人を翻弄し、なにもないところで突如回避行動をとる。回避行動の後は大抵隙が生まれるもので、四人はそこを狙って攻撃を仕掛けようとするが、待っていたとばかりに鞭女の鞭が襲ってくるのだ。紅涙のコンティーレの掛け声もない連携に、四人は遂に距離をとった。
「あの詠唱をしている剣士がくる前に片付けねばならない」
「だったら俺が回り込んでやってやる!」
「無理だな。さりげなく試してみたが、この剣使い、後ろに行かせないようにしてやがる」
「俺達は互いの攻撃する場所を奪い合ってるんだ。こっちも連携をとらないと攻撃すらできない。ジルクート、前衛を頼めるか?」
「任された」
「ヤグサ、お前の風車みたいな剣技をジルクートの攻撃の合間に差し込んでくれ。ベーネと俺で鞭は弾く!」
「待て」ヤグサが顔を顰める。「笛使いはどこだ?」
四人はさっと見回した。
「笛の音はしないところを見ると、どこかに隠れているのだろう」
「……だといいんだが」
「喋ってないでさっさとやっちまおうぜ」
「やろう」
ジルクートが鋭く突きと斬撃を繰り出す。ヤグサが前衛剣士の横を取るようにしてつま先で半回転し剣を見舞う。まるで鍛冶屋に響く小槌と大槌のようにジルクートとヤグサの剣が前衛剣士を襲う。前衛剣士は凌ぐので精一杯なのか、それでも重心を崩すことなく見事な足と剣捌きで凌いでいる。
ヤグサとジルクートを狙う光る鞭が鬱蒼とした暗い森の中で閃いた。しかし、ウィリアムとベーネの剣が嫌な金属音を立ててその鞭を弾く。
「ってぇ!」
ベーネの言葉にウィリアムも苦い笑みを刷いた。鞭の衝撃は骨まで震わせて腕の感覚を奪い、キルト地の手袋で剣を握っているような不確かな不安感を抱かせた。このまま弾き続けるのは無理だ。そう思ったところに笛の音が聞こえてきた。
滑らかな旋律から始まったそれは一転して顫動音となった。そしてまた滑らかな旋律へと変わり顫動音へと……それが三回繰り返されたところで、ウィリアムは鼻の奥がつんとする感覚を覚えた。鼻がよく通るような感覚――相手の術中に落ちた。そう思った。
しかしそれは笛の男がグズリに追われて叫びながら木の影から飛び出てきたのを見て間違いだったと安堵した。笛の男は必死の形相でグズリから逃げて、鞭女は笛男の後ろのグズリを鞭で切り裂いた。
さらに、前衛剣士の湿った苦しそうな咳によってウィリアム達は勝利を確信した。前衛剣士の剣を握ったままの腕が地面に転がり、脇腹にはジルクートの剣が深々と体を貫いていた。
鞭女が仲間の死に叫び、鞭が感情を具現化させたかのように暴れ、グズリを焼き斬ると余勢を駆ってウィリアム達を手当たり次第に襲った。
ウィリアム達は木の影に飛び込んで頭上をかすめる鞭を躱し、起き上がると詠唱剣士が詠唱を終えて剣を炎そのものとして振るっているのを見た。自在に形を変える炎の剣が迫りくるグズリの群れと周囲の木々を焼き尽くしていく。鞭女の雷の鞭がのたうつ蜥蜴の尻尾のように無尽蔵に暴れ回り、ウィリアム達は地面に伏せてやり過ごすしかなかった。
恐怖と暗い森のせいか、ウィリアムは目を瞬かせて何度も顔を拭い冷静さを取り戻そうとした。しかし、雷の鞭が地面に伏せていたベーネの背中を打ち据えて、その衝撃で肉片が散る音と体が地面から弾んだのを見て、ウィリアムは呼吸を忘れた。
剣士の炎の剣が宙に浮かび、炎の短剣に分裂すると矢のように飛翔してジルクートの目を貫いた。赤くなった焼き鏝を当てられたように煙が昇り、ジルクートは体を硬直させて痙攣した。
ウィリアムは頭が真っ白になった。
ヤグサがウィリアムの胸襟を引っ掴んで引き摺ると怒鳴った。
「行くぞ!」
ウィリアムは思考を取り戻し、ヤグサの腕を力いっぱいに引き剥がした。
「だめだ! 俺はあいつらを見捨てない!」
「この駄馬が!」
ヤグサの言葉を無視してウィリアムはジルクートとベーネの元に駆け寄った。木々が倒れ火が上がり始めているためか、二人の体が見当たらない。それでも腕で顔を覆い進もうとした。あいつらの体だけでも……。
ヤグサがウィリアムを後ろから抱きつくようにして地面に倒した。ウィリアムは力まかせに肘でヤグサの脇腹を突き、振り解くと顔面を殴った。
「見捨てないと約束したんだ! お前は関係ない。いけ!」
「関係ないだと! ふざけるな!」
ウィリアムは振り返り、閃光と凄まじい衝撃を顔と胸に感じ――。
目を開けると刳形やアーチに装飾されたモルタルの高い天井があった。前掛けと白衣姿の看護師が三名走ってやってくると、一人が微笑んで見下ろしてきた。
「大丈夫ですよ」
「俺は……裏切ってしまった。見捨てないと約束したのに。俺は、あいつらを置いてきたんだ。いかないと。あいつらのところに戻らないと!」
ウィリアムは立ち上がろうとして体に強烈な痛みが走った。意味がないことは理解していた。だが、動かずにはいられない。
呻きながらも身を起こそうとするともう一人の看護師にのしかかるようにして押さえつけられ、もう一人が全体重を乗せて腕を押さえつけた。余裕の無い微笑みとともに、しきりに「大丈夫」と声をかける看護師はついに真顔になって全力でウィリアムの額を押さえつけた。
「約束したんだ! 行かせろ!」
「早く投与して!」
「もっと強く押さえてください! 針が!」
ウィリアムは体の痛みに耐えながら、目を開けていても思い出す光景に歯を食いしばった。鞭に打たれて肉片を散らせて地面から弾かれるベーネ、目に炎の短剣を受けて全身を痙攣させるジルクート――俺はなんで生きている?
左腕に鈍く重い痛みを感じ、直後に喉の奥が熱くなり即座に体が鉛のように重くなっていった。朦朧とする意識で掴まれるところはないか目をぐるりとさせ、看護師が注射器を手に持っているのを見たのが最後、ウィリアムは意識を失った。




