二十七話
マーシャルは目を丸くして、笑いを堪えようと口に手を添えた。
ウィオラが公園の少年顔負けの見事な振りかぶりで手毬を壁に投げつけ、まるで獣の鉤爪のように手を広げて天井に唸ったからだ。
王都スバニアの絹の豪商サイテ家の令嬢で五人娘の末っ子のウィオラは、金儲け以外で人を助けたくて歌剣院に出家した。それでも城壁の外で機織をしたり、畑を耕してきた娘よりは礼儀を知っていて、恭しい淑女のような気品を漂わせている。それが今ではヒステリックな娘となっていた。
「ジルクート、ジルクート! どうして手紙の一通も送ってくれませんの? こんなにも心配しているというのに!」
ウィオラは髪を鞭のようにしならせて振り返ると、腕を組んで体重を片足にのせた。
「どうしてあなたは飄々としていられまして? 殿方を想う気持ちは同じはず」
「わたしだって心配だよ。でも、きっと大変なんだよ。わたし達は部屋で寝れてご飯も満足して食べられる。雨に打たれることもなければ、いつ戦うことになるかもしれない恐怖に脅かされることもない。肌のことを心配して早く寝なきゃとか、そんな心配しかしてない」
「そんなことはなくてよ。旋律を解読し歌うときはいつだって不安でしてよ。ジルクートが苦しんでいるのはないかと。すぐにでも駆けつけたい、だけどそれができない苦しみと、知らないところで大切な人を失ってしまうかもしれない恐怖……」
ウィオラは言葉を詰まらせて背を向けると窓に近づき、菫の花が飾ってある窓台に両手を突いた。
マーシャルはそっと近づいて、ウィオラの肩を優しく握った。菫の花弁に雫が落ちるのを見て、マーシャルはウィオラを抱きしめた。
「ほんと、なにやってるんだろうねあの人たち。一言でも送れるはずだよね」
ウィオラが洟を啜り、マーシャルの手の上に自分の手を重ねて窓の外を見た。
「嘆くのはいつでもできるものね。ありがとうマーシャル。わたくしには今できることがありましてよ」
マーシャルは一度力を込めてウィオラを抱きしめた。苦しそうにウィオラが声を上げてようやく力を抜くと、マーシャルは頷いた。
「うん。だから、急ごう。掃除に遅れちゃう」
この日は歌剣院の棟の掃除で、マーシャルとウィオラは鉄製のへらで廊下の汚れを削ぎ落としていた。洗剤をつけては擦り、削り、腰と膝と手の親指の下の膨らみが痛み始めた頃、二人は廊下の曲がり角で一旦休憩を取ることにした。
「これは急いでもわわねばならぬ。他ならぬ騎士王の要請ゆえに」
「えぇ、重々承知しています」
マーシャルとウィオラは顔を見合わせた。
角を曲がった先は導師達の談話室がある。その部屋の前で誰かが話していて、女の方は導師長の震えるような声、もう一人は男の声だった。カンサルタ歌剣院に導師長に意見を言える男はいない。ゆえに二人は興味が湧いたが、それを隠すようにそれとなく休憩するフリをして廊下の壁に座り込んだ。
マーシャルはもう一つ興味が湧いた。どこかでこの男の声を聞いたことがある気がしたのだった。
「騎士王は決断なされた。我らがそれに応えねばならぬ。神秘の技は半世紀で無惨なほどに衰退している。ゲピュラ皇国は世界を席巻しようと戦火を広げている。しかし、それだけではないことを君もわかっているはずだ。その更に東、クリマーレ山脈とボスオン大砂漠を越えた地ではバルダス帝国が戦火を広げている。いずれこの東の大国は西とぶつかるだろう。そのとき、仲裁できるほどの力を持つ者がいなければ世界は灰になる。もはや、赤ノ国だけでは汚れを払うことはできない。わかっているであろう」
「はい、もちろん」
「いや、わかっていないなロッティリア。銀ノ剣で可決されてからもう一年も経つ。月剣院は今年の卒業生に剣を与えた。聖剣の依代である剣を。わかるかね? これは騎士王の決定だ。依代には、当然、宿るべきものがある」
沈黙が下りた。
「稀代の乙女といわれたそなただ。彼女達に教えることは造作もないであろう? 考えろロッティリア。他国に蹂躙されれば、我が国の神秘である神の旋律も奪われる。あぁ、君が言おうとしていることはわかる。しかしそれは間違いだ。神秘を解読できるのは自分たちだけだという傲りは捨てることだ。ゲピュラがネブリーナを属州にしたのを忘れるな。歌と音楽の都ネブリーナ。あそこの吟遊院の詩人の手にかかれば、我が国の神秘が利用される可能性がある。たとえすぐでなくても、孫の代、その孫はどうだ?」
「わかっております……」
「そなたは、戦を知っている。だからこそ、乙女たちを戦に向かわせることに抵抗があるのだろう? 君はここの乙女を娘達のように思っているのはわかっている」
つかのま、沈黙が訪れた。
「しかし、歌剣院は保護施設ではないことを忘れないで欲しい。歌剣院も、この国の軍事力だ。そして、東では若い男だけが多くの血を流している」
「それは、わたくしの子供たちに血を流させろとおっしゃいますか?」
今まで旦那に逆らえない妻のような声だったロッティリアの声に鋼が宿った。
「そうではない」男の声音は柔らかかった。「だが、事実、多くの若者の血が流れているのは間違いない。先日も報せが入った。救出作戦の部隊が全滅認定された。そこには、今年度月剣院を卒業したばかりの将来有望な若者の四人もいた」
マーシャルとウィオラは顔を見合わせた。互いの顔に薄氷のような緊張を見てとり、唾を飲み込むと二人は立ち上がり角を曲がっていた。
「それは、その殿方の名前は……?」
ウィオラの声は決然としていたが、前掛けを強く握っている。
男はスバニア騎士国の軍服ではなく、天鵞絨地の胴衣に、通りの水溜りを踏んだことがないだろう綺麗な革の長靴を履いて、片方の肩に儀礼的な外套を羽織っていた。
マーシャルとウィオラは、導師長の鋭い視線に背筋をただし俯いた。しかし、無礼でないように、男にはスカートの裾を軽く持ち上げて礼をした。
導師長がため息をついて男に礼をした。
「申し訳ございませんエクエス=シュヴァリン。わたくしの指導不足です」
エクエス――その称号にマーシャルは息を呑んだ。騎士の中の騎士であり、スバニア騎士国が誇る最高の騎士。そして、シュヴァリンという名にも聞きおばえがあった。四つある騎士団の一つ、アマールエクエスの騎士団長だ。エクエス=シュヴァリンは、騎士と呼ばれる人の想像とは幾分か――控え目に言っても――普通の男で、それよりも、仕事に疲れ、人生に疲れたような擦れた色を灰色の目に浮かべ、髪は戦場から帰ってきたばかりのように脂ぎっている。そして何より、左頬に目を逸らしたくなるような古傷があった。
「いや、乙女でもこれぐらい元気でなくては戦場で頼りにならない。質問の答えだが、名前までは知らないのだ。すまない」
エクエス=シュヴァリンは導師長に向き直った。
「ロッティリア導師長、戦いは戦争だけではないことを知っていて欲しい」
「それは……」
「噂ではない」
ロッティリアは体の前で重ねていた手に力を入れて胸を上下させると、エクエス=シュヴァリンの灰色の目を見上げた――答えを待つように。
「では、ごきげんよう」
エクエス=シュヴァリンは肩の外套を翻して廊下を去っていった。
導師長のロッティリアは、力を入れていた手を緩めると息を長く吐いた。二人がまだいることに気がつくと、さっと眉尻をあげた。
「ここで何をしているの?」
「掃除です」
「盗み聞きは掃除に含まれるのかしら?」
「いいえ」ウィオラが目を下げて言った。
導師長は鼻を鳴らしてからしばらく考えるように二人を見つめたが、考えを振り払うように首を振って談話室に戻って行った。
「わたし、あのエクエスを知ってる。井戸で会った人だわ。間違いない。わたしに、薔薇の棘は美しいものだって教えてくれた人。欠点は欠点でない。棘があってこそ薔薇なのだって」
「あら、いい言葉」
二人は膝を痛める掃除に戻った。




