二十六話
ウィリアムは丸眼鏡の老人の背中を押したい気持ちを堪えながら草原を走った。
「走れ、走れ!」
丸眼鏡の老人は苦しそうに喘鳴して倒れると体をピンと伸ばし、手足を痙攣らせて泡を吹いた。カルが振り返り老人の名前を叫んで戻ろうとしたのを父親が腕を掴んで振り向かせると、尚も抵抗するカルの目を覚ますかのように頬を叩いた。カルの父親は後悔したように手をさっと丸めたが、後悔を押しやるようにカルの肩を両手でしっかりと掴み見つめた。カルは非難するように見つめ返したが、父親の目に何かを見て、唾を飲み込んで口を堅く結んで走り出した。他の劇団員の背中に鈍い音を立てて矢が突き立ち、残ったカルと父親は口元を手で押さえながら、首を捻じ切るように前に向けて走った。二人はもう振り返らなかった。
ウィリアム達三人は示し合わせたかのように同時に剣を抜いて走るのをやめた。五十歩ほど離れたところにいる五人のコンティーレを振り返り、三人は諦めに似たものに肩を落とした。
「ふざけんな、五人もいるのかよ」
「それぞれ装備が違うぞ」
「コンティーレの真骨頂は連携による相乗効果にある。連携が取れたコンティーレは名高いスバニア騎士をも倒すそうだ」
ベーネが腹の底から乾いた笑いを洩らした。
「こんなときまでよくもまぁ見事な講義を。戦士じゃなくて、教師になるべきだったな」
「教師か……考えたこともなかった。悪くない。だが、戦士にならなければ婚約者と出会うこともなかった。後悔はしていない」
ウィリアムとベーネは整ってきた呼吸を一瞬止めて、ジルクートを見つめた。
「婚約者……?」ウィリアムは口を歪めた。
「まじかよ」ベーネは真顔だ。
「帰ったら、お前達に言おうと思っていた。一番驚く方法で教えようと思っていたが、何事も初めてに失敗はつきもの。人生で初のサプライズは失敗したようだ」
「いやいや……」
「それなら成功だジルクート」
ジルクートはふと笑みを刷く。
「お喋りは終わりのようだ、我が友たちよ」
十歩離れた場所に、五人が立っていた。笛、弓、剣士が二人、そして鞭をもつ女。五人ともよく鞣された赤い羊革の胴衣に、つばの片方が反り返った帽子を被り、片側の肩の外套を払いのけて背筋を伸ばした。スバニア騎士のように戦いにそぐわない豪華な装いは間違いなくコンティーレのそれだった。
堅く冷徹な表情をした剣士の一人が一歩前に出て、恭しくお辞儀をした。
「若者よ。我々は紅涙のコンティーレ。〝紅涙〟と呼ばれている。スバニアの若き同胞達よ、真の世界の剣になるべく、我々と共にこないか?」
「なんだって?」
「耳を貸すなベーネ」
「ウィリアムの言うとおりだ。気を散らす陽動でしかない。他の者の動きに注意するのだ」
紅涙の剣士は優美な動きで草原を見回した。
「国でこの丘や壁人のことを詳しくは学ばなかったであろう。なぜだと思う? 知識を制限し干渉規定で縛りつける。そんな騎士道で守るべきものが守れるか?」
ベーネが鼻を鳴らした。
「はっ、なにを言ってんだか。自分が守りたいものは自分がよく知ってる。それと同じくらい、あんたらの話が悪いってこともわかるぞ」
紅涙の剣士は片目の下にある紅い雫の刺青を指でなぞり、悲しげな目をした。
「スバニア騎士国がなくなっても、君は守りたいものが守れるのか?」
「どういうことだ?」
「ベーネ、耳を貸すなって言っただろ」
「いや、待てウィリアム。コンティーレは騎士団から抜けた騎士階級の者がほとんど。騎士団を抜けてなお騎士道を貫く彼らの言葉は聞くに値する」
ウィリアムは正気を疑うような目でジルクートを見た。
紅涙の剣士が笑んだ。
「賢いな青年。では、教えよう。スバニア騎士国が世界の剣として畏れられてきたのはもう昔の話なのだよ。かつては神王ルグリオスが治める赤ノ国と肩を並べて世界の警邏を担っていたが、神王を失い千年の時に赤ノ国は牙を失った。東の地のバルダス帝国の進撃を止めることはせず、隣国とも言えるクリマーレ諸国の王たちを制御することもできていない。
そしてその弱体はスバニアまでをも飲み込んだ。かつては赤ノ国とスバニア騎士国を恐れて南に手を出さなかったゲピュラ皇国が、プルッケル自由都市に手を出している。つまり、スバニア騎士国はすでに世界の抑止力ではなくなっている。スバニア騎士国の君主——現騎士王はゲピュラ四世と同世代の王。かつては友だったとも言われている。その情のせいか、ゲピュラ皇国の野心を際限なく膨らませたのだよ。皇国はスバニア騎士国よりも遥かに強大となり、今では東西の交易路の中間点だ。プルッケル自由都市を襲う前から、ゲピュラ皇国が世界の中心になるのはわかりきっていたことだ。危険は目に見えていたのに、騎士王は古代より続く騎士道や信念に固執して、国々の争いの仲裁役をただ演じ続けた。結果、ゲピュラ皇国はスバニア騎士国が争いを平らげるほどの力も度胸もないと確信し、世界の半分を掌握しようと動き始めた。
君達が身を置く——かつては我々も——スバニア騎士国は、かつてその名前を聞かせるだけで他国を思い留まらせた。その背景があっての騎士道であった。その力なき今、かつての騎士道は世界を正しく導く道にはなり得ない。騎士国が定める規定に従っていては、正しき道を世界に示すこともできない。だからこそ、我々コンティーレは鎖に縛られない劔として世界に正しき道を示す。風に運ばれる綿毛のように世界に正しき考えを播くのだよ。そうすれば、いつか世界は思いやりと赦し、愛に満ちて平和になる」
「貴様らの種が目指す理想は、たしかにいいものかもしれない。誰もが手を取り合える世界……。しかし貴様らは所詮傭兵、金がなければ動かないのであろう。皇国の手先として働いているのが信念欠如の証左、貴様らに騎士道を語る権利はない。私は違う、ここにいる仲間も。大切なもの、愛するもののために命を投げ打つ覚悟でここに立つ」
ジルクートは剣を構えた。
ベーネはいつの間にか下ろしていた剣を構え直した。
「ながながとどうも。俺にはちんぷんかんぷんでございました」
ジルクートは欠伸をかくベーネと、眉を顰めているウィリアムを見てから後ろを見た。そこにはすでにカル達の姿は見られない。矢を背中に生やしもはや動かない劇団員だけだった。
「しかし、十二ぶんに時間を稼がせてもらえた、紅涙殿、感謝する」
ジルクートの言葉に、ウィリアムとベーネは理由を悟って思わずと言ったように笑った。
「時間稼ぎだったのか。聞いたか洟垂れのコンティーレだっけ? 所詮、あんたらは騎士道から外れた外道だ」とベーネ。
「スバニアとカンサルタが苦しみの末に見つけた騎士道を理解しようとせず、自分の都合のいいように騎士道をねじ曲げた騎士かぶれってことだ。逃すつもりはないんだろ、始めよう」ウィリアムは剣を回して構えた。
三人と五人が睨み合ったそのとき、矢羽が風を切る音が聞こえ、紅涙の弓使いの首を矢が貫いた。
紅涙のコンティーレ達は衝撃を受けているようだった。鞭女が叫びながら駆け寄って膝を突き、弓使いの帽子を脱がせて膝に頭をのせた。
当然、ウィリアム達も困惑した。だが、三人は視線を交差させると互いの目の中に言いたいことを見て頷いた。さっと剣をしまい、南へ走り出した。
「おい! お前ら! こっちだ!」
声をした方を振り向くと、全身煤だらけのヤグサが弓を片手に手を振っていた。
「お前、生きてたのか!」
ベーネの言葉に頷いて応えるヤグサは、矢柄に短刀で刻みを入れると西の方へその矢を放った。最後の一本だった。
「俺以外は死んだ。お前らの仲間もだ。これからどうする」
三人が黙っているのを一瞥したヤグサは苛立たしげに唇を舐めた。
「きっと、カル達は霊樹の森に入って逃げたんだと思う。追おう」ウィリアムは走り始めながら言った。
「待て、誰かがドラ=ガラニに救援要請をしたほうがいいだろう」
走りながらジルクートがヤグサの背中を見る。ヤグサが肩越しに振り返った。
「よそ者に集落の場所を教えるっていうのか? ありえない」
ウィリアムの予想通り、カルと父親は霊樹の森の麓で暗い森の中を見ながら考え込むように立ち尽くしていた。ウィリアム達に気づいたカルが飛び跳ねて大きく手を振り、不安そうに胸元で手を揉んだ。
「森に入れ! コンティーレはまだくる!」
その言葉を無視してカルがウィリアム達の後ろを指差して何かを叫んだ。
ヤグサが腕を振って「散れ!」と叫び、ウィリアム達は蛇行して走った。
鞭女が仲間の形見で放った矢はヤグサの足元に突き立った。ヤグサは走りながらそれを引っこ抜いて矢筒に納めると、鞭女の怒りの叫び声を背中に森の中に飛び込んだ。
霊樹の森に入って、六人はしばらく全力で走った。しかし、進めば進むほど暗く鬱蒼としてきて、太く悶えるような木の根に足を取られて一行は立ち止まった。
ぜいぜいと喉を鳴らす六人は自分たちが走ってきた方向を汗が目に入るのを気にせずに見つめた。
「ま、巻いたようだな?」
カルの父親にジルクートが指を立てて口元に当てた。
そこからは身振りで休憩するのを促し、最小限の言葉と声の大きさで見張りの方向を決めた。
「南に進めば川に出る。川を伝って、ある地点で南に進めば森を抜けられる」
そうして森を進み続けた。携帯食料はとっくに底をついていて、ジルクートが古参の会話を思い出して川に入ると、たっぷりと時間をかけて根気よく魚を捕らえた。
川から離れなければ食料に困ることはないと知った一行の心には幾分か余裕が生まれたが、枝を踏むような音にはいちいち顔をあげた。
一行が一日――太陽が見えないのでだいたい――に進む距離はカルの父親次第になっていた。川沿いのがれ場に腰掛けて、長靴の上からふくらはぎや足首を揉み始めたらその日の進行をやめる。
「星でも見れれば気が紛れるのだが、そうはいかないようだね」カルの父親は見えない夜空を見上げた。
川よりも幅が広いがれ場の上まで梢が重なり延々と天井を作り出している。星の明かりはおろか、太陽すら拝めない。しかし、霊樹の森の中は茫洋とした光に包まれていて、足元を見れるくらいの明るさはあった。
「不思議な森ね」
カルが辺りを見回した。
「ここには俺たちも入らない」
ヤグサが寝っ転がりながら言った。
「そりゃ意外だ。いきなり決闘を望んでくるような奴らだから、てっきり大人になる儀式でグズリの一頭でも狩るのかと思った」
ベーネの言葉にヤグサは喉の奥で笑った。
「俺たちは草原の支配者だぞ。わざわざ森に入る理由がない。俺たちは三歳から馬に乗る。最初は親とだが、五歳になれば仔馬が与えられて、そいつを育てながら馬の乗り方、絆の結び方を覚えていく。七歳で弓作りを学び、狩を覚える。俺は十歳で最初の獲物を狩って、そいつの角と腱で最初の自分の弓を作った。膠の抽出から配合まで自分でやるんだ。それでようやく一人前だ。お前達はどうやって元服を迎える?」
ベーネが川に小石を投げた。
「まぁ……似たようなもんだな」
ベーネの言葉にウィリアムは首の後ろを撫で、ジルクートは無表情を貫いた。
ふん、とヤグサは鼻を鳴らしたが、それ以上は訊かずに続けた。
「俺の親父が剣の達人だってのは話したな。俺は十二歳かそこらで剣を習い始めた。剣弓駄馬になるからやめろと言われたんだが」
「けんきゅうだば?」
それまで黙っていたカルが割って入った。
「剣と弓の両方を極めようとする者は何にも秀でず、駄馬のように使えないやつになるって意味だ。だが、俺は親父の息子だ。だったら剣も使えなきゃ駄目だろう。弓の腕を伸ばせと言われたが、そうはいかなかった。結局、同世代では弓も剣も俺の右に出るものはいなくなったが……」
「ジルクートに負けた」笑いを含むウィリアム。
「いや、あれはかなり接戦だったぞ? サイードまで止めに入った。あぁ、あの人はいい古参だった。剣を習いたかったぜ」
ウィリアムはベーネに小石を投げて、ベーネが「なんだよ」と顔をあげた。
「いや、ウィリアムの言う通り、俺はジルクートに負けた」
「意外に素直なんだな」
「あなたっていつもそう卑屈なの?」
カルの言葉にベーネが黙った。
「あのとき、ジルクートの剣筋が見えなかったわけじゃない。俺の剣もすべてが通用しなかったわけじゃない。だが、こいつは息のひとつも切らしちゃいなかった。あの男が止めに入らなくても、お前はあの一撃を止めてたはずだ。受け流せずに、止める。俺はそれを狙ってた。だけどよ、俺はもうバテてた。親父が呼吸を乱すなとよく言ってたが、ああいうことだったとはな。外の世界には、ジルクート、お前みたいな剣の使い手が数え切れないほどいるんだろうな」
「なんだか楽しそうね」
カルの悪戯な笑みが想像できる声に、ヤグサが身を起こした。
「当然だ。外の世界に憧れないほうがおかしいと俺は思ってる。自分がどこまでやれるのか、それを知らずにどうやって限界を打ち破る」
「いいわね、わかるわその気持ち。あたしも、自分を産んで育ててくれた芸術がどこまで通用するのか知りたい。人形劇の芸術がなかったら、お父様もお母様も出会わなかった。あたしをあたしたらしめるこの芸術でどこまでいけるのか試してみたい」
「女なのに、随分と威勢がいいな」
「あら、女は男に敷かれていろとでも言うの?」
「そうじゃない。俺はただ、戦士でもない女のお前が信念を持って——」
「お前って呼ばないで。あたしはカル」
「名前で呼べって言うのか?」
「名前を呼ぶ価値もないって言いたいの?」
「そうじゃない、結婚もしてないのに名前で呼べるか」
沈黙が下りた。
「文化の違いとは、まったく、面白いものだ」とカルの父親。
「結婚と言えば!」
ウィリアムがベーネに指を立てて黙らせた。
「悪りぃ悪りぃ、だけどそうなるだろ。おい、お前だよむっつりジルクート。ウィオラちゃんと婚約してたのになんで黙ってた」
「この前言ったはずだ。サプライズのつもりでとっておいたのだ。失敗だったが」
「それは成功したよジルクート」
ウィリアムの言葉に、ジルクートは喉の奥で柔らかく笑った。
「なんとしても帰らなくちゃな」
「あぁ」




