二十五話
朝露がシダの葉の先で滴となって、逆さになった世界を写し、それは風に揺れてすっとウィリアムの鼻先に落ちた。ウィリアムは目を瞬かせて覚醒した。初めての戦闘から四回目の朝だった。
小鳥の囀りが聞こえてきて、鼻の奥がツンとした。森の中の心地よい朝。しかし、目が霞むような気がしてウィリアムははっと飛び起きた。この感覚は野営地での笛の音を聞いた後にも感じたものだ。
「ベーネ、ジルクート」
二人が眠そうにしながらシダの葉を掻き分けて顔を出した。
「この鳥の囀り、なんか変じゃないか?」
鳥の囀りは次第に引き伸ばすような抑揚に変わり、やがて旋律となった。もしもこれが鳥なら見事なものだ。ウィリアムは周囲を見回しながらそう思った。
「コンティーレか?」ベーネが音を探して辺りを見回した。
ジルクートがカルを起こし、カルが劇団員を起こした。
「狼だ!」
カルの父親が指を差して叫んだ。
「違う! あれはグズリだ!」
ベーネが叫び、今度はカルが狼と叫んだ。しかし同じ方向を見ているジルクートはグズリと叫んだ。
なにがどうなってる——二人の声に戸惑うウィリアムは笛の音を払うように髪を掻きむしった。木の影から獣が飛び出してきた。黄色い歯に卑屈な笑みを浮かべ、体毛はまばらな剛毛に覆われて顔は膿んで爛れている。グズリだ。
「霊樹の森ではないのに、これは妙だな」
「冷静になってる場合じゃないだろ!」
「ベーネの言うとおりだ。とにかく追手がいるのは確実なんだ。逃げるぞ!」
ウィリアム達は劇団員を連れて南へ走った。ベーネが悪態を吐いて踵を返し剣を抜いた。そしてなにも無いところを斬り始めた。
「なにやってるベーネ!」
ウィリアムの声に構わずベーネは剣を振るい、止めを刺すように地面に剣を突き立ててから抜いた。
「なにやってるじゃないだろう! あのままじゃお前がグズリに襲われてたぞ!」
「なに言ってる? お前はなにと戦ってたんだ?」
ベーネが反論しようと剣でたったいま立ち上がった場所を指し示し絶句した。
「おかしい……いや、いまここで」
「いいからこい!」
ウィリアムに引っ張られ、ベーネは不安げな表情のまま走り出した。
一行に休む間はなかった。岩の窪地を見つけて腰を下ろそうとしたら笛の音が聞こえ、そのたびに誰かしらが狼を見たり、ウィリアム達戦士の誰かがグズリを見た。そうして一行は追われている恐怖から逃げるようにして走り続けなければならなかった。
「あれは確かにグズリだった。グズリを見たことがないにしても、狼と間違えるか?」
ベーネが片手で自分の頭を抱えながら言った。
「確かにおかしい。だけどベーネ、お前は宙を斬って見えない何かと戦ってただろ。みな疲れて幻覚を見てるんだ。それに、追われている恐怖もある」
「ウィリアムの意見には一理あるだろう。しかし、決まって笛の音の後に変な事象が起こる。おそらく、魔具や魔法の類の仕業だ」
ウィリアムは残り少ない小麦の携帯食料を齧り水で胃に流し込んだ。水分を吸ってかなり膨らむこれは腹を満たすが、今は糖分が欲しかった。
「頭が追いつかない。幻覚と言ったら、ベーネ、変なものを食べたか?」
「まさか、なにも。キノコすら見てないってのに食えるかよ。見つけたら喜んで食うけどな。だが俺は狂っちゃいねぇよ。グズリを斬った感覚は確かにあった。忘れるはずがないだろ。霊樹の森で戦ったあの感触を忘れるはずがない。あれと一緒だった」
ジルクートがさっと顔をあげた。
「それだ。劇団員が本当に狼に見えているとしたらどうか。彼らは狼のようだったではなく、狼だと断言している。それぞれの記憶のものが見えているとしたら?」
「どう言う意味だジルクート。わかりやすく頼むよ。考えられるほど元気じゃないんだ」
ウィリアムの言葉にジルクートが居住まいを正した。
「我らは賜剣式で幻覚を見た。あれは聖歌による神秘だった。我らは幼い頃から神の話を聞いて育っている。いや、ベーネ、たとえ出身が田舎でもフレル院に訪れたことがある者、村にいたことがある者は皆アルヴェ神話を聞いている。そして神の美しき姿も聞かされて育つ。あの賜剣式の幻覚は、それぞれの想像の神の姿を見せられたのだ」
「つまり、あの笛は対象の中の記憶のなにかを見させているってことか?」
ウィリアムの言葉にジルクートが強く頷いた。
「そうだ。そして、それはおそらく恐怖だ」
「そうか、獣に対する恐怖はグズリの記憶が新しいし鮮明だよな。だから、狼だと言われて獣の中で一番怖いと思ったもんが見えたってことか」ベーネが立ち上がってカル達に数歩近づいた。「あんたら、ここまでの旅で狼に襲われたのか?」
カル達がぎくりとしたようにベーネを見上げた。そして誰も口を開かずに、ウィリアム達から分けられた携帯食料に目を落とした。
「私たちは最初二十人いたのだよ」カルの父親が重々しく口を開いた。「私の妻も、狼にやられたのだ。もう、この話はいいかね?」
ベーネは小さく頷いた。
「すまない」
「いいんだ」
ベーネの気まずそうな顔を見て、ジルクートが咳払いをした。
「しかし、これではっきりしたのではないか。あれは笛の音で相手を術中に落とす魔法だ。コンティーレは吟遊詩人に語られるほどの活躍をすることもある。笛の魔具、それに野営地で見た光の鞭、少なくとも二人の魔具使いがいる」
三人はつかのま黙った。
「小隊長達は、無事だろうか」
ウィリアムの言葉に返ってくる言葉はなかった。




