二十二話
霊樹の森を抜けた先には、なだらかな丘陵地帯が広がり、肌寒さを残す清涼とした風が芝生に銀色の波を立てていた。空には低く雲が流れ、丘の上を雲の影が動いていく。
救出部隊が踏み入れたカルダリーア丘陵地帯の北には、白い山脈がくっきりと聳え立ち東西に延々と伸びている。不動かつ、切れ目のない山脈は、まさしく〈世界の壁〉と呼ばれるににふさわしい様相を呈していた。
ジンダジスが腰に手を当てて大きく伸びをすると振り返った。
「なんにせよ、手がかりがないとどうにもならん。ロビン、集落の場所を覚えてないか」
「彼らは遊牧民ですよ。季節に合わせて移動しますので。ですが、今だったらまだ南の方にいるはずです」
「そううまくはいかないか。ならば、丘の上で一回一回見回せねばならなんか。なんせ、いくら低いと言っても襞状の丘には死角が生まれるからな。そこを見過ごして北に歩き続けるのはごめんだ。よぉーし。こつこついくぞお前ら!」
カルダリーア丘陵地帯を支配する部族ドラ=カルダリーアの氏族を探すために救出部隊は北に向かって進んだ。霊樹の森を抜けた時には東の空にあった太陽も背後の霊樹の森の頂点に重なっていた。収穫を得られずに誰もが口をきかなくなった頃に、岩場が剥き出しになった二つの丘が現れ、その谷の部分には二十人が休めるほどの広さの岩窟があり、救出部隊はそこで夜を明かすことにした。
その夜、見張りが慌ただしい足音で岩場を駆け下りてやってきた。太陽の下でならその表情がどれくらい青かったかわかったはずだ。
「小隊長、部族に囲まれています」
岩場の岩窟で焚火を囲んでいた小隊に緊張が走った。ゆっくりとジンダジスが立ち上がり、剣帯に親指を挟みながら、見張りがそわそわと岩場の外を振り向くのを尻目になにげない口調でロビンに話しかけた。
「ロビン、ドラ=カルダリーアは少し変わり者の民族だったな?」
ロビンが、そうです、と言いながら立ち上がって戦士達を見回した。
「決して武器を下ろすな。脅されても、絶対に下ろしてはならない」
干渉規定は争いを回避するために履行される規定のはずだ。ロビンは自分の言葉に全員の怪訝な表情を浮かべるのを見てとった。
「臆病者は容赦なく叩き潰される」
戦士達は盾を持ち円陣を組んだ。一番外の列は中腰、真ん中の二列目は立って一列目の上に盾を重ねた。もっとも中央にある三列目は頭上を覆うように盾を構える。弓使いと指揮官を中央に配置した、三段構えの防御の陣形を即座に組むと、ジンダジスの掛け声に合わせて揃った足音を響かせて岩窟から出た。
途端に堅いものが盾にぶち当たり硬質な音が響いた。スバニアの盾は涙型の樫の木板を、特別な鞣し剤で鞣した堅く薄い革を何層かで覆い、縁を金属で囲っている。耐久性、重量、耐火性に優れた盾で、それだけでなく表面がわずかに湾曲して丘のようになっていて衝撃を受け流す優れものだった。しかし、その盾の裏に矢尻が突き出した。
「なんて威力だ!」
ジンダジスは部下の盾を見てそう叫ぶや指示を出した。戦士達は亀甲陣形のまま壁のところまでやってくると、後方の戦士を前方に移動させて四つ重ねた盾の壁を作った。岩壁を後ろにして作った盾の壁の間には射手が矢を番えて静かに待っている。
しばらく盾に弾かれた矢が後ろの岩壁に当たって砕ける音が続いた。
「ロビン! お前の言うとおりやってるがうまくいくとは思えんぞ! 相手の矢が尽きるまで耐え凌げというのか?」
ジンダジスが不敵な笑いを滲ませながらロビンを見た。
「彼らと戦わない姿勢を見せ、かつ臆病者だと思わせない必要があります。ですので、守り通すのです。こちらも戦う意志があることは表示しつつ、攻撃しない。決して屈しない姿を見せなければなりません」
「確かか?」
「はい。二十年前のエクエス=ジュヴァリンとの遠征の折に、同じことをしました。あの時は、その、エクエス一人で数百人の矢を凌いだのですが……」
ジンダジスの不敵な笑みがゆっくりと消えていく。そして、部下の肩を叩いていきながら、矢が盾を叩き鳴らす音に負けじと声を張り上げた。
「聞いたかお前ら! 耐えろ! 朝食後の厠を我慢するのと比べたらこれがなんだ! 屁でもないだろう!」
戦士達は威勢のいい掛け声で答えた。しかしその気迫の籠もった声とは裏腹に、盾の隙間から見える丘の上の松明の数を見て、少なくない戦士がそわそわしていた。
丘の上に並んだ騎乗者と松明に照らされた弓使いは少なくとも百人はいる。
「我慢ならん! ロビン、あの騎乗兵が見えるか? 一人だけ外套を纏っているあの偉そうなやつだ。あいつの馬か横の奴の松明を射抜くことはできるか?」
無理だ――ウィリアムは背後で聞こえて来るジンダジスの言葉を聞いて即座に思った。盾の隙間から見える丘の距離は五十か六十メネン——大人の大股五十歩ほど——はある。盾の壁を開く呼吸一つぶんの間に狙いを定めて射抜くのは、それこそ歌になる。なんたってこんなにも暗いのだ。
「馬を射抜くのは卑怯者のすることです。彼らは馬を子のように扱うので、それをしたら争いは免れないでしょう」
「だったらなんでもいいからお前の腕を見せびらかせ!」
矢が盾に弾かれてピシャリと岩壁で砕けた。ジンダジスの目の前の戦士の盾を矢が貫通して戦士が呻く。
「松明の火で風は読める……。やりましょう」
ジンダジスが野太い笑い声で笑いロビンの肩を強く掴んだ。
「私の合図で壁を開いてくれウィリアム、トルン。小隊長、肩の手をどかしてください、これでは狙いをつけられません」
「おぉ」
ロビンの合図でウィリアムとトルンが左右に分かれた。弦の弾ける音がすると二人は素早く元の位置に戻る。誰もが盾のわずかな隙間から様子を窺った。そして歓声が上がった。
矢は外套の男の横で掲げられた松明を射抜いて見せたのだった。外套の男が手を上げた。矢の雨が盾を打ち鳴らす音が止んだ。そして、男の上げた手が前方に出され、松明の灯りの壁が迫ってきた。
「おいおいおい、あいつら進軍しているぞロビン! よぉーし、お前ら腹を括れ! 一人ずつ仕留めるぞ!」
戦士の掛け声が響いた。同時に、騎乗者たちが止まった。外套の男が松明を手に持って馬を進ませて前に出てくると、歓迎するかのように腕を広げた。
「俺はドラ=ガラニ! うんぬら、烏合の衆にあらず。武と仲に心得あるものと見た。先の矢を放ちし者、面を見せよ!」
外套の男――ドラ=ガラニは丸い顔の細い口髭の端を捻りながら愉快そうに大きな目を爛々とさせている。
「ガラニ……。おそらく、私の知り合いです」
「おぉ」
「覚えていればですが……。盾を」
盾の壁が開かれ、ロビンが出て行った。
ロビンはその男の姿を見て、やはり、とひとり頷いた。金属を纏わない革鎧に斜めに掛けた山羊の角と動物の馬の腱を使った複合弓を見れば、彼らがドラ=カルダリーアだとわかる。その男達の長ドラの称号を名乗るこの男は、以前会ったときは族長ドラ=コウの息子コウ=ガラニと名乗っていたはずだ。
「久方ぶりだ、ガラニ。ロビンだ。スバニアのロビン」