二十一話
火口箱、着替えの靴下、綺麗な包帯と聖剣歌の譜剣が調合した薬一式が入った医療箱、ジンダジスが配ったプルッケル産の蒸留酒が入ったスキットル、剣の手入れをするための油、綿、砥石、縄、蝋燭、紙に鉛筆、替えの靴下……。それらを詰めた背嚢を背負った二十名が、太陽を予兆させる群青色の空の下を出発した。駐屯地から一時間ほど歩いてブナやクヌギといった落葉樹が生茂る森に入った。やがて目的の川を見つけた。がれ場の岸をもつ川は幅が広くて勢いが強かった。
「まだ雪解けの影響が残っていますね」
ロビンの言葉に、小隊長ジンダジスは角張った顎を覆う無精髭をぼりぼりと掻いた。
「のようだな。ならば上流で渡るぞ」
「上流には霊樹の森があります。その手前で渡りますか?」
「うーむ。川の幅によるだろうな。霊樹の森の手前でもう一度考える。あとどれくらいで着きそうだ?」
「休憩を一度だけにすれば日暮れには麓につけるかと」
ジンダジスが部隊を振り返った。
「よぉしお前ら! 慈愛のフレルが空の頂点にきたら休憩する! それまでその熊みたいに毛深い足をせいぜい動かせ! いくぞ!」
それから三時間ほどがれ場を進み、太陽を頭上にして部隊は休息をとった。
「君がウィリアムか。クルシュヴァリン=ジョン・ダーリア元連隊長の息子なのだろう?」
豚の干し肉とプルッケル産の硬いパンのような味付き携帯食料を齧っていたウィリアムにロビンが話しかけた。
「はい、俺です、古参どの」
ロビンの横には褐色の肌と大きな目をもつ古参戦士もいた。驚くほど睫毛が濃くて女みたいな目をしている。肌は滑らかで、黒く短い髭を持つ男は見るからに異国人だった。
「俺はサイード。父上とは前回の遠征も共にした」
褐色の肌のサイードにウィリアムは会釈した。
「ロビンも私も、ジョン連隊長には世話になった身だ。あの不死身の連隊長がまさか戦場で怪我をするとは。てっきり遺跡の中の怪物と戦って死ぬ人間だと思っていた」
ロビンがサイードを嗜めるような目で見ると、ウィリアムに弁解した。
「悪気はないんだ。ただ、君の父上は少し人と変わっているからな。いい意味で。それで、父上はお元気であらせられるか?」
ウィリアムは目を逸らして曖昧に頷いた。
「わかりません。俺が最後に父を見たのは病棟でのことだったので。ただ、手紙では元気そうでした。祖父とあまり仲がよくないようで」
サイードとロビンが同時に笑い、ロビンが思い出すように唇を湿らせた。
「連隊長はいつも言っていた。〝こんな怪物、親父に比べれば朝飯前だ〟とな」
「父上はついに最強の敵と闘うことになったというわけだ」
二人の笑いにベーネが割って入った。
「こいつの父親と一緒ってことは、結構な霊獣を狩ってきたんですよね? この先にも霊樹も森があるってことは」
サイードが彫りの深い目を細めた。
「霊獣が怖いか」
「まさか」
あからさまに眉を顰めたベーネを、サイードは真っ白な歯をゆっくりと見せながら頷いた。
「だろうな。ロビン、俺も気になるところだ。この先の霊樹の森はどんな場所なんだ」
ロビンはそばかすのある顔の鼻を掻いた。
「大したことない。霊気の強いところになると、夜には森の中が光を帯びたりするが、そういう霊樹の森は見るからに怪しい。植生が見たこともないものになる。光るキノコを見たことがあるか? ない? 話ぐらいは知っているだろう。そういったキノコのように森の中が光る。葉の裏の葉脈に下生えの茎、樹の幹に至るまで。それは眠れないくらにな。しかし、ここの森は鬱蒼としているだけだ。多くは狼型のベイガロが群れをなしている。霊獣で気をつけるのはそれくらいだろう。人里が近いが、ここ最近はグズリの被害も聞かないからな」
「グズリって、人が霊樹の森で過ごした成れの果てだって……」
「母ちゃんが言っていたか?」
トルンが割って入りながらベーネを小突いた。
太陽が西の山の稜線にかかり始めた頃、その森は見えた。丘を越えた先に岩場が現れて、黒く鬱蒼とした霊樹の森との境界線のようにえんえんと続いている。部隊はその岩場で焚火を囲んで一夜を過ごした。
そして太陽が東の山の稜線からその身を余すことなく顕し世界を照らした頃、部隊は霊樹の森の中に入った。だが、木漏れ日として射し込む陽光はあまりに細く、霊樹の森の闇に呑まれて地面まで届いていなかった。
誰もが鬱蒼とした森の空気に呑まれ、一言も話さなかった。川のせせらぎの音がやけに響いて聞こえるのと、見えづらい足場に悪態をつく古参の声が思い出したように発せられるだけだ。
「こんなに暗かったら霊獣も動けないだろうな。なぁ、ウィリアム?」
ベーネがやけに明るく話しかけてきた。
「授業で習ったのだと、特別な器官を持ってるやつとかいるみたいだし、あんまり楽観的にはなれないけどな。ジルクートなら知ってるんじゃないか?」
「確かに、歩く辞書だもんな」
「誰がそのようなあだ名をつけたか教えてもらおうか」
「しかし、知識がないよりはいい。話せ、ジルクートよ」
トルンの言葉に、ジルクートは捨てるように息を一つはいた。
「ベイガロは一見、狼に似ているが、その体躯は四倍ほどもある。一組のつがいを頂点として、五頭ほどの配下で群れを作る。優れた狩人だ。そして頭もいい。わざと傷を負っているように見せかけて相手の油断を誘い、仲間が獲物の背後から襲いかかるような知恵もあると書物にあった」
「そうか、書物にな」
「講義をやめにしようか? 体力温存のためにも歩きながら話すのは避けたいのだが」
「気にするなジルクート。俺は聞いている、続けてくれよ」
ウィリアムの言葉に、しかたない、と一言言ってからジルクートは続けた。
「勇敢なベーネが気にも留めないでいたグズリのことを話そう。グズリはもともと人だった。霊樹の森の中で実る物を摂取し続けると体に異変が起きて、狂犬病のような興奮と錯乱状態に陥り凶暴化する。麻痺で死ぬ個体もあれば、そのまま順応して暮らす個体もある。そういった個体が繁殖すると、生まれてくるのは人の子ではなくグズリの子として生まれてくる。見た目は猿のように毛深いが、毛の生えていない場所は爛れている。そして、獲物を痛ぶる残忍さと、人の恐怖を煽るように引き笑いを泣き声とする。しかし、そこまで狩の技に長けているわけではない。背後を取られないようにすれば農民でも対処できるそうだ。それでも、爪や歯に傷つけられると感染症を引き起こすために油断はならない」
「と、書物で読んだ。だろ? 随分とおもしろおかしく言ったもんだ。褒めてやるけど、人があんなにおぞましくなるもんか」
「今の知識は、霊獣狩りを生業とする組合から入手した参考書からの引用で、信じる価値はあると思うが」
「あぁそうかい」
「そんなにビビることでもないぞベーネ。俺は月剣院に入剣する前はよく父上の森で狼狩りをしたもので、獣には慣れている。グズリなんてのは獣のなり損ねた人間である。大したことはないであろう」
トルンがベーネの肩を励ますように叩いた。
「あぁそうかい。そりゃ心強いよまったく」
霊樹の森に入って四日目に、それは聞こえた。気の弱い男がへつらうときのような笑い声、部隊の戦士達が一斉に足を止めて森の中を見つめた。
「グズリだ」誰かが言った。
「ここは深い! もう少し先で水面が割れている。あの浅瀬なら対岸に渡れるはすだ!」
そのロビンの声が恐怖と警戒心に硬直した男達の気を引き戻した。ジンダジスが剣を鞘から引き抜いて大声で指示を飛ばす。
「よぉしみな走れ! お前とお前、それにお前達は俺についてこい! しんがりを務めるぞ!」
剣で指し示されたロビン、サイード、ウィリアム達新米戦士は一斉に剣を抜いて小隊長について行った。
「荷物は仲間に渡しておけ!」
ウィリアム達は戦士に荷物を預け、身を軽くしてジンダジスの横に並ぶと、川を背にしてゆっくりと後退した。ロビンはしんがり隊の中でただ一人弓を構えている。
引き笑いが一つ、三本向こう側の木の方から聞こえてきた。目を凝らすも暗すぎてよく見えない。しかし、凝視していた視界の端のほうで何かが動いた。それに気づいた瞬間、ロビンの弦が弾ける音がした。異常に興奮した引き笑いをしながら暗闇からグズリが襲いかかってくる。
首元に命中した矢に気付いていないのか、グズリは卑しい笑い声を上げたままウィリアムに飛びついた。咄嗟に突き出した剣にグズリが刺さり、ぞっとする人のような叫び声を上げながら暗闇の中に逃げようとした。そのグズリの後頭部に見事に矢が突き立ち、グズリは地面に顔から崩れ落ちると動かなくなった。
「臆するな新米!」
ジンダジスの笑うような大声を合図にしたかのように、暗闇からグズリが一斉に飛びかかってきた。人並みの大きさをした猿のようだった。毛の生えていない顔は皮膚が爛れて膿んでいて、目は黄金の血管で充血していた。涎を引き笑いとともに垂れ流す口には歯がない。ウィリアムは驚いた——これがグズリ、ジルクートは本当に歩く辞書だ。
「化け物め!」
トルンの裏返った声とベーネの悲鳴にも聞こえる罵声がとんだ。
ウィリアムは目の前の異形の怪物に剣を振り上げて威嚇した。しかし、グズリは目を皿のようにして、ゆっくりと嘲笑を浮かべる。
「こいつ……」
恐怖はいつの間にか消えていた。剣が風を切る音がそこらじゅうで聞こえてきた。そのたびに引き笑いがこだまする。
「この野郎!」
誰の叫び声かもわからない言葉の後に、悲鳴が起きる。
ウィリアムは目の前のグズリの顔を剣の切っ先で切り裂いた。グズリは叫び声を上げながら転がるように森の中に逃げていく。グズリの、まるで人があげるような叫び声に背中の毛が逆立った。
仲間の悲鳴なのか、グズリの悲鳴なのかがわからない。目の前には二体のグズリ、周囲を警戒している暇はない。グズリは木の棒まで持ち出していた。あんな骨と皮だけの腕でどうして重い木の棒が触れるのだろうかと凝視しながら、ウィリアムは棒を弾いて腕を切った。ガツンと衝撃を感じて、それが骨に当たったのだと理解しておぞましい寒気にまたもや背中の毛が逆立った。
グズリは切られた腕を抑えながら変態じみた笑いとともに森の中へ消えていった。あと一体……。
絶望的な悲鳴が聞こえて、ウィリアムは剣を構え直して振り返った。
そして目の前の光景に目を疑った。
トルンが二体のグズリに腕を押さえつけられて地面に仰向けに倒れている。もう一体が奪った剣でトルンの腹を裂いて「イヒヒっ、イヒヒっ」と涎を垂らしながら内臓を引き摺り出し、更にもう一体がやってきてトルンの目玉を吸い始めた。トルンはそれでも絶叫を上げ続けている。
ウィリアムを突如衝撃が襲った。ウィリアムは地面に倒れ、揺らぐ意識のなかで地面に手を這わせて剣を探った。あった。すぐ横で喘ぐような息遣いと引き笑いが聞こえてきて、ウィリアムは雄叫びをあげながら剣の柄で無闇に殴りつけた。麻袋を殴るよりもずっしりとした感覚、引き笑い……。
ウィリアムは立ち上がってそのグズリの首を撥ねた。今度はなにも感じない。同時に絶叫が聞こえないことに気がついて振り返った。
トルンはすでに動いていない。両腕を投げ出し、四体のグズリがトルンだった物を啜っている。
ベーネが声ならぬ怒りと恐怖に染まった表情で力任せにグズリに向かって剣を振るおうとしている。ウィリアムもそれに続いた。
脇腹を裂かれたグズリは飛び出た内臓を引き摺りながら森の中に散り散りに逃げていく。その様子をぜいぜいと喉を鳴らしながらウィリアムは睨みつけていた。
「はっはっは! よくやったお前達、とんだ初陣だったな」
ジンダジスが汗を拭いながら言った。
「行きましょう。騒ぎを聞きつけて別のものがくるはずです。ですが、霊獣は水を嫌うので早いところ渡った方がいいかと」弓に矢を番えながらロビン。
「おい新米、しっかりしろ」
サイードの叱責の声に、ウィリアムとベーネは下ろしていた腰を上げた。
「トルンの遺体はどうするんですか? このまま放置はしたくありません」
ジルクートの声はいつものように冷静だが、剣の先が小刻みに震えている。
「時間がない。それに、死体がグズリを足止めしてくれるだろう」
新米戦士の三人ははっと息を呑んだ。しかし、古参戦士の誰もその言葉を否定することはなかった。




