予兆編②
「来てくれるなんて嬉しいよ、浅井さん。昼休みは友達と一緒に食べていると思ったけど、それを断って、ここに来てくれたんだね」
にこやかな笑顔と共にそう言われてしまったら、怒るべきか、つっこむべきか悩ましいところだ。
つまらない授業を吹き飛ばし、昼休みになって、私は哲学部を訪れた。
もちろん、お弁当を持参している。
あきらちゃんたちには「用事ができたから一緒に食べられない。ごめんね」と言っておいた。
こんなことしていると、本当に友達がいなくなっちゃうなと思った。
「うん、そうだね。本当はみんなと食べたかったけどね」
「食べてから来れば良かったのに。ぼくはずっと待っていたよ?」
「もしかしたら早く終わるかもしれないと思ってさ。まあでも、朝倉くんに言いたいことがあってさ」
「うん? なんだい?」
「メモに書かないで、ラインとか送ってくれない? せっかく交換したんだから――」
「ああ、ごめん。少し驚かせたかったんだ」
悪気もなくそう答える朝倉くんに、私は肩の力を落とした。
「確かに驚いたよ。でもどうして数学の教科書に入れたの? 数学は五時間目だから、もしかしたら、気づかない可能性もあったじゃない」
「初めは一時間目の国語の教科書に挟もうとしたんだけど、机の中を覗いたら数学の教科書があったから、もしかしたら数学の予習をしていないので、朝にやるのかもしれないと推理したのさ」
そんなところで卓越した推理力を発揮しないでほしい。
「でも、私がもしも数学の予習しなかったらどうするの? そのまま、待っていたの?」
「うん。昼休みはだいたい哲学部にいるから、別に困らないし。それに待つのは嫌いじゃない」
待つのが嫌いじゃないって、そんな感覚はおかしいなあと思った。
暇潰しの手段がたくさんあれば、いいんだけど、それでも寂しくないのだろうか。
一人っきりで部室に篭って思索に耽るなんて。
まあ哲学者みたいだとは思うけど。
「それに、文学部の活動にも参加したいでしょ? そのために昼休みにちょっとやろうと思ってね」
「それはありがたいけど……」
流石に二日連続で休むのは不味い。
それなりに心遣いしてくれているのかな?
「ああ、お弁当食べていいよ。ぼくも食べるから。一緒に食べようよ」
そう言って、コンビニのロゴが入ったビニール袋を取り出す。
「そうだね。たまにはいいかもね」
私も机の上にお弁当箱を置いた。
私はご飯に卵焼き、ウインナー、ポテサラ、ほうれん草の胡麻和えといった平凡な内容。
朝倉くんはコンビニのサンドウィッチ二つ。具はタマゴサンドとハムサンド。
「そんなので足りるの?」
「うん? ああ、ぼくは燃費が良いから、これだけで足りるんだ」
少食なのかな? 男子らしくないなって感じた。
私と朝倉くんは手を合わせて「いただきます」と言って、それぞれの昼食を食べ始めた。
今日もお母さんの作ったお弁当は美味しかった。
私もこういう風なお弁当を作れる大人になりたいな。
「ごちそうさまでした」
「えっ? 速いよ!」
食べてから五分もしない内に食べ終わった朝倉くん。
「よく噛んだの? 咀嚼したの?」
「うん。したよ。丸呑みは身体に悪いし、美味しさを感じられないじゃん」
早食い選手権が今でもあったら、絶対優勝するだろう速さだった。
私はまだ、五分の一ぐらいしか食べてない。
「ゆっくり食べてていいから。ぼくは本でも読んでいるよ」
朝倉くんは机の中に仕舞っていた本を取り出し、読み進める。
ええ……? 会話しないの……?
これじゃあ一緒に食べる意味なくない?
私は気持ち急いで食べる。
人を待たせるのが嫌いだから。
本を読んでいる人の目の前でご飯を食べる経験は初めてだった。
なんか、辛いなあ。
「……ごちそうさまでした」
いつもより速めに食べたけど、それでも十分はかかってしまった。
「浅井さん。昨日貸した本はどうだった?」
ご飯を食べ終わるとすぐに訊いてくる。
結構マイペースな性格しているのかも。
「うん。読んだよ。面白かった」
ソクラテスの何もかも知らなかった私としてはすべてが新鮮に感じられた。
「どんな人物だと思った? 賢い人? 偉大な人? 尊敬すべき人?」
「その三つはすべて当てはまるけど、私は困難に立ち向かっていく人だと思った」
賢いし偉大だし尊敬に値する人。
それ以上に立ち向かう人だという印象を受けた。
「それはどういう意味で? いろんな賢人とされている人たちの無知を暴いたから? いつでも逃げられたのに敢えて毒杯をあおったこと? それとも恐妻家だったことかな?」
最後は余計なんじゃないかな?
「そうだね。無知の知を明らかにするために賢人と立ち向かったのもそうだし、死刑を受け入れるのもそうだと思う。悪妻は……ちょっとだけ同情するよ。クサンティッペのほうに」
「悪妻のほうに同情するの? 同じ女性だから?」
「いや、ソクラテスみたいな人と結婚したら誰だって悪妻になるでしょ」
私の言葉に「ああ、なるほどね」と朝倉くんは納得したように呟いた。
「それと立ち向かう人っていうのは、自分の正しさを理解していたところだね」
「正しさ? ああ、ソクラテスの言葉に『単に生きるのではなく、善く生きる』ってことかな?」
「そう。そのために死を選ぶって、なかなかできないよ」
「浅井さんは正しさのためなら、自殺してもいいって思うの?」
「私は自殺したいと思ったことはないし、自殺するほどの正しさに出会えていないから、なんとも言えないよ」
自殺する人間が強いか弱いか判断つかないけど、それでもソクラテスは強い人だと思う。
紀元前に生まれていても、その名と思想が伝えられているのだから、尊敬はされていたと思うし。
変人だけど。
「ぼくも実は、そうなんだ」
朝倉くんは唐突に話し始めた。
「ぼくもソクラテスのように、正しさを胸に死にたいと思っているんだ。まだ正しさを知っていないから、自殺しないだけ。ただそれだけなんだ」
いきなり、そんなことを言われて、なんて反応したらいいか分からなかった。
「朝倉くんには――未練とか後悔とかないのかな?」
私はやっとそう言うと、朝倉くんは「ないと思うよ」と言った。
「自分が正しいと認識できたら、それだけで死んでも悔いはないと思うね」
本気で言っているのは声の調子で分かる。
この人は、本当に、変人なんだとようやく気づいた。
友達になって間もない私に、自分では変だと思わない変なことを平然と言える。
メンタルが強いとか弱いとか、そんな次元ではない。
まるで哺乳類の中に爬虫類が混じっているような感じだ。
この人――おかしい。
これはあきらちゃんも警戒するのも無理はないと思った。
それでも――私は朝倉くんと友達になったことに後悔はなかった。
どうしようもない人だけど、見捨てるような真似はできないだろうと確信した。
友情か同情か分からないけど、それでも情はあった。
だから――
「朝倉くんが死んだら、悲しいからやめてくれる?」
言葉が考える前に出てしまった。
「……えっ?」
流石の朝倉くんも予想外の言葉に驚いたようだ。
「だって、せっかく友達になれたのにさ、自殺なんてされたら、悲しくなるよ。辛くなるよ。だから絶対自殺はやめて」
言葉がすらすら出てくる。まるで誰かが私を操っているような奇妙な感覚。
「そ、そう? だったらやめようかな?」
朝倉くんは動揺しているようだった。私も内心、ドキドキしていた。
「そう。良かった。あと、もう二度とそんなことは言わないでね」
照れ隠しに、そう釘を刺すと「分かったよ。もう二度と言わない」と約束してくれた。
その約束が破られないようにしてほしかった。




