オークヘイヴンの偽りの平和
遠くから見たオークヘイヴンは、大地に刻まれた巨大な傷跡のようだった。
その街は、途方もない大きさを誇る古代樹の化石化した切り株の上に築かれていた。
中立都市を守るのは、高さ二十メートルにも及ぶ巨大なルーン石壁。
鉄の門の上では、数十もの勢力の旗が、中央混沌領域の乾いた風に揺れている。
だが――
その内部は、耳を塞ぎたくなるほど騒がしかった。
何千もの異形の者たちが、石畳の大通りを行き交っている。
魔法の絹を纏ったハイエルフ。
ルーンビールの樽を担ぐドワーフ。
ティーフリング。
ケンタウロス。
そして、傭兵用の鎧を身につけたオーガまでいる。
本来なら決して同じ場所に存在するはずのない種族たちが、緊張と偽りの調和に包まれながら、この街で共存していた。
「頭を下げて歩いて」
ニクスが小声で言いながら、ホブゴブリンから奪ったボロボロの外套のフードを深く被った。
「オークヘイヴンを支配しているのは、傭兵王バルタザール。古代の鉄のタイタンよ」
ニクスは周囲を警戒しながら続ける。
「この街の掟は絶対。街の中で武器を抜いた者は――あの男の《血の自動人形》に処刑される」
その隣を歩くトムは、周囲を見渡していた。
その目は、獲物を狙う捕食者のように冷たい。
彼には、この街が繁栄した都市には見えなかった。
狭い通り。
敵を追い詰めるには十分すぎる袋小路。
屋根の上に設置された弓兵の射撃地点。
そして――
簡単に毒を混ぜられる水源。
すべてが、戦場に見えた。
「力によって維持された平和、か」
トムが低い声で呟く。
「なら、ルールを維持している奴を消せば――この街は勝手に殺し合いを始める」
ニクスはトムを見た。
背筋に、冷たいものが走る。
「あなた……この街を滅ぼすつもりなの?」
「選択肢を確認しているだけだ」
トムは興味なさそうに答えた。
「それより、魔力結晶はどこにある?」
*【現在魔力:45%】*
自然回復だけでは遅すぎる。
眼力を使っても即座に魔力切れで倒れないだけの余裕を確保するには――
高純度の魔力石を大量に確保する必要があった。
「《魂の市場》よ。下層区画にある」
ニクスは、様々な種族の商人たちが露店を並べる広場を指差した。
「ここから少し先」
二人が人混みの中を進んでいく。
すると――
周囲の視線が、次第にトムへ集中し始めた。
その服はズタズタに引き裂かれている。
乾いた血が付着していた。
ダークエルフ。
竜人。
オーク。
それぞれの血が、まるで勲章のように服に染み付いている。
そして何より――
彼は人間だった。
鎖もない。
奴隷の刻印もない。
中央混沌領域では、それだけで異常な存在だった。
「……これはまた、風変わりなものが運ばれてきたな」
前方から、甘い声が響いた。
だが、その声には隠しきれない侮蔑が混じっていた。
人混みが左右へ割れる。
四人の姿が現れた。
先頭に立つのは、銀色の髪をしたハイエルフ。
輝くミスリルの鎧を身につけ、腰には魔法の細剣を携えている。
その両脇には、巨大なアースィマールが二人。
黄金の羽根を畳み、冷たい目でトムを見つめている。
そして、その後ろには――
拘束ルーンが刻まれた奴隷首輪をつけたミノタウロス。
「人間の汚物が、貴族区画を自由に歩いているだと?」
ハイエルフが一歩前へ出る。
細剣の柄に手を添えた。
「しかも、エルフの血の腐臭まで漂わせている」
ハイエルフはトムの服を睨みつける。
「その服……どこで手に入れた?」
ニクスの顔から血の気が引いた。
二歩後ろへ下がる。
「……エルフ連邦の《銀の衛兵》よ」
彼女は震える声で囁いた。
「魂の市場の監察官みたいな連中……」
そしてトムを見る。
「トム、戦わないで!」
「こいつに触れたら、オークヘイヴンの自動人形が――」
「おい、そこのティーフリングの娘」
ハイエルフがニクスの言葉を遮った。
そしてトムを指差す。
「その奴隷はお前の所有物か?」
ハイエルフの鼻が僅かに動く。
「こいつからは、貴族殺しの臭いがする」
口元に薄い笑みを浮かべる。
「二人とも跪け」
「魂の検査を受けてもらう」
「拒否するなら――」
ハイエルフの後ろに立つアースィマールたちへ視線を向ける。
「こいつらに、お前たちの脚を切り落とさせる」
その顔には、自分が安全を守る側だという優越感が浮かんでいた。
トムは立ち止まった。
ハイエルフを見る。
次に――
二人のアースィマールを見る。
*――簡易分析。*
* **ハイエルフ:** 魔術師/剣士。ミスリル鎧。魔法耐性は高いが、関節部は物理攻撃に弱い。
* **アースィマール:** 精鋭戦闘員。天上系治癒能力が常時稼働。
* **ミノタウロス:** 精神支配下の奴隷。弱点――ルーン首輪。
「質問に答えろ、人間」
ハイエルフが唸る。
左手を掲げる。
鋭い風の魔法陣が、淡い光を放ちながら展開される。
「跪け」
トムは、ほんの少しだけ目を細めた。
「……お前、喋りすぎだ」
次の瞬間。
トムが一歩、前へ出た。
魔法はない。
魔力の輝きもない。
ただ――
何百年、何千年にも及ぶ殺し合いの中で磨き上げられた、純粋な速度だけ。
*SWOOSH!*
一瞬で間合いが消えた。
トムはハイエルフの死角へ潜り込む。
右手で魔術師の手首を掴み――
そのまま、あり得ない方向へ捻り上げた。
*CRACK!*
「アァァァァッ!」
ハイエルフの絶叫が響く。
同時に、展開されていた魔法陣が火花を散らして消滅した。
だが――
トムの動きは止まらない。
ハイエルフの身体をそのまま盾として引き寄せた。
その直後。
二人のアースィマールが光の剣を抜く。
「死ねッ!」
二本の聖剣が振り下ろされ――
ハイエルフの両肩を貫いた。
「ぐぁぁぁっ!」
「なっ……!」
「この野郎!」
アースィマールの一人が叫ぶ。
トムは苦痛に呻くハイエルフを放り捨てた。
そして――
一歩踏み込む。
最初のアースィマールの喉元へ、肘を叩き込んだ。
*ゴキッ!*
「――ッ!」
声帯が潰れる。
そのまま左手を伸ばし、アースィマールの腰から狩猟用短剣を抜き取る。
そして――
振り向きざまに投げた。
短剣は正確に、後方のミノタウロスの首輪へ突き刺さった。
*SPARK!*
「――ッ!」
ルーン首輪が爆発する。
同時に、ミノタウロスの瞳から濁った光が消えた。
長年にわたって精神を縛りつけていた支配魔法が――
消滅する。
ミノタウロスの身体が震えた。
そして――
「自由だァァァァッ!」
雄叫びが広場を揺らした。
ミノタウロスは残ったアースィマールの頭を両手で掴む。
そして――
地面へ叩きつけた。
*ズガァァァンッ!*
石畳が砕け散る。
たった五秒にも満たない時間だった。
それだけで――
広場は完全な混沌へと変わった。
商人たちから悲鳴が上がる。
ハイエルフの貴族は地面に転がり、血を流しながら呻いている。
解放されたミノタウロスは、残った衛兵たちへ襲いかかっていた。
だが――
トムは汗一つ流していない。
何事もなかったかのように歩き、地面に倒れたハイエルフの前でしゃがみ込む。
そして――
折れた指から空間収納の指輪を引き抜いた。
「……寄付、ありがとな」
トムは指輪をポケットへしまった。
その瞬間。
――ゴゴゴゴゴゴ……。
広場全体が震え始めた。
地面の奥から、巨大な鉄の音が響く。
そして――
黒鉄の巨体が二体。
高さ四メートル。
胸部には赤いルーンが輝き、両手には巨大な戦斧が握られている。
重々しい足音を響かせながら、石畳の上へ姿を現した。
*オークヘイヴンの守護機兵。*
二体の自動人形が、無機質な声を響かせる。
「――**平和規則への違反を検知。**」
「――**関係者、全員を排除する。**」
ニクスは両手で顔を覆った。
「嘘……」
身体が震える。
「私たち……死ぬ……」
「バルタザールの自動人形から生きて逃げた奴なんて――誰もいない!」
トムは、ゆっくりと巨大な機兵へ視線を向けた。
恐怖はない。
その冷たい瞳に――
初めて、僅かな興味が宿った。
トムは感じ取っていた。
あの機械の内部。
その魔力の核から発せられる――
濃密な魔力反応を。
*――高純度・原初魔力結晶。*
トムは短剣についた血をベルトで拭った。
そして――
壊れたような笑みを浮かべる。
「……やっと見つけた」
「まともなエネルギー源だ」
物語がどのように展開しているか教えてください。




