第3話:混沌の地図
峡谷は暗く、湿っていた。
そして――
腐った苔と、酸化した鉱石の臭いが充満している。
黒い岩壁は高さ三十メートル以上までそびえ立ち、空に浮かぶ三つの月の光を完全に遮っていた。
普通の人間なら、この暗闇の中を歩くこと自体が死への招待状だ。
だが、トムにとっては――
敵だらけの環境を歩くなど、いつものことだった。
彼は完全な無音で歩いていた。
一歩。
そして、また一歩。
体重は常に足の中心へ均等に分散させ、地面の小石一つすら鳴らさない。
【現在魔力:18%】
オークから奪った粗悪なポーションが、トムの胃を焼いていた。
それでも、魔力は少しずつ血管を通って身体中へ流れ続けている。
痛みなど気にならない。
痛みとは――
神経がまだ正常に機能していることを示す、有用な情報にすぎない。
その時だった。
「……」
峡谷の曲がり角の向こうから、荒々しい声が聞こえてきた。
続いて――
鎖が擦れる音。
トムは即座に立ち止まった。
そして、岩壁の影へ溶け込む。
「さっさと吐け、この角付きの化け物め! お前たちの仲間は、魔力結晶をどこに隠した!?」
低く、洞窟の奥から響くような怒鳴り声。
「……地獄に落ちろ……」
か細い女の声。
直後――
唾が金属へ吐きつけられる音。
ベチャッ!
そして――
バシィッ!!
重い平手打ちの音が峡谷に響いた。
トムは岩の隙間から覗き込む。
五十メートルほど先。
そこには、焚き火を囲む三体の赤い肌をしたホブゴブリンがいた。
粗末な革鎧。
腰には武器。
どう見ても、この地域の勢力に所属する精鋭斥候だ。
そして彼らの中央。
鍾乳石のように突き出した岩へ、鎖で縛りつけられている一人の少女。
――ティーフリング。
ワインレッドの肌。
後方へ湾曲した黒い角。
そして――
先端に傷を負った細い尻尾。
斥候用の衣服はズタズタに裂け、乾いた血が全身にこびりついている。
トムの視線が、ホブゴブリンたちの装備を一瞬で走査する。
そして――
隊長らしきホブゴブリンの腰。
膨らんだ革袋。
中から淡い青色の光が漏れている。
――濃縮魔力結晶。
トムの目に、冷たい光が宿った。
ティーフリングの苦痛には興味がない。
だが――
魔力の補給。
そして、この異常な世界についての情報。
どちらも必要だった。
トムは音を立てずに歩き出す。
魔法は使わない。
18%の魔力を、一滴たりとも消費しない。
左側にいたホブゴブリンは、最後まで気づかなかった。
次の瞬間。
トムがその背後に現れる。
まるで――
亡霊。
兜の頂点と顎を同時に掴む。
そして――
捻る。
ゴキッ。
首の骨が折れた。
怪物の身体が倒れる。
血液が完全に止まるよりも早く――
トムは死体の腰から短剣を抜き取った。
そして。
振り向きざまに投げる。
シュッ!!
短剣が二人目のホブゴブリンの首を正確に貫いた。
「ガッ……!?」
喉を貫通した刃。
声にならない叫び。
口から大量の血が溢れる。
「な――!?」
最後の一体。
隊長が振り返る。
慌てて斧を抜く。
しかし――
もう遅い。
トムはすでに間合いの内側へ入っていた。
左拳。
一直線。
狙いは――
喉仏。
ドゴッ!!
「グッ……!?」
気管が潰れる。
ホブゴブリンの隊長は膝から崩れ落ちた。
トムは落ちてきた斧を空中で掴む。
そして――
そのまま頭頂部へ叩き込んだ。
ズガンッ!!
戦闘終了。
わずか――
四秒。
「……」
ティーフリングの少女は、大きく目を見開いていた。
黄色い瞳。
身体を鍾乳石へ押しつけるように縮こまっている。
呼吸は乱れていた。
目の前にいるのは――
自分を拘束していたホブゴブリンたちを、たった四秒で皆殺しにした人間。
しかも、その身体には複数の種族の血が付着している。
「あなた……人間……?」
少女の声が震える。
「せ、聖天盟の騎士なの……?」
安堵。
恐怖。
困惑。
そのすべてが混ざった表情。
「お願い……私を助けて!」
彼女は必死に叫んだ。
「私はニクス! シャドウズ・ユニオンの斥候よ! もし私を解放してくれれば――」
「…………」
ニクスの言葉が止まった。
トムは彼女を解放しなかった。
ホブゴブリンの隊長の死体へ歩いていく。
腰から革袋を引き剥がす。
そして――
振り返った。
血で濡れた短剣の先端を、ティーフリングの喉へ押し当てる。
冷たい刃が柔らかな皮膚へ食い込む。
「俺が質問する」
トムの声には、感情がなかった。
人間の声というより――
死を実行する機械のようだった。
「お前は答えろ」
短剣が僅かに押し込まれる。
「一秒でも躊躇したら、首を斬る。そして別の生存者を探す」
ニクスは息を呑んだ。
目の前の人間から放たれる殺気。
それは、彼女が今まで感じたことのないものだった。
正義も。
英雄らしさも。
慈悲も。
その瞳には存在しない。
あるのは――
底の見えない虚無だけ。
「わ、分かった! 話す! 何が知りたいの!?」
ニクスの身体が震える。
トムは短剣を離さない。
「まず一つ」
「は、はい……!」
「ここはどんな世界だ?」
「…………え?」
ニクスが瞬きをする。
あまりにも予想外の質問だった。
「どんな世界って……?」
「質問に答えろ」
「こ、ここは――」
彼女は唾を飲み込んだ。
「アエテルガルドよ!」
「……」
「永劫戦争の惑星――アエテルガルド!」
トムの目が細くなる。
「なぜ、これほど多くの種族が同じ谷で殺し合っている?」
「アエテルガルドは……!」
ニクスは慌てて説明する。
「大いなる原初神々が作った試練場なの!」
「……原初神々?」
「神話の時代から、何百もの種族がこの世界へ放り込まれてきたの!」
彼女は震えながら続ける。
「この世界は九つの領域に分かれている!」
「九つ……」
トムは情報を記憶する。
「私たちがいるのは――」
ニクスが峡谷の奥を指差した。
「中央混沌領域!」
「ここは誰のものでもない土地よ!」
「すべての帝国が、魔力ノードと古代遺物を奪い合っているの!」
トムは黙って聞いていた。
なるほど。
この惑星は――
巨大な剣闘士闘技場。
それも、惑星規模。
より上位の存在が娯楽か、あるいは自然淘汰のために作り上げた場所。
ならば――
壊すのは簡単だ。
「この世界で最も強い勢力は?」
トムが短剣を僅かに傾ける。
ニクスは即座に答えた。
「北には天使とアアシマールの――天聖国!」
「東には――竜帝国!」
「南には悪魔たちの――深淵の大群!」
「西にはエルフと妖精族の――古代森林連邦!」
息継ぎすらせずに続ける。
「それから地下にはアンデッドの王たちがいる!」
「霧深き山脈にはタイタンがいる!」
「誰も世界を支配できていない!」
ニクスは震えながら叫んだ。
「だって……みんな互いに憎み合っているから!」
トムは黙った。
そして――
壊れた精神の中で、一つの極めて単純な計画が形になっていく。
もし、この世界が――
巨大な勢力同士による、危うい均衡によって維持されているのなら。
必要なのは――
すべてを殺すことではない。
それぞれの勢力を支えている「柱」を破壊すればいい。
一つ。
また一つ。
支柱が倒れれば――
その勢力は崩壊する。
そして連鎖する。
最後には――
惑星そのものが、自らの重みに耐えられなくなる。
完全なる殲滅。
トムは短剣を下ろした。
革袋を開く。
中から青い結晶を一つ取り出した。
そして――
握り潰す。
パキィンッ!!
砕けた結晶から濃密な魔力の霧が溢れ出す。
それはトムの皮膚へ吸い込まれ、直接体内へ流れ込んでいった。
【現在魔力:42%】
身体に熱が戻る。
関節の痛みが大きく和らいだ。
トムは残った結晶を眺めながら尋ねる。
「最も近い街、もしくは交易拠点は?」
「え……?」
「答えろ」
「は、はい!」
ニクスは慌てて答えた。
「この峡谷を西へ抜けて二十キロほど進めば――」
「中立都市オークヘイヴンがあるわ!」
「……中立都市?」
「中央領域で唯一、すべての種族が即座に殺し合わずに取引できる場所よ!」
ニクスは喉を擦りながら続ける。
「傭兵王の庇護があるから……」
「なるほど」
トムは革袋を腰にしまう。
そして――
彼女に背を向けた。
「行くぞ」
「……え?」
トムは歩き始める。
「待って!」
ニクスが叫ぶ。
「私をここに置いていくの!?」
トムは止まらない。
「鎖に繋がれてるのよ!」
「鍵がなかったら、焚き火が消えたあとに怪物に食われる!」
トムが止まった。
そして――
僅かに肩越しに振り返る。
「それが俺に何の関係がある?」
「…………っ」
ニクスは歯を食いしばった。
この男には――
善意など存在しない。
ならば。
自分が生き残るためには――
役に立つしかない。
「わ、私は中央領域を案内できる!」
必死に叫ぶ。
「補給路も知ってる!」
「ドラゴンの野営地も!」
「エルフの領土も知ってる!」
「あなたがこの世界を動き回るつもりなら、私が必要よ!」
ニクスの声が震える。
「大勢力の罠に落ちずに移動したいなら……ガイドが必要でしょ!?」
トムは振り返った。
ティーフリングの少女を見つめる。
一秒。
二秒。
三秒。
そして――
超高速でメリットとデメリットを計算する。
現地の道具を使えば、偵察時間を短縮できる。
役に立たなくなれば、簡単に捨てればいい。
判断終了。
トムは短剣を一閃させた。
シュッ!
鉄の鎖が――
まるで蜘蛛の糸のように切断された。
「……え?」
ニクスが目を見開く。
自由になった手首を押さえる。
トムは彼女を見ることなく言った。
「俺の三歩後ろを歩け」
「…………」
「妙な真似をしたら――」
トムが振り返る。
その瞳には、冷たい殺意が宿っていた。
「お前の血で、この刃を洗う」
「……っ!」
ニクスは慌てて立ち上がった。
傷ついた手首を揉みながら、息を呑む。
自分は今――
人生で最も恐ろしい存在と、行動を共にすることになった。
英雄ではない。
騎士でもない。
ましてや救世主でもない。
これは――
ただの怪物だ。
そしてニクスには、なぜか分かっていた。
この男がオークヘイヴンへ到着した瞬間――
その街は、もう二度と以前と同じではいられない。




