虚無の中で生き抜く術
胆汁と焼け焦げた金属の味が、トムの口いっぱいに広がっていた。
*――六パーセント。*
魔力を限界まで消耗したときに訪れる、最悪の状態。
人体に宿る魔力は、ただ魔法を使うためだけに存在しているわけではない。
それは内臓、筋肉、骨を保護する一種の緩衝材としても機能している。
それを失えば――
自分の身体そのものが、三倍の重さになったかのように感じる。
肺は焼けるように痛む。
視界の端が、灰色に揺らぐ。
それでも。
トムは瞬きすらしなかった。
震えもしない。
数十もの世界を渡り歩いてきた彼は、ある一つの絶対的な教訓を学んでいた。
――戦場では、弱さは敵に知られた瞬間に初めて「死」を意味する。
「や……奴は……たった一秒で、将軍の守護竜を……」
最前列にいた竜人族の戦士が呟いた。
無意識に、一歩後ずさる。
「なんなんだ、あの化け物は!? 魔法陣すら使っていないぞ!」
ドラゴンの死体が地面へ落下してから、数秒。
その沈黙は、トムにとって永遠にも等しく感じられた。
だが――
その沈黙こそが必要だった。
軍勢が躊躇する一秒一秒が、トムの肺に新たな酸素を送り込む。
しかし。
この戦場の指揮官が、全員愚かだったわけではない。
上空。
黄金色の光の翼を広げ、銀色の鎧を纏ったヴァルキリーが空中に浮かんでいた。
彼女は目を細める。
そして神槍を掲げ――
その切っ先を、真っ直ぐトムへ向けた。
「奴の姿に惑わされるな!」
ヴァルキリーの声が、谷全体に雷鳴のように響き渡る。
「奴の魔力反応が急激に低下している! 禁術を使ったのだ! 今の奴には、もう力が残っていない!」
そして――
「前衛部隊! 奴を殺せッ!!」
*――クソッ。*
恐怖によって生まれていた沈黙が、一瞬で破壊された。
「竜人帝国の栄光のためにィィィッ!!」
赤い鱗を持つ竜人の隊長が咆哮する。
炎を纏った大剣を振り上げ、突撃。
同時に――
トムの周囲の影から、五人のダークエルフの暗殺者が現れた。
毒を塗った短剣。
すでにトムの首まで数センチ。
だが。
魔力が満タンなら、トムは百メートル四方を丸ごと焼き払っていただろう。
今の魔力は――六パーセント。
魔法を使う?
それは自殺と同じだ。
ならば。
トムが最も得意とする方法を使う。
――敵自身の欲望を、敵同士でぶつける。
*竜人の突撃――重量級の大剣。右上方からの振り下ろし。*
*速度は速い。だが、単純すぎる。*
*ダークエルフの暗殺者――同時攻撃。ただし竜人との連携は皆無。*
トムは後退しなかった。
むしろ――
一歩、前へ出た。
大剣の間合いの中へ。
「死ねぇぇぇッ!!」
鱗の戦士が叫ぶ。
炎の大剣が振り下ろされる。
その――
ほんの一瞬。
トムは膝を曲げた。
そして地面へ飛び込むように倒れ込む。
赤茶けた砂埃の上を滑走する。
巨大な刃が――
鼻先数ミリを通過した。
そして。
そのまま後方から迫っていた二人のダークエルフを直撃。
**ズガァァンッ!!**
炎と血が爆発する。
二人の身体が真っ二つに裂けた。
「この馬鹿野郎ッ! どこを狙っている!?」
ダークエルフの隊長が怒鳴る。
しかし――
トムは、その言い争いを待たなかった。
地面に伏したまま、竜人の踵を掴む。
そして。
盗んだ短剣を、鎧に守られていない膝裏の関節へ突き刺した。
**バキィッ!!**
「グアァァァッ!!」
竜人の隊長が絶叫する。
膝をついた巨体。
その肩を踏み台にして――
トムはバネのように跳び上がった。
その瞬間。
空から三本の天界の矢が飛来した。
先ほどまでトムがいた空間を貫通する。
そして――
倒れていた竜人の胸へ突き刺さった。
「……味方殺しとは、なかなか素晴らしい連携だな」
トムが冷たく呟く。
そのまま空中から落下。
着地点は――
呆然と戦況を見ていたオークの戦士の肩。
ドスッ。
「――え?」
反応する暇すらない。
トムはオークの兜から伸びた角を掴む。
そして――
捻る。
**ゴキッ。**
首が折れた。
*一人死亡。*
*あと二人。*
*装備を奪う。*
トムはオークの身体が倒れるより早く装備を剥ぎ取った。
投擲用の斧。
腰に下げられた二本のポーション。
そして――
小型の青銅盾。
*――簡易解析。*
**【現在魔力:7%】**
**【自然回復:極微量】**
**【直接敵対勢力:約三千】**
**【内訳:四つの敵対派閥】**
**【地形:北方五百メートル地点に岩石地帯を伴う開けた谷】**
トムの瞳が細くなる。
「この谷の中央に留まれば、遠距離魔法で押し潰される」
脳内で、無数の可能性が超高速で組み上げられていく。
「なら――」
トムは北方の岩場を見る。
「この戦場そのものに、俺の代わりに戦わせる」
そして――
手にしたオークの投げ斧を振りかぶった。
標的。
ダークエルフの隊長。
「――ッ!?」
**ヒュンッ!!**
斧が猛烈な回転をしながら飛んでいく。
次の瞬間。
**ズブッ!!**
刃がエルフの胸へ深々と突き刺さった。
「隊長ッ!!」
ダークエルフたちが叫ぶ。
隊長の身体が倒れる。
「オークの攻撃だ!!」
「奴らは条約を破ったぞ!!」
「違う!! 俺たちじゃない! あの人間だ!!」
オークたちが必死に叫ぶ。
だが――
もう遅い。
「制圧射撃!! 全員まとめて殲滅しろ!!」
エルフ側の副隊長が怒鳴った。
その瞬間。
戦場が再び爆発した。
炎の魔法。
天界の光の矢。
毒の魔法弾。
無数の攻撃が空を交差する。
だが――
今度の標的はトムではない。
敵同士だ。
たった一人の予測不能な侵入者。
その存在が生み出した疑心暗鬼。
それが引き金となり――
各勢力は再び互いを殺し始めた。
「殺せぇぇぇッ!!」
「裏切り者を逃がすな!!」
「全部敵だ!!」
戦場は、瞬く間に地獄へ戻った。
トムは、その混沌を隠れ蓑にした。
身体を低くする。
走る。
爆発と死体の間を縫うように駆け抜ける。
すべてを――
鍛え上げられた本能だけで回避する。
火球がすぐ横を通過した。
黒い衣服の一部が焦げる。
それでも、トムは瞬きすらしない。
一本の光槍が足元へ突き刺さる。
トムはその槍を踏み台にした。
そのまま跳躍。
深い溝を飛び越える。
数分後。
身体には無数の小さな切り傷。
それでも心拍数は完璧に制御されていた。
トムは北方の岩石地帯へ続く峡谷の入口へ辿り着いた。
そして――
立ち止まる。
崖の頂上から、振り返った。
眼下。
そこに広がっていたのは――
炎。
悲鳴。
血。
そして殺戮。
数百もの死体が、種族の区別すらなく大地を埋め尽くしている。
トムはオークから奪った二本のポーションを取り出した。
そのうち一本を鼻元へ近づける。
赤く輝く液体。
トムは匂いを嗅いだ。
「低品質の魔力回復ポーション……」
一瞬だけ考える。
「人間にとっては毒性のある薬草も微量に混ざっているな」
そして――
口元を僅かに吊り上げる。
「……完璧だ」
ゴクッ。
一気に飲み干す。
液体に含まれていた毒素は――
何の効果も発揮しなかった。
何千もの毒を経験してきたトムの身体は、すでにその程度の毒に対して完全な耐性を獲得している。
ポーションに含まれていた魔力が、ゆっくりと体内へ流れ込んでいく。
そして――
*【現在魔力:14%】*
トムの唇に、再び生気のない笑みが浮かんだ。
彼は新たな世界の地平線を見つめる。
空には――
三つの月。
そして。
宙に浮かぶ巨大な山々。
「……クソみたいな世界だな」
トムは静かに呟いた。
そして背を向ける。
戦場を離れ、暗い峡谷の奥へ歩き出した。
「……最高だ」
その声には、憎しみすら感じられない。
ただ――
冷たい確信だけがあった。
「こんなに混沌としてるなら……」
トムの姿が闇の中へ消えていく。
「全部壊しても――」
「誰も、いなくなったことを気にしないだろ」
そして。
彼は闇の中へ消えた。




