第八話 特別実験区画
夜。
消灯の放送が流れてから、しばらく経った頃。
リノは静かに部屋を抜け出した。
誰にも気付かれないよう廊下を歩き、昨日見つけた地下への入口へ向かう。
重い扉を開き、階段を下りる。
冷たい空気が頬を撫でた。
「昨日はここまでだった。」
目の前には、重厚な鉄の扉。
『特別実験区画』
リノは取っ手を握る。
ガチャ。
やはり開かない。
少しだけ考えたあと、リノは扉の横の壁へ視線を移した。
「扉じゃなくて……。」
「壁なら。」
指先を軽く噛む。
滲んだ血で、小さな円を描く。
赤い円が淡く光った。
リノはゆっくり壁へ手を伸ばす。
スッ――。
腕が壁へ沈んでいく。
「やっぱり。」
小さく笑い、そのまま一歩踏み出した。
景色が一瞬だけ白く揺れる。
次の瞬間、リノは特別実験区画の内側へ立っていた。
「入れた……。」
振り返る。
扉は内側から見ても、固く閉ざされたままだ。
「この能力じゃないと入れないんだ。」
小さく呟き、ゆっくり歩き始める。
薄暗い照明。
静まり返った通路。
薬品の匂いが微かに残っている。
やがて、一番奥にある扉の前で足を止めた。
プレートには、
『資料保管室』
と書かれている。
押してみる。
開かない。
「ここも鍵か。」
迷わず壁へ血で円を描いた。
身体を預ける。
スッ――。
壁をすり抜ける。
その先には、小さな部屋が広がっていた。
棚。
棚。
棚。
天井近くまで積み上げられた大量のファイル。
「全部……資料?」
リノは一冊ずつ見ていく。
No.0217。
No.0463。
No.1189。
どれも番号だけ。
名前は書かれていない。
「なんなんだろ……。」
その時だった。
部屋の一番奥。
黒い表紙の古いファイルが目に入る。
他のものとは違う。
まるで特別に保管されているようだった。
リノは静かに手を伸ばす。
表紙には白い文字。
◇◇◇
No.0004
「0004……?」
他の番号よりずっと小さい。
「どうしてこれだけ……。」
ゆっくりファイルへ手を掛けた。
その瞬間――
カチャ。
「!」
リノは反射的に周囲を見渡す。
逃げ道はない。
(どうしよう……。)
部屋の奥。
資料棚と壁の間に、人一人が隠れられる隙間があった。
リノは息を殺し、その隙間へ身体を滑り込ませる。
(お願い……気付かないで。)
現れたのは、白い仮面を付けた校長だった。
校長は何も気付かない。
静かに部屋へ入り、迷うことなく黒いファイルを手に取る。
No.0004
その表紙を優しく撫でる。
しばらく見つめたあと、小さく呟いた。
「……時間だけは、止まってくれないな。」
その声は、とても静かで。
どこか寂しそうだった。
校長はゆっくりファイルを開く。
ページを見つめながら、優しく微笑む。
「No.0004。」
少しだけ間が空く。
「お前だけは……。」
そして。
「失敗作には、ならなかった。」
リノは目を見開く。
(失敗作……?)
(誰のこと……。)
意味は分からない。
でも、その言葉だけは胸の奥へ深く刺さった。
その時。
館内放送が地下へ響く。
『巡回を開始します。』
『巡回を開始します。』
校長は静かにファイルを閉じ、元の場所へ戻す。
何事もなかったように資料保管室を出ていった。
足音が完全に遠ざかる。
リノはゆっくり息を吐いた。
もう一度、壁をすり抜けて資料保管室へ戻る。
黒いファイルを見つめる。
No.0004
「次は……。」
「絶対に、この中を見る。」
そう小さく呟く。
ファイルには触れず、静かに部屋を後にした。
特別実験区画を抜け、壁をすり抜ける。
そして地下を後にした。
◇◇◇
その頃。
地上では――。
夜の見回りをしていた悠が、地下へ続く壁の前で立ち止まっていた。
床には、小さな血痕。
昨日より少し増えている。
悠はしゃがみ込み、それを静かに見つめる。
「またここか……。」
ゆっくり立ち上がる。
壁へ視線を向け、小さく呟いた。
「雨宮。」
「お前は、この街で何を見つけようとしている。」
悠の胸にも、小さな疑問が芽生え始めていた――。




