第六話 79点
「これより月例試験を開始する。」
悠の静かな声が教室に響く。
試験用紙が配られる。
誰も顔を上げない。
誰も息を荒くしない。
静かすぎるほど静かな教室だった。
悠は教室全体を見渡し、淡々と告げる。
「制限時間は六十分。」
一拍置く。
「なお、本学園の規則により、八十点未満は処分対象となる。」
リノは思わず顔を上げた。
(処分……。)
その言葉は知っている。
幼い頃、この街で何度も耳にした言葉だった。
だけど。
(まさか……。)
心のどこかで。
「もう昔とは違う。」
そう思いたかった。
「始め。」
試験開始の合図。
リノは小さく息を吸い、問題へ向き合った。
◇◇◇
六十分後。
「終了。」
一斉に鉛筆が置かれる。
悠は静かに言う。
「前から順番に、答案を持って来い。」
誰も返事をしない。
一人目の生徒が立ち上がる。
両手で答案を持つ。
その指先は小刻みに震えていた。
悠へ差し出す。
赤ペンが走る。
サッ。
サッ。
サッ。
教室には、その音だけが響く。
「朝倉 修。」
「九十三点。」
「着席。」
少年は力が抜けたように息を吐き、席へ戻った。
次。
「三浦 彩。」
「八十八点。」
「着席。」
また一人。
また一人。
全員が、自分の運命を差し出すように答案を持っていく。
中には採点される間、目を閉じている生徒もいた。
リノはその様子を見つめる。
(本当に処分されるの……?)
次の生徒が立ち上がる。
「水瀬 湊。」
細身の少年だった。
緊張で唇が震えている。
「お願いします。」
悠は答案を受け取る。
赤ペンを走らせる。
サッ。
サッ。
サッ。
そして。
赤ペンが止まった。
教室の空気が凍る。
悠は一つだけ長く息を吐いた。
「水瀬 湊。」
少年は静かに顔を上げる。
「……七十九点。」
リノの心臓が大きく鳴った。
(あと一点……。)
(お願い……。)
しかし。
水瀬は深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。」
リノは目を見開く。
校内放送が響く。
『規則に従い、水瀬湊を処分します。』
教室の扉が開く。
黒い制服の警備員が二人。
無言で水瀬の前へ立つ。
リノは悠を見る。
「先生。」
悠は何も言わない。
「処分って……。」
声が震える。
「まさか……。」
悠はゆっくり目を閉じた。
「……見るな。」
「え……?」
「見るな。」
その声は。
教師ではなく。
一人の大人としての願いだった。
でも。
リノは目を逸らせなかった。
水瀬は警備員に連れられ、教室を出る。
扉が閉まる。
静寂。
数秒後。
――パンッ。
乾いた銃声が廊下へ響いた。
リノの身体が硬直する。
教室の小さな窓へ。
赤い飛沫が、一瞬だけ散った。
そして。
扉に付いた赤い雫が一滴だけ、床に落ちた。
ポタッ。
誰も動かない。
誰も泣かない。
誰も叫ばない。
みんな俯いたまま。
ただ、耐えている。
リノだけが震えていた。
「……また。」
その一言が、自然と零れた。
悠がゆっくりリノを見る。
(また……?)
その言葉の意味は分からなかった。
でも。
その横顔は。
初めて見るほど苦しそうだった。
リノは立ち上がる。
「どうして……。」
震える声。
「あと一点だったんだよ……?」
誰も答えない。
「もう一回、試験を受ければいいじゃない!」
「どうして!」
「どうして殺すの!!」
警備員が教室へ戻ってくる。
制服には何事もなかったかのように乱れ一つない。
その姿が、余計に恐ろしかった。
「静粛に。」
「静粛になんてできるわけない!」
リノは怒りで震えた。
「人を殺しておいて!」
教室中が息を呑む。
悠が静かに言う。
「雨宮。」
「落ち着け。」
「無理だよ!」
リノは拳を強く握る。
爪が食い込み、手のひらから赤い雫が落ちる。
それでも離さなかった。
リノはゆっくりと教室を見渡す。
俯く生徒たち。
震える肩。
声を殺して耐える子どもたち。
そして。
静かに呟いた。
「ここは人を育てる場所じゃない。」
「人を選んで。」
「捨てる場所なんだ。」
唇を噛み締める。
「……そうだった。」
目を閉じる。
「私は。」
「忘れたかったんだ。」
「この街が。」
「こんなにも狂ってる場所だって。」
静かに目を開く。
そこには、涙はなかった。
燃えるような怒りだけがあった。
「だから。」
リノは真っ直ぐ前を向く。
「もう逃げない。」
「お兄ちゃんも。」
「お姉ちゃんも。」
「まだ、この街のどこかにいる。」
拳を強く握る。
「絶対に……。」
「みんなを見つけて。」
「家へ連れて帰る。」
教室は静まり返る。
悠はリノを見つめる。
(この子は……。)
(この街に絶望したんじゃない。)
(この街と戦うことを選んだ。)
その瞬間。
止まっていた悠の心が、ほんの少しだけ動き始めた。




