第二話 笑う少女
「先生!」
元気な声が廊下に響く。
神代悠は振り返ることなく歩き続けた。
「……なんだ。」
「歩くの速いよ!」
少女は小走りで隣へ並ぶ。
「もっとゆっくり歩こうよ。」
「ここは散歩する場所じゃない。」
「えー。」
口を尖らせるリノ。
それでも数秒後には、また笑っていた。
「先生ってさ。」
「……。」
「昔からそんな顔?」
「生まれつきだ。」
「そっか!」
あっさり納得した。
なんなんだ、この子は。
◇◇◇
「先生。」
「今度はなんだ。」
「こっちの廊下の方が近いよ?」
悠の足が止まる。
「……。」
目の前は行き止まり。
教師しか通らない区画。
「いや、こっち。」
リノは壁を指差した。
「あ。」
慌てて手を引っ込める。
「……間違えた!」
笑ってごまかした。
悠は何も言わない。
(今、“知っている人間”の反応だった。)
そんな考えを振り払うように歩き出す。
リノも慌てて後を追った。
◇◇◇
教室の扉が開く。
ガラッ。視線。
三十人以上の生徒が、一斉にリノを見る。
誰も喋らない。
誰も笑わない。
ここでは、他人に興味を持つことすら無駄だからだ。
「今日からこのクラスに入る。」
悠が短く告げる。
「自己紹介。」
リノは一歩前へ出た。
満面の笑み。
「雨宮リノです!」
ぺこりと頭を下げる。
「よろしくお願いします!」
静寂。
誰も返事をしない。
「……え?」
リノがきょとんとする。
「えぇー!?」
「みんな挨拶しようよ!」
「おはようございます!」
「よろしくお願いします!」
しーん。
リノは困ったように笑った。
「恥ずかしがり屋さんばっかりなんだね。」
違う。
諦めているだけだ。
友達を作っても、明日にはいなくなる。
それがこの街だった。
◇◇◇
一時間目。
数学。
悠は黒板いっぱいに数式を書く。
「この問題を解け。」
教室がざわつく。
昨日のテストでも出なかった応用問題。
誰も手を挙げない。
「はい!」
一人だけ。
リノだった。
「前へ。」
リノはチョークを持つ。
カツ。
カツ。
カツ。
迷いがない。
式が完成する。
答えも合っている。
悠は静かに頷いた。
「……正解だ。」
教室中が息を呑む。
(なんだ、あいつ。)
(あんな問題……。)
リノは嬉しそうに笑った。
「やった!」
それだけだった。
自慢もしない。
得意げな顔もしない。
まるで褒められた子どものような笑顔だった。
◇◇◇
昼休み。
誰もリノに話しかけない。
一人で机に座る。
「うーん。」
少し考える。
「よし!」
立ち上がる。
そのまま職員室へ向かった。
ガラッ。
「先生ー!」
悠は書類を書いていた手を止める。
「……何だ。」
「お昼!」
「見れば分かる。」
「一緒に食べよ!」
「断る。」
「えー!」
リノは悠の向かいへ勝手に座る。
「教師と生徒は一緒に食べない。」
「じゃあ今日は先生とリノだから!」
「意味が分からない。」
「細かいこと気にするとハゲるよ?」
「……。」
悠は初めて口元を押さえた。
笑いそうになった。
だが、すぐ元に戻す。
リノは見逃さなかった。
「あ!」
「今ちょっと笑った!」
「笑ってない。」
「笑ったもん!」
「気のせいだ。」
「絶対笑った!」
職員室の空気が少しだけ和らぐ。
他の教師たちは、そんな二人を不思議そうに見ていた。
◇◇◇
「先生。」
パンを半分に割る。
「はい。」
差し出す。
「……いらない。」
「どうして?」
「食べてきた。」
「嘘。」
悠が黙る。
リノは少しだけ優しく笑った。
「先生。」
「……。」
「ずっと一人だったんだね。」
その言葉に、悠の手が止まる。
誰にも言われたことがない。
誰にも気付かれたことがない。
なのに、この少女は。
まるで昔から知っているかのように。
「だから笑い方、忘れちゃったんでしょ?」
悠は窓の外を見る。
灰色の空。
「……忘れた。」
「笑い方も。」
「泣き方も。」
リノは何も聞かなかった。
代わりに、にこっと笑う。
「じゃあ!」
「私が教えてあげる!」
その笑顔は、この灰色の街には似合わないほど眩しかった。
悠は思う。
(なんなんだ、お前は。)
◇◇◇
消灯。
睡眠時間、二時間。
規則正しく寝息が聞こえる。
リノだけが、そっと目を開いた。
枕の下から、小さな刃を取り出す。
ためらいなく指先を切る。
赤い雫が、一滴。
壁に小さな円を描く。
「お願い。」
小さく呟く。
誰にも見られていない。
その瞬間。
壁の向こう側が、ぼんやりと透けた。
そこには、小さなスイッチ。
リノは壁へ手を伸ばす。
すり抜ける。
――カチッ。
遠くで重い音が鳴った。
「やっぱり……。」
リノは小さく笑う。
「まだ残ってた。」
暗闇の奥。
誰にも知られていない地下への扉が、ゆっくりと開き始めていた――。




