第一話 先生
「先生。」
静まり返った教室に、小さな声が響いた。
神代悠は黒板に書いていた数式を止める。
「……なんだ。」
「眠いです。」
教室のあちこちから小さな笑い声が漏れた。
もちろん、本当に面白くて笑ったわけじゃない。
恐怖をごまかすための笑いだ。
悠は時計を見る。
午前十時二十九分。
あと一分で授業終了。
「あと一分だ。耐えろ。」
「うぅ……。」
そう言った少年は、机に突っ伏した。
その瞬間だった。
教室の天井に赤いランプが灯る。
――ピッ。
『居眠りを確認しました。』
機械音声が教室中に響く。
全員の背筋が凍り付く。
ガラッ。
後ろの扉が開き、白衣姿の職員が二人入ってきた。
「対象者を回収します。」
「ま、待ってください!」
少年は飛び起きた。
「一秒です! 本当に一秒だけなんです!」
「規則違反です。」
「お願いです! 次は頑張ります!」
職員は表情一つ変えない。
少年の腕を掴み、そのまま廊下へ引きずっていく。
「先生!!」
助けを求める叫び。
悠は拳を握る。
助けたい。
けれど。
助けた瞬間、自分も、この教室の全員も処分される。
「先生ぇぇぇぇ!!」
バタン。
扉が閉まる。
数秒後。
パンッ。
乾いた音だけが廊下から聞こえた。
教室には沈黙だけが残る。
悠はゆっくり教科書を開いた。
「……授業を続ける。」
その声は、自分でも嫌になるほど冷たかった。
◇◇◇
授業終了の鐘が鳴る。
教室のスピーカーから機械音声が流れた。
『教師は第一講堂へ集合してください。』
『本日、新たな被験者が到着しました。』
被験者。
それが、この街での人間の呼び名だった。
悠は廊下を歩く。
鉄格子の付いた窓。
灰色の空。
何年見続けても、この景色には慣れない。
第一講堂。
教師たちが整列している。
壇上には白い仮面を付けた校長。
誰も名前を知らない。
誰も素顔を見たことがない。
「本日、新たな被験者を迎える。」
重い扉が開く。
鎖の音が響く。
現れたのは、一人の少女だった。
十三歳くらい。
栗色の髪を肩で切り揃え、大きな瞳がきょろきょろと辺りを見回している。
そして。
「わぁ……変わってない!」
少女は、にっこり笑った。
講堂の空気が凍る。
職員が少女の肩を乱暴に掴む。
「静かにしろ。」
「痛っ! もう、そんなに引っ張らなくても逃げないよ?」
笑っている。
ここで笑う人間など見たことがない。
校長が低い声で尋ねる。
「名前。」
「雨宮リノです!」
元気よく手まで挙げた。
教師たちがざわつく。
校長は続ける。
「目的。」
「家族を迎えに来ました!」
その場にいた全員が耳を疑った。
迎えに来た?
この街へ?
自分から?
校長は無言のままリノを見つめる。
やがて静かに告げた。
「神代。」
「……はい。」
「この少女を担当しろ。」
「承知しました。」
リノは悠を見るなり、ぱっと笑顔になった。
「先生!」
「……なんだ。」
「よろしくね!」
悠は返事をしなかった。
講堂を出て、長い廊下を歩く。
沈黙が続くと思った。
しかし。
「先生!」
「……。」
「先生って甘いもの好き?」
「……。」
「先生!」
「……。」
「先生って友達いる?」
「……いない。」
「えっ、本当に!?」
初対面なのに遠慮がない。
こんな少女は初めてだった。
「先生、顔怖いけど意外と話してくれるんだね!」
「……。」
「ねぇねぇ。」
「今度はなんだ。」
リノは壁を見つめながら、小さく笑った。
「この先、右に曲がると研究棟だよね。」
悠の足が止まる。
「……どうして知っている。」
研究棟の存在は教師でも一部しか知らない。
リノは「あっ」という顔をした。
「しまった。」
ぺろっと舌を出す。
「まぁ、いっか。」
そう言って、まるで昔話でもするように笑う。
「私ね。」
その笑顔が、一瞬だけ寂しそうに揺れた。
「赤ちゃんの頃、この街にいたんだ。」
悠は息をのむ。
「それでね。」
リノは真っすぐ悠を見つめる。
「ここから逃げた、たぶん最初で最後の人間なんだ。」
悠の心臓が大きく脈打つ。
この少女は何者なんだ。
そして、なぜ今、再びこの地獄へ戻ってきたのか――。
その答えを、悠はまだ知らない。




