第十一話 取引 前編
放課後を告げるチャイムが静かに校舎へ響いた。
教師が教室を出ていく。
それを合図に、生徒たちはそれぞれ帰り支度を始めた。
教科書を鞄へしまう音。
椅子を引く音。
誰も必要以上に話さない。
この学園では、それが当たり前だった。
リノも静かに立ち上がる。
窓の外を見ると、夕日が校舎を赤く染め始めていた。
昨日の出来事が頭をよぎる。
黒いフード。
声を出さず、タブレットで言葉を伝える少年。
地下へ入ろうとした自分を見ていた人物。
あの時の鋭い視線が、今でも忘れられない。
(……あの人は誰だったんだろう。)
敵。
味方。
それすら分からない。
けれど一つだけ分かることがあった。
(しばらく地下へ行くのはやめよう。)
昨日、あの少年に見られた。
それなら、もう一度地下へ向かえば鉢合わせるかもしれない。
まだ情報が足りない。
焦る必要はない。
リノはそう自分に言い聞かせ、鞄を肩へ掛けた。
その時だった。
ふと視線を感じる。
顔を上げると、小春がこちらを見ていた。
相変わらず表情は暗い。
本を抱き締めるように持ち、静かに立っている。
目が合うと、小春は小さく頭を下げた。
リノは自然と笑みを浮かべる。
「またね!」
その一言に、小春は少しだけ驚いたように目を瞬かせる。
やがて、小さく口を開いた。
「……うん。」
それだけ言うと、本を抱えたまま教室を出ていく。
リノはその背中を見送った。
(また図書室に行けば会えるかな。)
まだ友達と呼べるほどではない。
それでも昨日より、ほんの少しだけ距離が縮まった気がした。
リノも教室を後にする。
夕日に照らされた廊下は静かだった。
◇◇◇
一方その頃。
職員室。
悠は提出されたプリントを確認していた。
一枚ずつ目を通し、赤ペンを走らせる。
時計を見る。
午後四時二十分。
「今日はここまでにするか……。」
そう呟き、机の引き出しを開けた。
「……?」
中に、一枚の白い封筒が入っている。
見覚えはない。
誰かが入れたのか。
周囲を見渡す。
他の教師たちは仕事に集中しており、こちらを気にする様子はない。
悠は静かに封を開いた。
中には小さく折り畳まれた紙が一枚。
広げる。
そこには短く、丁寧な文字で書かれていた。
話がある。
放課後 屋上へ。
差出人の名前はない。
しかし、悠はすぐに思い当たった。
(昨日の少年か。)
図書室。
地下へ続く壁。
雨宮リノ。
そして、黒いフードの少年。
あの出来事が頭の中で繋がる。
罠かもしれない。
それでも——
(行くしかないな。)
紙を胸ポケットへしまい、静かに立ち上がる。
「神代先生、もう帰るんですか?」
隣の教師が声を掛けた。
「ええ、少し用事があって。」
それだけ答え、職員室を後にする。
◇◇◇
屋上へ続く階段は静まり返っていた。
一段。
また一段。
足音だけがコンクリートへ響く。
屋上の扉が見える。
悠は一度だけ深呼吸をした。
そしてドアノブへ手を掛ける。
軋む音と共に扉が開いた。
夕焼けの風が吹き抜ける。
フェンスの前に、一人の少年が立っていた。
黒いフード。
昨日と同じ姿。
風にフードの裾が揺れる。
悠はゆっくり近付いた。
「……やはり、君だったか。」
少年は静かに振り返る。
何も言わない。
ただ一台のタブレットを取り出した。
指が静かに画面を滑る。
数秒後。
画面が悠へ向けられた。
『雨宮リノ。』
一度だけ文字が消える。
新しい文字が現れる。
『あの子は何者だ。』
悠は画面を見つめたまま、静かに目を細めた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……その質問はおかしい。」
少年は黙ったまま。
悠は一歩だけ近付く。
「君の方が知っているんじゃないのか。」
夕風が二人の間を通り抜ける。
「昨日、君は雨宮と話していた。」
「あの子に近付いた理由があるはずだ。」
「違うか。」
少年は悠を見つめ返す。
何も答えない。
ゆっくりと視線を落とし、再びタブレットへ指を置いた——。




