第9話 やっと静かだ
一魂一体――いっこんいったい。
ひとつの魂に、ひとつの身体。
病院という場所に、玖条如月はほとんど縁がなかった。
風邪を引いた記憶もない。
骨を折ったこともない。
高熱で寝込んだこともなければ、怪我をして誰かに心配されたこともない。
人より丈夫だ、という言葉で済ませられる範囲を、如月の身体はとうに越えていた。
だからこそ、初めて足を踏み入れた病院の空気は、妙に落ち着かなかった。
白い壁。
消毒液の匂い。
小さく響く足音。
遠くで鳴るナースコール。
廊下をゆっくり歩く患者たちの背中。
どれも、如月にとっては見慣れないものだった。
「玖条さん、大丈夫ですか?」
隣を歩いていた美月が、少し心配そうに顔を覗き込んでくる。
「……別に」
「顔、少し怖いですよ」
「元からだ」
「それ、自分で言うんですね」
美月はくすりと笑った。
その笑い声は、病院の静けさの中で不思議なくらい柔らかく響いた。
今日は、美月のボランティア活動に如月が付き添う日だった。
表向きは、ただの手伝い。
けれど、本当の理由は別にある。
美月の身体には、天使の魂が宿っている。
そしてそれを狙う悪魔たちは、いつ、どこから現れてもおかしくない。
だからこそ、如月は彼女のそばにいる。
ただ、それだけのはずだった。
けれど――病院に入ってから、如月は違和感を覚えていた。
悪魔の気配が、ほとんどない。
死の匂いがないわけではない。
苦しみがないわけでもない。
むしろ、この場所には弱った人間が多すぎるほど集まっている。
病に蝕まれた身体。
衰えた身体。
いつ尽きてもおかしくない命。
普通に考えれば、悪魔にとって都合のいい場所に見える。
なのに、違う。
ここには、あの濁った欲望の匂いが少なかった。
殺意も。
強欲も。
怒りも。
誰かを踏みにじってでも生きたいという醜い執着も。
ほとんど感じない。
あるのはただ、痛みと不安と、静かに終わりを待つ命の気配だけだった。
――そういうことか。
如月は、ようやく理解した。
悪魔が欲しがるのは、弱った身体そのものではない。
魂の隙間だ。
欲望に溺れ、罪に沈み、誰にも顧みられず、自分自身すら手放しかけた魂。
そういうものに、悪魔は入り込む。
だが、死に近い身体は器として脆すぎる。
旅立とうとしている魂は、悪魔にとっても扱いづらい。
病院は、死に近い場所でありながら、同時に、悪魔からは遠い場所でもあった。
あの執事が美月に病院でのボランティアを勧めた理由も、おそらくそこにあるのだろう。
「こっちです」
美月は慣れた様子で廊下を進んでいく。
看護師に会えば軽く頭を下げ、車椅子の老人に声をかけ、窓際の花瓶が傾いていればそっと直す。
その一つ一つが、あまりにも自然だった。
誰かに褒められるためではない。
役目だからでもない。
美月はただ、目の前の誰かが少しでも楽になるなら、それでいいと思っている。
如月には、それが不思議だった。
人を守るという行為を、彼は知っている。
悪魔を殺すこと。
危険を排除すること。
敵を近づけないこと。
けれど、美月のそれは、そういうものとはまるで違っていた。
彼女は誰かの痛みを壊すのではなく、そっと隣に座る。
それだけで救われるものがあると、本気で信じている。
「玖条さん」
病室の前で、美月が足を止めた。
扉の横には、個室の札がかかっている。
「少しだけ、あの人のそばにいてあげてくれませんか?」
「俺が?」
「はい」
「俺がいて、何か変わるのか」
如月がそう言うと、美月は少しだけ困ったように笑った。
「変わりますよ」
そして、静かに続ける。
「ひとりじゃないって思えるだけで、人は少し安心できますから」
その言葉に、如月は返事をしなかった。
美月が扉を軽くノックし、ゆっくりと開ける。
病室の中は、外の廊下よりもさらに静かだった。
窓際のカーテンは半分だけ開いていて、白い光が床に落ちている。
ベッドのそばには小さな椅子が一つ。
棚の上には、古びた写真立てが伏せられて置かれていた。
ベッドに横たわっていたのは、痩せた老人だった。
顔色は悪く、頬はこけ、呼吸のたびに胸が苦しそうに上下している。
喉の奥から、押し殺したようなうめき声が漏れていた。
痛いのだと、如月にも分かった。
それは悪魔の気配ではない。
罪の匂いでもない。
ただの、どうしようもない痛みだった。
「田村さん」
美月がそっと声をかける。
老人のまぶたが、わずかに震えた。
「今日は、少しだけ玖条さんがそばにいてくれます」
返事はなかった。
ただ、老人の指がシーツをきつく握りしめる。
その手は骨ばっていて、今にも折れてしまいそうに見えた。
「……俺は、何を話せばいい」
病室を出ようとした美月に、如月は小さく尋ねた。
美月は振り返り、穏やかに言った。
「無理に話さなくて大丈夫です。ただ、そばにいてあげてください」
それだけ言って、美月は静かに扉を閉めた。
病室には、如月と老人だけが残された。
如月はベッドの横の椅子に腰を下ろす。
何をすればいいのか、分からなかった。
悪魔なら殺せる。
襲ってくるものなら止められる。
敵意を向けられれば、それをねじ伏せればいい。
けれど、ただ苦しんでいるだけの人間を前にして、如月は何もできなかった。
老人の呼吸が乱れる。
「……っ、ぐ……」
喉の奥から絞り出されるような声。
そのたびに、老人の身体がわずかに震えた。
シーツを握る指先に力が入り、爪が白くなる。
如月はその手を見ていた。
壊れかけた、細い手。
自分の手とは違う。
悪魔の顔面を握り潰すこともできない。
刃を受け止めることもできない。
誰かを守るために戦うこともできない。
ただ、痛みに耐えることしかできない手だった。
「……」
如月は、無意識にその手へ自分の手を伸ばした。
老人の冷たい指先に触れた瞬間――
何かが、流れ込んできた。
「っ……!」
腹の奥を、鋭い刃物で抉られたような感覚が走る。
肺が潰れる。
骨が軋む。
内臓の奥に黒い鉛を詰め込まれたような重さが広がる。
痛み。
ただの痛み。
けれどそれは、如月が知っている痛みとは違っていた。
殴られた痛みでも、斬られた痛みでもない。
身体の内側から、逃げ場もなく蝕まれていく痛み。
声を出すこともできず、ただ時間が過ぎるのを待つしかない痛み。
老人が抱えていたものが、そのまま如月の中へ流れ込んでくる。
如月は息を止めた。
反射的に手を離そうとして――
離せなかった。
老人の指が、弱々しく如月の手を握り返していたからだ。
それは助けを求める力ではなかった。
すがりつく力でもない。
ただ、そこに誰かがいることを確かめるような、かすかな力だった。
如月は歯を食いしばる。
黒い痛みは、彼の身体の中で渦を巻き、やがて少しずつ薄れていった。
すると、老人の呼吸が変わった。
荒く乱れていた息が、ゆっくりと落ち着いていく。
シーツを握りしめていた指から力が抜け、強ばっていた顔が、ほんの少しだけ穏やかになった。
老人の唇が、かすかに動いた。
「……ああ」
聞き取れるかどうかの、小さな声だった。
「やっと……静かだ」
それが、最後の言葉だった。
老人の手から、力が消える。
胸の上下が止まる。
病室の中に、深い静寂が落ちた。
如月はしばらく、老人の手を握ったまま動けなかった。
殺したわけではない。
救ったわけでもない。
老人は死んだ。
それは変えられなかった。
けれど、最後の瞬間に浮かんでいた表情は、苦痛ではなかった。
まるで長い夜の終わりに、ようやく眠りにつけた人間のような顔だった。
扉が静かに開く。
美月が戻ってきて、ベッドのそばで足を止めた。
彼女はすぐに状況を理解したのだろう。
驚いた顔をしたあと、何も言わずに目を伏せた。
「……玖条さん」
小さな声で、美月が呼ぶ。
如月は手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
「俺は、何もしていない」
そう言った。
本当に、そう思った。
治したわけではない。
命を繋いだわけでもない。
ただ、流れ込んできた痛みに耐えただけだ。
けれど美月は、首を横に振った。
「そんなことありません」
彼女は老人の穏やかな顔を見つめ、それから如月へ視線を戻した。
「田村さん、最後……ひとりじゃありませんでした」
如月は答えられなかった。
美月の目には、責める色など少しもない。
ただ、静かな感謝のようなものがあった。
「玖条さんって……やっぱり、優しい人なんですね」
「違う」
反射的に否定した。
けれど、その声にはいつもの鋭さがなかった。
美月はそれ以上、何も言わなかった。
看護師を呼ぶために病室を出ていく彼女の背中を、如月はただ見送る。
その場に残された如月は、自分の右手を見下ろした。
この手は、悪魔を壊すためのものだと思っていた。
化け物の頭を砕き、魂を食らうものを消し去り、目の前の敵を容赦なく終わらせるための手。
誰かを救うためだとしても、結局は壊すことしかできない手。
そう思っていた。
けれど、違った。
壊せない痛みがある。
殺せない苦しみがある。
そしてその痛みを、ほんの少しだけ、自分の中へ引き受けることができるのだと。
その日、玖条如月は初めて知った。
魔王の欠片を宿すこの手は――
誰かを傷つけるだけのものではないのだと。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、如月が病院で初めて“壊すこと”以外の力に触れる回でした。
悪魔を倒すための手だと思っていたものが、誰かの痛みを少しだけ引き受けることもできる。
如月自身にとっても、大きな意味を持つ出来事になったと思います。
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次話もよろしくお願いします。




