第8話 悪魔よりも厄介なもの
一魂一体――いっこんいったい。
ひとつの魂に、ひとつの身体。
放課後。
残った生徒たちは、それぞれの担当に分かれた。
如月たちに割り振られた仕事は、応援用の道具確認だった。
教室の隅に置かれた段ボールの中には、メガホン、ハチマキ、うちわ、手作りの小道具などが雑に詰め込まれている。
如月と蓮也、そして美月の三人は、その前にしゃがみ込み、一つずつ中身を確認していた。
「メガホン、八個」
「ハチマキ、赤が……えっと、二十枚ですね」
「うちわ、十五」
最初のうちは、蓮也がいつものように騒ぐのかと思っていた。
だが、意外にも彼は真面目だった。
黙々と道具を取り出し、数を数え、紙に書かれたリストと照らし合わせている。
如月はその横顔を見ながら、心の中で呟いた。
――蓮也、俺にはあんなにうるさいくせに、今は修行僧みたいになってるな。
――この切り替えの早さで、女子と話してるのか?
――よく分からないやつだ。
そんなことを考えていた時だった。
ピコン、と小さな通知音が鳴った。
蓮也のスマホだった。
蓮也はポケットからスマホを取り出し、画面を確認する。
そして、ほんの一瞬だけ固まった。
「……あー」
嫌な予感がした。
如月が顔を上げると、蓮也は両手を合わせて、まるで神に祈るような姿勢を取っていた。
「すまん、キサ」
「え?」
「俺、今すぐ行かなきゃいけなくなった」
「待て」
「本当に悪い。この続き、頼んだ」
「いや、待てって」
「俺はお前を信じてる」
「勝手に信じるな」
「じゃ、また明日!」
そう言い残して、蓮也は逃げるように教室を出ていった。
如月はしばらく、何も言えなかった。
あまりにも自然に裏切られたせいで、怒るタイミングすら逃してしまった。
残されたのは、如月と美月だけだった。
教室の隅。
段ボールの前。
少し離れた場所では、他の生徒たちがクラス旗の仕上げをしている。
けれど、こちら側だけは妙に静かだった。
如月はメガホンを一つ手に取り、傷がないか確認するふりをした。
美月もまた、うちわを揃えながら、何かを言いたそうにしている。
その気配に気づいて、如月は小さく息を吐いた。
――このまま黙ってる方が、逆に気まずいか。
そう判断して、先に口を開く。
「体育祭、何か出るの?」
美月の目が、ほんの少しだけ明るくなった。
「はい。借り物競争に出る予定です」
「へえ」
「玖条さんは?」
「俺は出ない。出席だけして、終わるのを待つつもり」
「ふふ、玖条さんらしいですね」
「どういう意味?」
「そのままの意味です」
美月はそう言って、少しだけ笑った。
その笑顔に、如月は返す言葉を失う。
また、沈黙が落ちた。
けれど今度の沈黙は、さっきまでとは少し違っていた。
美月は手元のうちわを見つめながら、少し迷うように口を開く。
「……実は、少し気になっていたことがあるんです」
「うん」
「この前、玖条さんが執事と話していましたよね」
如月の手が、ほんのわずかに止まった。
美月は続ける。
「あの人、普段は私のクラスメイトに時間を使うような人じゃないんです。だから、何を話していたのかなって」
「……大した話じゃないよ」
「そうですか」
美月は少しだけ寂しそうに目を伏せた。
その表情を見て、如月は少し考える。
本当のことを言えるはずがない。
天使の魂。
十八歳の運命。
自分が彼女を守る役目を与えられたこと。
そんな話を、今ここでできるわけがなかった。
だから、如月は言葉を選んだ。
「たぶん、あの人は……美月に、普通の学校生活を送ってほしいんだと思う」
「……私に?」
「うん。余計なことを気にしないで、普通に笑っていてほしいんじゃないかな」
美月は少し驚いたように如月を見た。
それから、困ったように笑う。
「そう、なんでしょうか」
「……たぶん、だけど」
「でも……あの人、とても忙しいんです。家のことも、私のことも、全部一人で抱え込んでしまうから」
美月の声は、いつもより少しだけ小さかった。
「本当は、私も何か手伝いたいんです。でも、いつも“大丈夫です”って言われてしまって」
如月には、何も返せなかった。
美月の言葉は、思っていたよりもずっと普通で、ずっと人間らしかった。
守られている側にも、守られている側の苦しさがある。
そんな当たり前のことを、如月は少しだけ忘れていた。
また、二人の間に沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、美月だった。
「あの、玖条さん」
「うん」
「こんなことをお願いしていいのか分からないんですけど……」
美月は少しだけ頬を赤くしながら、言葉を探すように続けた。
「もし、今週末に時間があれば、私と一緒に病院のボランティアに来てくれませんか?」
「病院?」
「はい。もちろん、無理にとは言いません。ただ、最近ボランティアの人が少なくて……」
美月は慌てたように手を振った。
「毎週来てほしいとか、そういう意味じゃないんです。ただ、一度だけでも経験してみてもらえたら嬉しいなって。患者さんと少しお話ししてもらうだけでも大丈夫ですし、難しいことは何もありませんから」
如月の答えは、最初から決まっていた。
嫌だ。
面倒くさい。
行く理由がない。
そう言えば終わる話だった。
今までだって、そうやって断ってきた。
誰かの誘いも、頼みごとも、期待も。
自分に関係のないものは、全部切り捨ててきた。
なのに。
「……」
言葉が出なかった。
如月は、手の中のメガホンを見つめたまま動けなくなる。
美月は、その沈黙を断りの意味だと思ったのか、少し気まずそうに笑った。
「あ、すみません。急に変なことを言ってしまって」
「……いや」
「本当に、無理しなくて大丈夫ですから」
「……」
外から見れば、如月はいつも通り無表情だった。
けれど、頭の中では静かな戦いが起きていた。
――どうして言えないんだ。
――断ればいいだけのはずなのに。
――今まで何回もやってきただろ。
――なのに、どうしてこんなに言いづらい。
――どうして、美月にだけ悪いことをしてる気分になるんだ。
悪魔の爪も、牙も、殺意も、如月にとっては怖いものではなかった。
本当に厄介なのは、こういうものだった。
逃げ道のない、まっすぐな善意。
断る理由を探せば探すほど、自分が悪者になっていくような感覚。
如月は、深く息を吐いた。
そして、負けを認めるように言った。
「……一回だけなら」
美月の顔が、ぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
「うん。ただ、難しいことはできないと思う」
「大丈夫です。難しいことはお願いしません。患者さんと少しお話ししてもらうだけでも、本当に助かります」
美月は嬉しそうに微笑んだ。
「では、あとで詳しい場所と時間を送りますね。連絡先、交換してもいいですか?」
如月は一瞬、固まった。
完全に逃げ道を塞がれた気がした。
それでも、今さら断ることもできず、ポケットからスマホを取り出す。
美月と連絡先を交換したあと、如月は画面に表示された名前を見つめた。
――美月。
たった二文字の名前が、なぜか重く見えた。
その日の帰り道。
如月のスマホが、小さく震えた。
画面には、ついさっき登録したばかりの名前が表示されていた。
『明日、よろしくお願いします。玖条さんが来てくれるの、楽しみにしています』
如月はその文章をしばらく見つめた。
どう返せばいいのか分からない。
悪魔なら、迷わず倒せる。
殺意なら、すぐに嗅ぎ分けられる。
けれど、こういう言葉だけは、どう扱えばいいのか分からなかった。
如月は数分悩んだ末に、ようやく短く返信した。
『了解』
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。
如月はスマホをポケットにしまい、夜空を見上げた。
体育祭まで、あと二日。
そして明日。
彼は、人生で初めて病院のボランティアに行くことになった。
悪魔よりも厄介なものが、この世界にはある。
如月はその日、ようやくそれを知った。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
悪魔や運命よりも、まっすぐな善意の方が如月にとっては厄介なのかもしれません。
次回は、美月に誘われた病院のボランティアから物語が進んでいきます。
次話もよろしくお願いします。




