第10話 怖くない人
一魂一体――いっこんいったい。
ひとつの魂に、ひとつの身体。
病院でのボランティアは、思っていたよりも長く続いた。
美月は慣れた様子で病室を回り、患者たちに毛布を届けたり、食事の配膳を手伝ったり、薬を受け取る患者のそばに付き添ったりしていた。
その動きに迷いはなかった。
誰に何を渡せばいいのか。
誰にどんな声をかければいいのか。
どの病室では少し明るく、どの病室では静かに話すべきなのか。
美月は、ちゃんと分かっているようだった。
それでも時々、彼女は如月の方を振り返った。
心配しているのだろう。
田村の最期に立ち会った如月が、何も感じていないはずがないと、そう思っているのかもしれない。
如月は、何も言わなかった。
言えることがなかった。
ただ、美月に言われた通り、患者たちの話を聞いて回った。
昔の仕事の話。
孫の話。
若い頃に見た海の話。
食事の味が薄いという文句。
看護師に怒られたという、少し楽しそうな愚痴。
どう返せばいいのか分からない話ばかりだった。
それでも、如月が黙って聞いているだけで、患者たちは不思議と話を続けた。
気づけば、窓の外の光は少しずつ色を変えていた。
夕方。
病院の前にある小さなベンチに、如月は一人で座っていた。
空は茜色に染まり始めている。
街路樹の葉が風に揺れ、その間を小さな鳥が横切っていく。
動いているものは、それくらいだった。
如月はぼんやりと木々を眺めながら、今日一日の出来事を頭の中で巻き戻していた。
田村の手。
流れ込んできた痛み。
静かになっていく呼吸。
最後に浮かんでいた、穏やかな表情。
――俺は、何なんだろうな。
今日まで、自分の力は悪魔を狩るためのものだと思っていた。
普通の人間ではないことくらい、ずっと前から知っている。
自分の中に、人ではない何かがあることも、どこかで分かっていた。
けれど、それを認めたわけではなかった。
ただ、見ないふりをしていただけだ。
悪魔を殺す力。
人には見えないものを見る目。
誰かの痛みを、自分の中へ引き受ける手。
全部、自分のものなのに。
どこかで、自分のものではないような気がしていた。
「玖条さん」
声をかけられて、如月は顔を上げた。
いつの間にか、美月がそばに立っていた。
病院で着ていたボランティア用のエプロンは外していて、制服姿に戻っている。
その手には、小さなアイスが二つあった。
「患者さんからいただきました。玖条さんの分も、って」
美月はそう言って、片方を差し出した。
「……俺にも?」
「はい」
如月は少しだけ迷ってから、それを受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
美月は隣に腰を下ろす。
二人はしばらく、何も言わずにアイスを食べた。
病院の前を通る人の足音。
遠くを走る車の音。
溶けかけたアイスの冷たさ。
それだけが、妙にはっきりしていた。
先に口を開いたのは、美月だった。
「玖条さん」
「……何」
「田村さんのこと、怖かったですか?」
如月は少しだけ目を細めた。
「怖い?」
「はい」
美月はアイスを見つめたまま、静かに言った。
「田村さんは、ずっと痛みと戦っていました。もう長くないことも、たぶんご本人は分かっていたと思います」
その声には、悲しみが混じっていた。
「だから……玖条さんの目の前で亡くなってしまったこと、つらかったんじゃないかと思って」
如月は答えなかった。
怖かったのかと聞かれれば、違う気がした。
死を見たことがないわけではない。
誰かが消えていく瞬間を知らないわけでもない。
けれど、平気だったのかと聞かれれば、それも違った。
如月は自分の手を見下ろす。
田村の冷たい指先。
弱々しく握り返してきた力。
そして、最後に浮かんでいた穏やかな表情。
その全部が、まだ手の中に残っている気がした。
「……よく分からない」
如月は低く言った。
「怖いとか、悲しいとか、そういう言葉で片づけていいのか分からない」
美月は黙って聞いていた。
如月はしばらく自分の手を見つめてから、ぽつりと言う。
「ただ……最後は、少し静かだった」
美月は小さくうなずいた。
「田村さん、とても穏やかな顔をしていました」
「俺は、何もしてない」
「そんなことありません」
美月の声は、思ったよりもはっきりしていた。
如月は少し驚いて、美月を見る。
美月は、まっすぐに如月を見返していた。
「玖条さんが、そばにいてくれました」
「……それだけだろ」
「それだけじゃありません」
夕方の風が、二人の間を静かに通り抜ける。
美月は少しだけ微笑んだ。
「ひとりで痛みに耐えるのは、きっとすごく怖いことです。でも最後に誰かがそばにいてくれたら、それだけで救われることもあると思うんです」
如月は返事をしなかった。
美月の言葉は、まっすぐすぎた。
まっすぐすぎて、避け方が分からなかった。
「玖条さんって、やっぱり優しい人なんですね」
「違う」
反射的に否定した。
「俺は、ただどうすればいいのか分からなかっただけだ」
美月は小さく笑った。
「人って、どうすればいいか分からない時ほど、その人らしさが出ると思います」
如月は黙った。
何も言い返せなかった。
美月はアイスの残りを食べ終えると、ふいに立ち上がった。
そして、如月の正面に回る。
如月は少し驚いて、顔を上げた。
「決めました」
「……何を」
美月は、夕焼けを背にして笑った。
「これからは、玖条さんにはあまり遠慮しないで話します」
「いや、今までもわりと遠慮なかった気がするけど」
「そうですか?」
「うん」
「じゃあ、もう少しだけ遠慮しません」
「増えるのか」
如月がそう言うと、美月は楽しそうに笑った。
その笑顔は、病室で見せたものとは少し違っていた。
悲しみを含んだ優しさではなく、ただ普通の女子高生のような笑顔だった。
「玖条さんは、怖い人じゃありません」
美月は静かに言った。
「強い人だとは思います。少し不器用な人だとも思います。でも、怖い人ではありません」
如月は言葉を失った。
そんなふうに言われるとは、思っていなかった。
美月は鞄を持ち直す。
「そろそろ帰りますね。明日は体育祭ですし」
「ああ」
「明日、また学校で」
如月は少しだけ間を置いてから答えた。
「……ああ。また明日」
美月は軽く手を振ると、夕暮れの道へ歩いていった。
その背中が見えなくなるまで、如月はしばらくその場を動かなかった。
胸の奥が、少しだけざわついている。
印のせいなのか。
呪いのせいなのか。
それとも――
自分自身の感情なのか。
まだ分からない。
ただ一つだけ分かったことがある。
美月は、如月のことを怖がらなかった。
その事実が、なぜか何よりも重かった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、病院での出来事のあと、如月と美月が少しだけ距離を縮める回でした。
如月にとって、自分の力や存在はまだ分からないことだらけです。
それでも、美月が彼を怖がらなかったことは、彼の中で大きな意味を持つ出来事になったと思います。
次話では、いよいよ体育祭です。
少しでも続きが気になっていただけたら、次話もよろしくお願いします。




