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一魂一体  作者: Kioh
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19/20

第19話 魂の奥で見返す者

一魂一体――いっこんいったい。

ひとつの魂に、ひとつの身体。

如月は暗闇の奥へ意識を沈めた。


身体ではなく。


頭でもなく。


魂そのものから描け。


カロス・グラウスの言葉が、遠くで響いている。


けれど、その声も少しずつ薄れていった。


足元の草の感触が消える。


頬を撫でていた風が遠ざかる。


遠くに見えていた山脈も、青い空も、白い雲も、意識の外へ流れていく。


残ったのは、自分の呼吸だけだった。


吸って。


吐いて。


また、吸う。


それだけを繰り返しながら、如月は自分の奥へ沈んでいく。


怖くないと言えば嘘になる。


自分の中にあるものを知るのは、悪魔を殴るよりずっと気持ちが悪い。


自分が何者なのか。


自分の中に何があるのか。


本当は、知りたくなかった。


だが、知らなければならない。


美月を守るために。


自分が燃え尽きないために。


そして、誰かが決めた法則を壊すために。


如月はさらに深く意識を沈めた。


暗い。


どこまでも暗い。


けれど、何もないわけではなかった。


そこには、何かがある。


まだ形にはならない。


声もない。


手触りもない。


だが、確かにそこにある。


まるで、目を閉じたまま巨大な刃物の前に立っているような感覚だった。


見えないのに分かる。


触れていないのに分かる。


それは、近づいてはいけないものだった。


同時に。


逃げてはいけないものでもあった。


「……」


如月は、さらに奥へ手を伸ばすように意識を沈める。


その瞬間。


外側で、変化が起きた。


カロスは、如月の正面に立ったまま動かなかった。


黄色い瞳は、まばたき一つしない。


如月の呼吸。


肩の動き。


指先の震え。


そのすべてを見逃さないように見ている。


最初の数秒は、何も起こらなかった。


ただ、如月が目を閉じて立っているだけだった。


だが、十秒ほど経った頃。


如月の身体から、黒い煙が細く漏れ始めた。


最初は、吐息のように薄かった。


肩から。


腕から。


背中から。


影がほどけるように、黒い煙がゆっくりと立ち上る。


風は吹いている。


草原の草も揺れている。


それなのに、その煙だけは流されなかった。


如月の周囲にまとわりつき、ゆっくりと形を失いながら広がっていく。


カロスの目が細くなった。


「……ヨウ」


低く呼ぶ。


返事はない。


如月は目を閉じたまま動かない。


カロスは、ほんのわずかに腰を落とした。


両足に力を込める。


いつでも動けるように。


いつでも距離を取れるように。


黒い煙は、次第に濃くなっていった。


ただの煙ではない。


光を奪う煙だった。


如月の周囲だけ、草原の色が薄れていく。


緑だった草が、黒に近づく。


空の青さが遠くなる。


そこだけ、世界から色が抜け落ちていくようだった。


カロスは息を浅くした。


嫌な感覚だった。


これは、領域が生まれる時の気配に似ている。


だが、違う。


領域なら、作り手の魂が外へ広がり、世界を形作ろうとする。


砂漠。


森。


海。


闇。


炎。


空。


何であれ、そこには形がある。


意志がある。


作り手にとって有利な世界を作ろうとする方向がある。


だが、如月のこれは違った。


作ろうとしていない。


広げようとしていない。


ただ、漏れている。


そして漏れたものが、触れた場所から色を奪っている。


カロスの喉が、小さく鳴った。


「……まずいな」


如月を包む黒い煙は、さらに厚みを増していく。


煙というより、雲だった。


小さな黒い雲。


いや、違う。


それは集まっている。


周囲の空気を。


光を。


気配を。


何もかもを吸い寄せるように、黒い雲は濃く、重くなっていく。


草原の風が止まった。


揺れていた草も動きを止める。


遠くの雲も、まるで絵のように固まった。


カロスは足元に力を込めた。


背中の翼をわずかに広げる。


飛ぶべきか。


走るべきか。


止めるべきか。


判断を下すより早く、黒い雲の動きが止まった。


完全な静止。


煙の揺らぎもない。


草のざわめきもない。


風の音さえ消えた。


その一瞬で、カロスは理解した。


これは危険だ。


次の瞬間、カロスは背を向けて走った。


翼は使わない。


空へ逃げれば、軌道が単純になる。


地面を低く蹴り、身体を前へ倒し、できる限り速く遠くへ。


カロスは草原を駆け抜けた。


その背後で。


空気が、裂けた。


一度ではない。


二度でもない。


数え切れないほどの刃が、同時に世界を薙いだ。


金属音ではなかった。


もっと薄く。


もっと鋭く。


もっと冷たい音。


まるで、空間そのものの表面を、巨大な何かが刈り取ったような音だった。


カロスの背筋に冷たいものが走る。


一本の刃ではありえない。


一人の腕では振るえない。


それは、斬撃というより、収穫に近かった。


世界の表面に生えているものを、まとめて刈り払う音。


カロスはさらに速度を上げた。


耳の奥で、細い風切り音が重なっていく。


それらは、ほんの一瞬の出来事だった。


コンマ二秒にも満たない時間。


だが、その短すぎる時間の中で、刃の音は何十にも重なった。


カロスは五十メートル以上離れたところで地面を蹴り、ようやく振り返る。


土煙が上がっていた。


黒い煙と、削られた草の粉塵が混ざり合い、視界を塞いでいる。


如月の姿は見えない。


カロスは息を殺した。


腕輪が、かすかに脈打っている。


ヴェルの支配が、まだこの領域に残っている。


だから、領域そのものは崩れていない。


だが。


今のものが、もう一度起きればどうなるか。


カロスには分からなかった。


やがて、風が戻ってきた。


ゆっくりと土煙が流れていく。


そして、カロスはそれを見た。


如月を中心に、草原が切り裂かれていた。


半径五十メートルほど。


その一帯だけ、色がなかった。


草は黒く染まり、土も光を失っている。


焼けたわけではない。


砕けたわけでもない。


ただ、そこにあった命と色だけが、まとめて刈り取られたようだった。


無数の斬痕が、地面に刻まれている。


真っ直ぐなもの。


弧を描くもの。


浅いもの。


深いもの。


その中でも特に大きな傷は、半月のような形で草原を横切っていた。


剣ではない。


槍でもない。


斧でもない。


もっと長く。


もっと大きく。


もっと死に近い形の刃。


巨大な鎌が、世界の表面をまとめて薙ぎ払ったような跡だった。


色を失った黒い斬痕だけが残っている。


まるで、その部分だけが世界から切り離され、死んだまま置き去りにされたようだった。


「……」


カロスは言葉を失った。


領域の訓練とは、こういうものではない。


自分の魂を広げ、戦場を作る。


相手の支配を読み、崩す。


逃げ道を作り、反撃する。


それが、本来の目的だった。


だが、今のこれは違う。


領域を作ったのではない。


何かが、外へ漏れた。


そして漏れた瞬間、周囲を刈り取った。


黒い傷跡の中心に、如月が倒れていた。


うつ伏せに近い形で、片腕を地面に投げ出している。


カロスは舌打ちをし、すぐに走った。


「ヨウ!」


返事はない。


カロスは如月のそばに膝をつき、肩を掴んで仰向けにする。


如月の顔色は悪かった。


額には汗が滲み、呼吸は荒い。


だが、生きている。


魂も砕けてはいない。


カロスは短く息を吐いた。


その瞬間、如月の手が動いた。


カロスの前腕を、強く掴む。


「……見た」


かすれた声だった。


カロスは眉をひそめる。


「何をだ」


如月は荒く息を吸った。


肺が空気を拒むように、呼吸が乱れている。


それでも、彼はカロスの腕を離さなかった。


「誰かを、見た」


「誰か?」


「ああ」


如月の目は、まだ焦点が合っていなかった。


草原を見ているようで、別の場所を見ている。


「俺の中に……誰かがいた」


カロスの表情が変わる。


「詳しく言え」


如月は喉を鳴らし、息を整えようとした。


だが、言葉は途切れ途切れにしか出てこない。


「暗かった」


「……」


「何もない場所だった。声も、光も、風もない。だけど……そこに、いた」


「何が」


「悪魔だ」


如月は低く言った。


「子どもみたいな……いや、少年みたいな悪魔だった」


カロスは黙った。


如月は続ける。


「そいつが、こっちを見てた」


「見ていた?」


「ああ」


如月の手に力がこもる。


カロスの前腕に、指が食い込む。


「俺が覗いたんじゃない。向こうも、俺を見てた」


カロスの黄色い瞳が、わずかに揺れた。


如月は荒い息のまま、ぽつりと言う。


「そいつが言った」


草原に沈黙が落ちる。


如月の呼吸音だけが聞こえた。


「どうして、こんなに遅かったんだって」


カロスは、息を止めた。


「俺を見るまで、どれだけ時間をかけるつもりだったんだって」


如月の声が、わずかに震えていた。


恐怖ではない。


混乱。


そして、自分の中に知らない誰かがいたという、どうしようもない気味の悪さ。


「俺は……それ以上、見ていられなかった」


如月は目を閉じる。


「焦って、戻ろうとして……気づいたら、倒れてた」


カロスは答えなかった。


ただ、如月を見下ろしていた。


魔王の魂の欠片。


ヨウ。


一つの身体に、二つの魂を抱く者。


その知識はある。


だが、魔王の魂の欠片が、別の悪魔の姿を取って本人へ語りかけるなど、聞いたことがなかった。


少なくとも、カロスは知らない。


「……俺の見立てが間違っていなければ」


カロスは慎重に口を開いた。


「お前が見たものは、魔王陛下の魂の欠片だ」


如月は薄く目を開ける。


「欠片?」


「ああ。お前の中にあると言われているものだ」


「でも、あれは……」


如月は言葉を探す。


「欠片って感じじゃなかった」


「だろうな」


カロスの声は、いつもより低かった。


「俺も、魔王の魂の欠片がどういう形をしているのかは知らない。だが、欠片が独立した悪魔のように姿を持ち、意思を持って語りかけてくるなど、聞いたことがない」


如月は黙った。


沈黙の中で、ようやく周囲を見る余裕が戻ってくる。


そして、自分の周りに広がる光景を見た。


黒く切り裂かれた草原。


無数の刃跡。


巨大な弧を描く、鎌のような傷。


色を失った地面。


如月の目が見開かれる。


「……何だ、これ」


カロスは短く息を吐いた。


「お前がやった」


「俺が?」


「ああ」


「覚えてない」


「だろうな」


カロスは立ち上がり、周囲を見渡した。


「黒い煙がお前を包んだ。俺は危険を感じて距離を取った。その直後、背後で無数の刃が振るわれる音がした」


「刃?」


「そうだ」


カロスの顔に、わずかな苦味が浮かぶ。


「俺が黒翼隊でなければ、死んでいた」


如月は言葉を失った。


カロスは続ける。


「コンマ二秒にも満たない時間だった。だが、その間にこの範囲が斬り刻まれた。一本の剣でできる数ではない。腕の速さで説明できるものでもない」


如月は自分の手を見る。


何も持っていない。


剣も。


刃も。


鎌も。


ただ、自分の手があるだけだ。


「俺は、何をした」


「分からない」


カロスは即答した。


如月が顔を上げる。


カロスの表情には、苛立ちも嘲りもなかった。


あるのは、警戒と困惑だけだった。


「俺も、こんなものは見たことがない」


カロスは黒くなった草を足で軽く押した。


草は砕けなかった。


燃え尽きた灰でもない。


ただ、色を失ったまま、そこに存在している。


「普通、魂が求めるものが領域の形になる。狩る者なら狩場を作る。隠れる者なら闇を作る。飛ぶ者なら空を作る。俺なら赤い砂の領域だ」


カロスは如月を見た。


「だが、お前のこれは、領域を作る前に外へ干渉している」


「外?」


「この草原はヴェル殿下の領域だ。本来なら、お前がここを書き換えることなどできない。ましてや、これだけ広範囲を斬るなどありえない」


如月はゆっくりと身体を起こそうとした。


だが、腕に力が入らず、少しだけよろける。


カロスは一瞬迷ったあと、無言で肩を支えた。


如月はその手を見て、わずかに眉を寄せる。


「……助けるのか」


「死なれると困る」


「分かりやすいな」


「互いにな」


如月は何も言い返せなかった。


ようやく座り込む形になり、荒い息を整える。


身体は重い。


だが、痛みそのものは昨日ほどではない。


それよりも、胸の奥の違和感が強かった。


見られていた。


自分の中で。


自分が知らない誰かに。


「俺は、どうすればいい」


如月は低く聞いた。


カロスはすぐには答えなかった。


黒い傷跡。


色を失った草。


倒れた如月。


そして、如月の中で見返してきたという少年の悪魔。


そのすべてを頭の中で並べるように、沈黙していた。


やがて、カロスは深く息を吐いた。


「正直に言う」


「何だ」


「最善の方法かどうかは分からない」


如月は目を細める。


カロスは続けた。


「だが、今のお前には、もう一度あれを見る必要がある」


「……あの中に戻れってことか」


「ああ」


カロスの声は硬かった。


「お前の魂が何を望んでいるのか。お前の中にいるものが何なのか。それを知らずに領域を作ろうとすれば、今のように力だけが暴れる」


「また同じことになったら?」


「今度は俺がもっと早く逃げる」


「教師として最低だな」


「生徒と一緒に死ぬ教師の方が愚かだ」


如月は小さく息を吐いた。


笑ったわけではない。


だが、少しだけ呼吸が戻った。


カロスは如月を見下ろす。


その顔には、二つの不安があった。


一つは、如月に何かが起こることへの不安。


もう一つは、自分がそれに巻き込まれて死ぬことへの不安。


どちらも、隠す気はないらしい。


「もう一度だ、ヨウ」


カロスは静かに言った。


「お前の中にいる悪魔と、話してこい」

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、如月が初めて自分の内側にいる“何か”を見た回でした。


まだ武器の形も、領域の形もはっきりしていませんが、如月の魂がどんな方向へ向かっているのかが少しだけ見え始めたと思います。


次回もよろしくお願いします。

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