第18話 魂から描くもの
一魂一体――いっこんいったい。
ひとつの魂に、ひとつの身体。
「……始めるぞ、ヨウ」
カロス・グラウスの声が、草原に低く響いた。
風が流れている。
足元の草は静かに揺れ、遠くの山脈には白い雪が残っている。
どう見ても、戦場には見えなかった。
だが、如月は知っている。
ここは現実ではない。
ヴェル・ノクスが作り出した領域。
そして今、自分の目の前に立っているのは、昨日まで自分を殺そうとしていた悪魔だった。
カロスの両手首には、黒い腕輪が残っている。
影を固めたような薄い輪。
そこから伸びる赤黒い紋様が、手の甲から指先へと這っていた。
ヴェルは言った。
逃げようとすれば、その腕輪が魂の芯を締め上げる。
如月に致命傷を与えようとしても同じだ、と。
だから、今すぐ殺される危険はない。
頭では分かっている。
分かっているはずだった。
けれど、如月の身体は完全には力を抜けなかった。
首を掴まれた感覚。
腹を殴られ、魂の奥まで響いたような痛み。
赤い砂の上で何もできず、殺されかけた記憶。
それはまだ、身体のどこかに残っている。
「そんな顔をするな」
カロスが言った。
「俺は今、お前を殺せない」
「殺せないだけだろ」
「その通りだ」
カロスは否定しなかった。
むしろ、それでいいと言わんばかりに静かに頷く。
「信用しろとは言わない。俺も、お前に信用されたいとは思っていない」
「なら、ちょうどいい」
「だが、教える以上は教える。七日後に使い物になっていなければ、死ぬのは俺だからな」
その声には、屈辱が滲んでいた。
だが同時に、妙な冷静さもあった。
死にたくない。
だから教える。
その理由だけは、分かりやすかった。
カロスは少しだけ翼を広げ、肩を回すように動かした。
黒い羽が、草原の風を受けて揺れる。
「まずは、お前自身の領域を作るところから始める」
「俺の領域?」
如月は眉をひそめた。
「そうだ」
カロスは淡々と言う。
「自分の領域を作れれば、他者の領域に入った時にも、何が起きているのかを理解しやすくなる。相手が何を支配しているのか。どこを歪めているのか。どこに逃げ道があるのか。それを感じ取れるようになる」
「……いきなり難しそうなことを言うな」
「難しいに決まっている」
カロスは当然のように言った。
「簡単なら、お前は俺の領域であそこまで無様に転がっていない」
如月の目が細くなる。
「喧嘩売ってるのか」
「事実を言っている」
「やっぱり喧嘩売ってるだろ」
「安心しろ。今は買えない」
カロスはそう言って、少しだけ口元を歪めた。
笑ったのかどうかは分からない。
ただ、如月にとっては気に入らない顔だった。
「カロス」
如月は低く呼んだ。
カロスの黄色い目が、わずかに動く。
「何だ」
「その前に、一つ聞いていいか」
「言え」
「ヴェルは一週間って言ったよな」
「ああ」
「俺の学校はどうなる」
その瞬間、カロスは深く、深くため息を吐いた。
草原の空気が少し冷えた気がするくらい、分かりやすいため息だった。
「お前は……」
「何だよ」
「俺に殺されかけ、魔王軍に狙われ、堕ちた天使まで標的にされていると知った直後に、心配することが学校か」
「学校には行かなきゃいけないだろ」
「行かなければ死ぬのか」
「ばあちゃんに怪しまれる」
カロスは一瞬黙った。
それから、何かを諦めたように目を伏せた。
「……ヴェル殿下の弟というのは、よく分からない生き物だな」
「弟じゃない」
「そこはどうでもいい」
「どうでもよくない」
カロスは無視した。
「心配する必要はない。この領域では、お前は七日を過ごす。だが現世で流れる時間は、おそらく七分ほどだ」
「……七分?」
如月は思わず聞き返した。
「七日が、七分?」
「ああ」
「そんなことまでできるのか」
「領域とは、そういうものだ」
カロスは草原を見渡した。
「ただし、誰にでもできるわけではない。むしろ、ここまで時間を圧縮できる存在の方が異常だ」
如月は無意識に空を見上げた。
高い空。
薄く流れる雲。
遠くの山々。
この広すぎる草原のどこにも、ヴェルの姿はない。
それなのに、この世界はヴェルのものだった。
本人がいなくても、形を保っている。
七日分の時間を、現世の七分に押し込める。
改めて考えると、あの悪魔がどれほど規格外なのか、少しだけ分かってしまう。
「じゃあ、領域って全部そうなのか?」
「そうとは限らない」
カロスは首を横に振った。
「領域には、大きく三つの要素がある」
「三つ?」
「広さ。環境。そして、時間の圧縮率だ」
カロスは指を一本立てた。
「まず広さ。これは領域の範囲だ。小さな部屋ほどのものしか作れない悪魔もいれば、都市一つを飲み込むほどの領域を作れる者もいる」
二本目の指が立つ。
「次に環境。砂漠、森、海、空、闇、氷、炎。領域の中の環境は、作り手の魂の性質や戦い方に強く影響される。作り手にとって有利な世界になるのが普通だ」
三本目。
「最後に、時間の圧縮率。領域の中で流れる時間と、現世で流れる時間の差だ」
如月は黙って聞いていた。
聞き逃せない。
これは、今まで誰も教えてくれなかった知識だった。
悪魔を見つけて、潰す。
それだけで済んでいた戦いが、昨日からまるで別のものになっている。
「領域は、魂の力で作る」
カロスは続けた。
「ただ広いだけなら意味がない。ただ環境を作るだけでも意味がない。ただ時間を歪めるだけでも、維持できなければ崩れる。三つをどう組み合わせるかで、領域の格が決まる」
「ヴェルのこれは?」
「広さは、ほぼ測れない」
カロスは少し苦々しげに言った。
「少なくとも、俺には端が見えない。環境は訓練用に整えられている。草原、山、空。殺すためではなく、動かし、休ませ、試すための世界だ」
「……ヴェルらしくないな」
「そうか?」
「あいつなら、もっと地獄っぽいものを出しそうだと思った」
カロスは少しだけ目を細めた。
「お前にとってはそう見えるのかもしれないな」
「違うのか」
「ヴェル殿下は、地獄そのものではない」
その言葉は、意外なほど静かだった。
「地獄の王子ではある。だが、地獄の形に縛られる方ではない。あの方は、必要なら地獄すら塗り替える側だ」
如月は返事をしなかった。
カロスの声には、恐怖だけではないものが混じっていた。
尊敬。
憧れ。
あるいは、圧倒的な力を前にした者だけが持つ、諦めにも似た敬意。
悪魔は、敵であっても力を認める。
昨日、ヴェルを見上げたカロスの目もそうだった。
怯えていた。
だが同時に、見惚れていた。
「お前たち悪魔って、分かりやすいな」
「何がだ」
「強いやつを見る目が」
カロスは少しだけ眉を動かした。
「力を認めることは、悪魔にとって恥ではない」
「敵でもか」
「敵だからこそだ」
カロスは当然のように言った。
「弱い敵を侮るのは簡単だ。強い敵を正しく恐れ、正しく測り、正しく殺す。それができない者から死ぬ」
「……物騒だな」
「地獄では普通だ」
「聞くだけで疲れる世界だな」
「現世の学校よりは分かりやすい」
「それは少し分かる」
言ってから、如月は少しだけ嫌な顔をした。
カロスと意見が合った気がして、気分が悪かった。
カロスは気にせず話を戻す。
「時間の圧縮について言えば、この領域は一日が現世の一分に近い。七日を七分に収めるなど、普通の悪魔には不可能だ」
「お前は?」
「俺の領域なら、そこまでできない」
カロスはあっさりと言った。
負けたことを隠すつもりも、誤魔化すつもりもないらしい。
「俺の赤い砂の領域は、広さだけなら現世の日本全土に近い」
「日本全部?」
如月は思わず声を上げた。
昨日、あの赤い砂漠が果てしなく見えた理由が、少しだけ分かった。
「ああ。獲物を引きずり込む時は、出現位置を中心部に設定できる。そこから境界まで逃げるには、相当な距離を移動しなければならない」
「……性格悪いな」
「狩場だからな」
カロスは何でもないことのように言う。
「領域の作り手は、基本的に二つの方法で領域を終わらせられる。一つは、自分で解除すること。その場合、中にいる者ごと外へ戻る」
「もう一つは?」
「作り手が死ぬことだ」
カロスの声が少し低くなる。
「作り手の魂が潰れれば、領域は維持できない。だから、獲物が脱出する方法も主に二つだ。作り手を倒すか、境界まで逃げて外へ出るか」
如月は昨日のことを思い出した。
赤い砂。
血の雲。
どこまでも続くような世界。
自分は、境界がどこかすら分からなかった。
逃げるという選択肢すら、頭になかった。
「昨日の俺は、そのどっちもできなかったわけか」
「そうだ」
カロスは容赦なく言った。
「お前は境界を読めなかった。俺がどこを支配しているかも分からなかった。空気、視界、足場、距離感。そのすべてを俺に握られたまま、真正面から殴りかかってきた」
「……」
「力だけなら、お前は異常だ。だが、領域の中では力だけで勝てるとは限らない」
カロスは如月を見据えた。
「領域は、作り手の魂でできた戦場だ。そこに何も知らずに入るということは、相手の体内に裸で飛び込むのと同じだ」
如月は奥歯を噛んだ。
腹が立つ。
だが、言い返せなかった。
昨日の敗北は、まさにその通りだったからだ。
「……じゃあ、この領域はどうなんだ」
如月は周囲を見回した。
「俺たちは今、ヴェルの領域の中にいる。でも、ヴェルはいない」
「あれは例外だ」
「またそれか」
「例外を例外と言わずに説明できるなら、俺が聞きたい」
カロスはわずかに肩をすくめる。
「普通の作り手は、領域を維持するために中にいるか、強い接続を保つ必要がある。だが、ヴェル殿下は違う。あの方は、一度作った領域に自分の支配を残せる」
「支配を残す?」
「領域そのものに、自分の命令を刻むようなものだ」
カロスは少しだけ遠くを見る。
「俺の領域を上書きした時もそうだった。あの方は、俺の砂も空も逃げ道も、すべて自分の支配で塗り潰した。俺は自分の領域の中にいたのに、自分の領域ではなくなっていた」
その声には、わずかな苦味があった。
自分の狩場を奪われた屈辱。
だが同時に、その力を認めざるを得ない悔しさ。
如月は黙って聞いていた。
昨日、自分が見たもの。
赤い砂が下がり、雲が消え、赤黒い大地が現れた。
そしてその大地が、ヴェルの掌だったと知った瞬間。
あれは、ただ助けられたという話ではない。
カロスという悪魔が作り上げた世界そのものを、ヴェルは奪ったのだ。
「それが、魔王の息子ってことか」
「そうだ」
カロスは即答した。
その目には、またあの色があった。
恐怖と、敬意。
「そして、お前もその血に連なる者だ」
「俺は人間だ」
「人間でもある」
カロスはそう言った。
如月は目を細める。
「どういう意味だ」
「ヴェル殿下も言っていただろう。お前は、一つの身体に二つの魂を抱く者だ」
「……」
「人の魂と、魔王の魂の欠片。だからヨウと呼ばれる」
如月の胸の奥が、わずかにざわついた。
二つの魂。
一つの身体。
一魂一体という法則から外れた存在。
その言葉は、何度聞いても気分のいいものではなかった。
「俺の中に、別の誰かがいるってことか」
「そこまでは知らない」
カロスは冷たく言った。
「俺は天使ではないし、魔王陛下でもない。お前の中身の詳しい構造など知るか」
「急に雑になるな」
「知らないものは知らない」
カロスは翼を軽く畳む。
「だが、領域を作るには、その“自分の中にあるもの”に触れる必要がある」
「どうやって」
「だから、今からそれをやる」
カロスは右手を上げた。
その指先に、赤黒い光がわずかに灯る。
如月は反射的に身構えた。
だが、カロスは攻撃しなかった。
指先の光は、小さな羽の形になり、すぐに霧のように消えた。
「領域を作る時、最初に必要なのは想像だ」
「想像?」
如月は怪訝な顔をした。
「そんなのでいいのか」
「そんなものが、一番難しい」
カロスは静かに言った。
「ただ頭で景色を思い浮かべるだけなら、誰にでもできる。海でも、山でも、部屋でも、好きに想像すればいい。だが、それはただの記憶だ。ただの絵だ」
「じゃあ、何を想像するんだ」
「魂で想像しろ」
如月は黙った。
数秒、風の音だけが流れる。
「……何を言ってるんだ?」
「魂で想像しろと言った」
「言葉をそのまま繰り返すな。意味を聞いてる」
カロスは、少しだけ呆れたように目を細めた。
「お前は、身体で世界を見ている。目で空を見て、耳で風を聞き、足で地面を感じている。だが、領域は肉体で作るものではない。魂が外へ広がり、形を持ったものだ」
「魂が外へ広がる……」
「そうだ」
カロスは足元の草を見下ろした。
「この草原も、ヴェル殿下の魂の支配が形になったものだ。見た目が穏やかでも、根本はあの方の力でできている。だから俺は、この世界の端を破れない。腕輪だけではない。領域そのものが、俺を許可なく外へ出さない」
如月は足元の草を見る。
普通の草にしか見えない。
踏めば柔らかく沈む。
風が吹けば揺れる。
それなのに、これは現実の草ではない。
ヴェルの魂が形を持ったもの。
そう考えた瞬間、気持ちの悪い感覚が背筋を撫でた。
「お前が作る領域も同じだ」
カロスは言った。
「頭で作るな。身体で作るな。自分の魂の形を、外へ押し広げるように想像しろ」
「簡単に言うな」
「簡単ではないと言っている」
「じゃあ、どうすればいい」
「まず目を閉じろ」
如月は少し警戒しながら、カロスを見た。
「その間に殴るなよ」
「殴った瞬間、俺の魂が締め上げられる」
「それもそうか」
如月はゆっくりと目を閉じた。
視界が暗くなる。
風の音が、少しだけ大きく聞こえた。
草が揺れる音。
遠くで何かが鳴るような、低い空気の震え。
そして、自分の呼吸。
「自分の身体を忘れろ」
カロスの声が聞こえる。
「手も、足も、目も、耳も、いったん捨てろ。お前が立っていると思うな。お前が呼吸していると思うな」
「無茶を言う」
「口を閉じろ」
如月は黙った。
「お前の中にあるものを探せ。人の魂ではなく、その奥に沈んでいるものだ」
その言葉で、如月の胸の奥が重くなった。
魔王の魂の欠片。
自分の中にあると言われたもの。
ずっと分からなかった。
分かりたくもなかった。
自分は人間だと思いたかった。
普通ではないと知っていても、それでも人間の側に立っているつもりだった。
だが、昨日の敗北がそれを許さなかった。
今のままでは、美月を守れない。
次に来る悪魔がカロスと同じなら。
いや、カロス以上なら。
自分はまた負ける。
「……」
如月は息を吐いた。
目を閉じた暗闇の中で、自分の奥へ意識を沈める。
最初に浮かんだのは、夜の街だった。
雨の公園。
悪魔の顔を握り潰した手。
次に、病院の白い部屋。
田村の冷たい手。
流れ込んできた痛み。
そして、体育祭の白線。
美月に握られた手の温度。
どれも、自分の記憶だった。
けれど、カロスが求めているのはたぶんそこではない。
もっと奥。
もっと深い場所。
如月はさらに意識を沈める。
暗闇が濃くなる。
音が遠ざかる。
風も、草も、カロスの気配も薄れていく。
その奥に、何かがあった。
赤黒いもの。
炎ではない。
血でもない。
影でもない。
ただ、深く沈んでいる熱。
触れてはいけないもののようで。
けれど、最初から自分の中にあったもののようでもあった。
――これか。
そう思った瞬間。
左腕の内側が、熱を帯びた。
天使の翼と剣の印。
その熱が、胸の奥にある赤黒い何かとぶつかる。
如月の眉がわずかに動いた。
「何か見えたか」
カロスの声が、遠くから聞こえる。
如月は目を閉じたまま答えた。
「……赤黒いものがある」
「それを掴め」
「掴めって言われても」
「手で掴むな。魂で触れろ」
「だから、その言い方が分からないんだよ」
「分からないままやれ」
「教える気あるのか」
「ある。だが、こればかりは説明だけではできない」
カロスの声が少し低くなった。
「お前自身が、自分の魂に触れなければならない」
如月は奥歯を噛んだ。
自分の魂。
魔王の欠片。
二つの魂を抱く者。
ヨウ。
どれも、自分の名前のようで、自分の名前ではなかった。
けれど。
今は逃げている場合ではない。
如月は暗闇の奥へ、意識を伸ばした。
手ではない。
足でもない。
言葉にできない何かで、その赤黒い熱へ触れようとする。
瞬間。
胸の奥で、何かが脈打った。
どくん、と。
強く。
世界が揺れる。
足元の草がざわめいた。
閉じたまぶたの向こうで、赤黒い光が一瞬だけ広がる。
カロスが息を呑む気配がした。
「……やはり、あるな」
その声には、先ほどまでの冷静さとは違うものが混じっていた。
警戒。
そして、わずかな驚き。
如月はゆっくりと目を開けた。
目の前の草原は変わっていない。
山も空も、そのままだ。
だが、自分の足元だけが変わっていた。
ほんのわずかな範囲。
足元を中心に広がる草が、黒く染まっていた。
焼けたわけではない。
枯れたわけでもない。
ただ、そこだけが命を刈り取られた後のように、色を失っている。
その黒い草地の中央には、深い裂け目が刻まれていた。
真っ直ぐな線ではない。
半月のように、ゆるやかな弧を描く傷。
鋭く、深く、異様なほど滑らかな斬痕だった。
まるで、見えない巨大な刃が一度だけ草原を薙いだような跡。
いや。
刃というより、鎌だった。
大きく振り抜かれた大鎌が、草も土も空気さえもまとめて刈り取った。
そんな形をしていた。
裂け目の縁には、赤黒い光が細く残っている。
血ではない。
炎でもない。
それは、斬られた世界の断面から滲み出すような光だった。
如月は、足元の傷を見下ろしたまま動けなかった。
自分が何かをした感覚はない。
武器を振った覚えもない。
手を動かした覚えすらない。
それなのに、草原には確かに斬痕があった。
命を刈るための形。
奪うための軌跡。
如月の中から漏れたものが、世界にそういう傷を残していた。
「……これが、俺の領域か」
「違う」
カロスは即答した。
「これは領域ではない。ただの漏れだ」
「漏れ?」
「魂の力が、外にこぼれただけだ」
カロスは足元の斬痕を見つめたまま言った。
その黄色い瞳が、わずかに細くなる。
「だが、最初としては十分すぎる」
如月は顔を上げる。
カロスの表情から、侮りが消えていた。
昨日、如月の首を掴んで笑っていた時のような余裕はない。
代わりにあるのは、警戒だった。
「……鎌、か」
カロスが小さく呟いた。
「何だ」
「いや」
カロスは短く息を吐く。
「まだ形にはなっていない。ただ、お前の魂はそういう方向に力を漏らした」
「方向?」
「切るでも、砕くでも、焼くでもない」
カロスは黒く染まった草を見た。
「刈る形だ」
如月の背筋に、冷たいものが走った。
刈る。
その言葉は、妙にしっくりきてしまった。
悪魔の頭を握り潰した時よりも。
田村の痛みを引き受けた時よりも。
この足元の傷は、自分の中にあるものを露骨に示している気がした。
「気持ち悪いな」
如月は低く言った。
「自分の力だろう」
「だからだよ」
カロスは答えなかった。
ただ、もう一度その斬痕を見下ろす。
半月を描く黒い傷。
赤黒い光を残す、見えない鎌の軌跡。
「もう一度だ」
カロスは言った。
「今度は、こぼすな。形にしろ」
「形?」
「そうだ」
カロスの黒い翼が、ゆっくりと広がる。
草原の風が、その羽を大きく揺らした。
「お前の魂が、どんな世界を望んでいるのか。それを見つけろ」
如月は足元の黒い草を見た。
半月の斬痕。
自分の中から漏れ出したもの。
それは、美しいとは程遠かった。
穏やかでもない。
優しくもない。
ただ、不吉で。
重くて。
どうしようもなく自分のものだった。
如月は小さく息を吐いた。
「……魂で想像しろ、か」
「そうだ」
カロスは短く答える。
「身体ではなく、頭でもなく、魂そのものから描け」
如月はもう一度目を閉じた。
怖くないと言えば、嘘になる。
自分の中にあるものを知るのは、悪魔を殴るよりずっと気持ちが悪い。
それでも、やるしかない。
美月を守るために。
自分が燃え尽きないために。
そして、誰かが決めた法則を壊すために。
如月は暗闇の奥へ意識を沈めた。
そこにある赤黒い熱が、再び静かに脈打つ。
どくん。
どくん。
まるで、眠っていた何かが。
ようやく、自分の名前を思い出そうとしているかのように。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、如月の領域修行の入口になる回でした。
戦い方を覚える前に、まずは自分の魂に触れること。
カロスは敵でしたが、だからこそ如月に足りないものを容赦なく突きつけてくれる存在になると思います。
次回もよろしくお願いします。




