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一魂一体  作者: Kioh
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第17話 死ぬか、教えるか

一魂一体――いっこんいったい。

ひとつの魂に、ひとつの身体。

 魔王陛下。


 カロス・グラウスが口にしたその名で、草原の空気が凍った。


 風が止まる。

 草を撫でていた波が消え、遠くの山脈も、空を流れていた雲も、その一瞬だけ動くことを忘れたように見えた。


 ヴェル・ノクスの表情から、完全に笑みが消えていた。


「……父上が、そう命じたのか」


 低い声だった。


 怒りよりも、疑念の方が深い声。


 黒い柱に縛りつけられたカロスは、黒い鎖に締め上げられたまま、わずかに顔を上げた。


「そうだ。魔王陛下より、命令は下っている」


「なぜだ」


「それは、俺に聞くことではない」


 カロスの黄色い瞳が、ヴェルを見据える。


 恐怖はある。

 屈辱もある。

 だが、その声には嘘の匂いがなかった。


「理由を知りたいのなら、魔王陛下に直接お聞きください。俺は、命令に従っただけだ」


 ヴェルは答えなかった。


 ただ、カロスを見下ろしている。


 如月は、その横顔を見た。


 いつもの軽い笑みも、兄を名乗るふざけた調子も、そこにはない。


 目の前にいるのは、地獄の王子だった。


「……俺を殺そうとしている悪魔は、他にもいるのか」


 如月が低く尋ねる。


 カロスは、少しだけ視線を動かした。


「少なくとも、各隊の副隊長以上には通達が出ている」


「各隊……?」


「魔王軍は黒翼隊だけではない。俺以外にも、命令を受けた者はいる」


 如月の胸の奥が、冷たく沈む。


 昨日の鴉。

 赤い砂の領域。

 首を掴まれ、殺されかけた感覚。


 あれと同じような悪魔が、他にもいる。


 しかも、その狙いは自分だけではない。


 美月を殺せば、如月も燃える。

 カロスは、それを知った上で彼女を狙った。


「命令の内容は」


 ヴェルが聞く。


 カロスは一度だけ息を吐いた。


「ヨウを殺せ。方法は問わない。ヨウを殺した者には、魔王陛下より褒賞が与えられる」


「褒賞、ね」


 ヴェルの口元が、わずかに歪んだ。


 笑ったわけではない。

 吐き捨てるような表情だった。


「安い手を使う」


「安いかどうかは、俺が決めることではない」


「だろうな。お前は命令を受ける側だ」


 ヴェルはそう言って、静かに目を細めた。


「だから今、生きている」


 黒い鎖が、ぎしりと鳴った。


 カロスの表情がわずかに強張る。


 ヴェルは一歩、近づいた。


 その足音だけで、草原の空気が重くなる。


「カロス・グラウス」


「……何だ」


「お前に、一つだけ生き残る道をやる」


 カロスの目が、わずかに見開かれた。


 如月も思わずヴェルを見る。


「おい」


「黙って聞け、ヨウ」


「こいつは美月を殺そうとした」


「だから使える」


 ヴェルは即答した。


 その声には、迷いがなかった。


「お前を殺すために、堕ちた天使を狙った。お前を領域へ引きずり込み、力を削り、首を掴み、殺す寸前まで追い詰めた」


 如月の拳が強く握られる。


 腹の奥に、昨日の痛みが蘇るようだった。


「気に入らない相手だろう。憎い相手だろう。だが、だからこそ、こいつはお前に必要なことを知っている」


 ヴェルはカロスを見下ろした。


「副隊長なら、兵を鍛えた経験くらいあるはずだ」


 カロスの顔が強張る。


「……まさか」


「そのまさかだ」


 ヴェルの赤い瞳が、細く光った。


「ヨウに戦い方を教えろ」


 草原に沈黙が落ちた。


 カロスは、信じられないものを見るようにヴェルを見上げている。


 如月も同じだった。


「何を言ってる」


「聞こえなかったか?」


「聞こえたから言ってる」


 如月はヴェルを睨んだ。


「こいつに、俺を教えさせるのか」


「ああ」


「俺を殺そうとした悪魔に」


「そうだ」


「ふざけるな」


「ふざけていない」


 ヴェルの声が、そこで少しだけ低くなった。


「昨日、お前は負けた」


 如月は黙った。


 言い返せなかった。


「力で負けた。速さで負けた。領域の使い方で負けた。なら、その全部を知っている相手から奪えばいい」


「……」


「敵に負けたなら、敵から学べ。悔しさを燃やすだけなら誰でもできる。使え、ヨウ」


 如月は答えなかった。


 ただ、拳だけがさらに強く握られていた。


 ヴェルは満足そうに口元を緩めると、再びカロスへ視線を戻した。


「一週間だ」


「一週間……?」


 カロスの声がかすれた。


「一週間で、こいつを最低限使い物にしろ」


「無茶を言う」


「では今ここで死ぬか?」


 即答だった。


 カロスは口を閉ざした。


 ヴェルは静かに続ける。


「教える内容は、領域での戦い方だ。相手の支配を読む方法。魂の輪郭を保つ方法。領域に引きずり込まれた時、どう動き、どう逃げ道を作り、どう反撃するか」


 そこでヴェルは、如月へ一度だけ視線を向けた。


「勘違いするなよ、ヨウ」


「何を」


「お前は、こいつの領域で立てなかったわけじゃない。走れた。殴りかかれた。掴むこともできた」


 如月は目を細める。


 確かに、赤い砂の領域で身体が動かなかったわけではない。


 動けた。

 戦おうとした。

 それでも届かなかった。


 だから、負けた。


「天の領域で動けなかった話とは別だ」


 ヴェルは、何でもないことのように言った。


 如月の胸の奥が、ぴくりと揺れる。


 あの暗闇。

 声も出せず、指一本動かせなかった場所。


 そして、あの美しい声。


 ――再び会いましょう。


 ――お前が、我が領域で己の意思のまま動けるようになった時に。


「お前、そこまで知ってるのか」


「兄だからな」


「関係ない」


「冷たいな」


 ヴェルはいつものように肩をすくめたが、すぐに表情を戻した。


「あれは別物だ。天の領域と悪魔の領域を同じものとして考えるな。今こいつに教えさせるのは、悪魔の領域でどう戦うかだ」


 ヴェルはカロスへ向き直る。


「できなければ、お前の魂の芯を潰す」


 カロスの喉が、小さく鳴った。


 それは返事ではなかった。


 恐怖を飲み込む音だった。


「選べ、カロス・グラウス」


 ヴェルは静かに言う。


「今ここで死ぬか。七日だけ足掻くか」


 長い沈黙。


 草原の風が、またゆっくりと流れ始める。


 カロスの黒い翼が、鎖の中でわずかに震えた。


 やがて、彼は深く息を吐いた。


「……承知した」


 その声には、力がなかった。


 だが、生への執着だけは残っていた。


「一週間、ヨウを鍛える」


「いい返事だ」


 ヴェルが指を鳴らした。


 その瞬間、黒い鎖がほどける。


 腕を縛っていた鎖が消え、翼を押さえていた鎖も砂のように崩れた。


 だが、完全に自由になったわけではなかった。


 カロスの両手首には、黒い腕輪が残っている。


 金属ではない。


 影を固めたような、黒く薄い輪。


 そこから伸びる細い紋様が、手の甲から指先へと這うように広がっていた。


 カロスがわずかに指を動かす。


 その瞬間、腕輪が赤黒く脈打った。


「……ッ」


 カロスの顔が苦痛に歪む。


 ヴェルは楽しそうに目を細めた。


「逃げようとするなよ。俺の許可なく領域を破ろうとしても同じだ。ヨウに致命傷を与えようとしても、その腕輪がお前の魂の芯を締め上げる」


「……拘束具か」


 如月が低く言う。


「保険だ」


 ヴェルは軽く肩をすくめた。


「危ない刃物を預けるなら、鞘と柄くらいはこちらで握っておくべきだろう?」


 その言い方に、カロスの表情がわずかに歪んだ。


 犬でも、奴隷でもない。


 だが、信用されているわけでもない。


 カロス・グラウスという刃を、ヴェルは鞘に収めたまま如月の前へ置いた。


 必要なら抜く。


 危険なら折る。


 ただ、それだけだった。


 カロスは膝をついたまま、深く頭を下げた。


「……ヴェル・ノクス殿下」


「ああ」


「命を拾っていただいたこと、感謝いたします」


「感謝は早いな」


 ヴェルの声は軽かった。


 けれど、目は笑っていない。


「一週間後に同じことを言えるようにしろ」


「……はい」


「それと」


 ヴェルの赤い瞳が、細くなる。


「俺を失望させるな」


 その一言で、カロスの背筋が目に見えて強張った。


 恐怖。

 安堵。

 屈辱。

 そして、生き延びたという実感。


 そのすべてが、カロスの顔に混じっていた。


 ヴェルは満足したように息を吐くと、如月の肩に手を置いた。


「じゃあな、ヨウ」


「待て」


「一週間後、見に来る」


「おい。説明が足りない」


「大丈夫だ」


 ヴェルは楽しそうに笑った。


「死にそうになったら、たぶん助ける」


「たぶんって言ったか、今」


「兄を信じろ」


「兄じゃない」


「まだ反抗期か」


 如月が言い返すより早く、ヴェルの身体が黒紅の煙になってほどけていく。


 その姿が、草原の風に溶けるように消えた。


 残されたのは、如月とカロス・グラウスだけだった。


 広すぎる草原。

 遠すぎる山脈。

 そして、昨日自分を殺しかけた悪魔。


 カロスはゆっくりと立ち上がった。


 両手首の黒い腕輪を一度見下ろし、それから如月を見る。


 黄色い瞳が、頭から足先までを測るように動いた。


「……始めるぞ、ヨウ」

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、カロスを殺すのではなく、如月の“敵だった教師”として使う回になりました。


如月は強いけれど、まだ知らないことが多すぎる。

ただ力で壊すだけでは届かない相手が出てきたからこそ、ここから少しずつ戦い方そのものを覚えていきます。


次話もよろしくお願いします。

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