第16話 黒翼隊副隊長
一魂一体――いっこんいったい。
ひとつの魂に、ひとつの身体。
ゆっくりと、意識が浮かび上がってくる。
最初に戻ってきたのは、痛みだった。
腹の奥が重い。
喉が焼けるように痛い。
身体の芯に、冷たい鉛を流し込まれたような感覚が残っている。
如月は、浅く息を吸った。
「っ……」
その瞬間、肺の奥がきしんだ。
反射的に身体を起こす。
荒い呼吸が漏れた。
視界が揺れる。
赤い砂。
血のような雲。
首を掴む悪魔の手。
振り下ろされようとしていた爪。
そこまで思い出した瞬間、如月は強く息を呑んだ。
「……ここは」
見慣れた天井があった。
白い壁。
机。
椅子。
カーテンの隙間から差し込む、夜の薄い光。
自分の部屋だった。
如月はベッドの上にいた。
制服は着替えさせられていない。
だが、靴は脱がされている。
鞄は床に置かれ、机の上には黒いネックレスが転がっていた。
その横。
机の椅子に、ヴェル・ノクスが腰を下ろしていた。
長い足を組み、肘を机に置き、如月の様子を静かに見ている。
昨夜のような軽薄な笑みはなかった。
赤い瞳だけが、暗い部屋の中で静かに光っていた。
「起きたか」
ヴェルは低く言った。
「もう少し寝ていろ。身体は戻したが、魂の方がまだ少し荒れている」
如月は、荒い息を整えながらヴェルを見る。
「……何が、起きた」
声が掠れていた。
「俺は……死んだと思った」
そう言った瞬間、ヴェルの目がわずかに細くなった。
椅子が小さく鳴る。
ヴェルはゆっくりと立ち上がり、ベッドのそばまで歩いてきた。
そして、如月の前で足を止める。
如月が何か言うより早く。
こつん、と。
ヴェルの指が、如月の額を軽く弾いた。
「痛っ……」
「馬鹿か、お前は」
ヴェルの声は静かだった。
けれど、そこには確かな怒りがあった。
「あんな羽虫に、お前を殺させるわけがないだろう」
如月は言葉を失った。
ヴェルはそのまま、如月を見下ろす。
「お前はまだ、自分がどれくらい無茶をしたのか分かっていない。あの領域に引きずり込まれた時点で、普通なら終わりだ」
「……美月は」
如月が低く尋ねると、ヴェルの表情が少しだけ和らいだ。
「無事だ。あの車も、運転手も、堕ちた天使も傷ついていない」
「そうか」
如月は短く息を吐いた。
それだけで、身体から力が抜けそうになる。
生きている。
美月も無事だった。
その事実だけで、今は十分だった。
だが。
安心した直後、胸の奥に別の感情が沈んできた。
悔しさ。
情けなさ。
どうしようもないほどの無力感。
如月は、自分の手を見下ろした。
悪魔の顔を握り潰してきた手。
人間ではない力を宿した手。
田村の痛みを引き受けた手。
その手が、昨日は何もできなかった。
届かなかった。
掴まれて。
殴られて。
地面に転がされて。
殺されかけた。
初めてだった。
悪魔を前にして、自分が小さいと感じたのは。
如月は奥歯を噛んだ。
「……俺は」
「今は何も言うな」
ヴェルが遮った。
「その悔しさは捨てるな。だが、今の身体で考え込んでもろくなことにならない」
ヴェルはベッドの横に置いてあった布団を、乱暴に如月の腹の上へかけ直した。
「寝ろ」
「……子ども扱いするな」
「昨日、半殺しにされた弟を寝かせるのは兄の仕事だ」
「兄じゃない」
「そこは元気だな。安心した」
ヴェルは少しだけ笑った。
如月は言い返そうとしたが、身体がついてこなかった。
まぶたが重い。
意識が、また沈みそうになる。
悔しさは残っている。
腹の奥に、熱のように残っている。
それでも。
自分がまだ生きていることに、如月はほんの少しだけ安堵していた。
その安堵にすがるように、如月はもう一度ベッドへ横になった。
天井が滲む。
ヴェルの声が、遠くで聞こえた。
「休め、ヨウ」
今度は、反論する力もなかった。
如月の意識は、静かに落ちていった。
◇ ◇ ◇
次に目を覚ました時、窓の外は薄く明るくなっていた。
朝なのか、夕方なのか。
一瞬分からなかった。
時計を見ると、昼を少し過ぎている。
如月はゆっくりと身体を起こした。
痛みはまだ残っている。
だが、昨日よりはましだった。
机の上にあったネックレスが、淡く紅く光る。
次の瞬間、黒紅の煙がゆっくりと形を作り、ヴェルが部屋の中に現れた。
当然のように。
まるで自分の部屋であるかのように。
「起きたか」
「……勝手に出てくるな」
「弟の部屋だ。兄がいて何が悪い」
「全部」
「厳しいな」
ヴェルは肩をすくめる。
如月はベッドから足を下ろし、床を見つめた。
しばらく黙ったあと、低く尋ねる。
「それで」
「ん?」
「話すんだろ。昨日のこと」
ヴェルの表情から、軽さが消えた。
「ああ」
彼は椅子を引き寄せ、如月の正面に腰を下ろした。
「単刀直入に言う」
その言葉に、如月は少しだけ嫌な予感を覚えた。
ヴェルが真面目な顔をしている時ほど、ろくな話にならない。
「お前は強い」
ヴェルは言った。
「少なくとも、現世に入り込んで人間の身体を奪っているだけの雑魚悪魔と比べれば、圧倒的に強い」
「……」
「だが、昨日の相手のような悪魔と戦うには足りない」
如月は何も言わなかった。
分かっていた。
昨日の戦いで、嫌というほど分からされた。
ヴェルは続ける。
「あいつは、ただの悪魔じゃない。地獄で戦い方を覚えた悪魔だ。命令を受け、作戦を立て、獲物を選び、自分に有利な領域へ引きずり込むことができる」
「……だから、あんなに違ったのか」
「ああ」
如月は床を見つめたまま、低く言った。
「今までの悪魔とは、匂いも動きも違った。欲望じゃない。殺したいだけでもない。もっと……」
「研がれていただろう」
ヴェルが言葉を継いだ。
「刃物みたいに」
如月は小さくうなずいた。
ヴェルは背もたれに身体を預ける。
「悪魔にも種類がある。現世で人間の罪に群がるだけのもの。魂を奪って暴れるだけのもの。地獄で兵として鍛えられたもの。そして、その中でもさらに、自分の魂を別の形へ適応させたものがいる」
「適応?」
「そうだ」
ヴェルは指を一本立てた。
「悪魔は本来、肉体を持たない魂に近い存在だ。だからこそ、器を必要とする。だが、力を持つ悪魔は自分の魂の形を変えられる。獣に近づける。鳥に近づける。蛇に、狼に、虫に、影に」
如月は顔を上げた。
「昨日の鴉も、それか」
「ああ。あいつは鴉に適応していた」
ヴェルの瞳が、わずかに細くなる。
「小さな身体で殺気を隠し、空から急所だけを狙う。人間の目にはただの鳥に見える。お前の印が反応しなければ、堕ちた天使は死んでいた」
如月の拳が、無意識に強く握られた。
美月の額へ向かって落ちていった、あの嘴を思い出す。
あと少し遅れていたら。
あと一瞬、手が届かなかったら。
その考えだけで、胸の奥が冷える。
「……お前は?」
如月はふと尋ねた。
「何に適応してる」
ヴェルは瞬きをした。
そして、如月を見た。
赤い目が、細くなる。
「……今、何と言った?」
「お前も悪魔だろ。あいつより強いなら、何かに適応してるのかと思っただけだ」
沈黙。
ヴェルはしばらく如月を見つめていた。
まるで、信じられないものを見たような顔だった。
そして。
「はあ……」
深く、深くため息をついた。
「お前な」
「何だよ」
「兄を何だと思っている」
「兄じゃない」
「そこじゃない」
ヴェルは片手で顔を覆った。
「いいか、ヨウ。あんな連中と俺を同じ箱に入れるな」
声は少し呆れていた。
だが、その奥にあるものは揺るがなかった。
「俺は何かに適応する必要がない」
「……」
「獣の形を借りる必要もない。鳥の速さを真似る必要もない。蛇の毒も、狼の牙も、虫の群れも必要ない」
ヴェルは胸元を指で叩いた。
「俺は、魔王の息子だ」
静かな声だった。
けれど、その一言で空気が重くなる。
「型に合わせる側じゃない。型を踏み潰す側だ」
如月は黙った。
ヴェルは、少しだけ口元を緩める。
「そして、お前も同じだ」
「俺が?」
「ああ」
ヴェルはまっすぐ如月を見た。
「お前は弱くない。ただ、力の使い方を知らないだけだ」
その言葉は、昨日の敗北よりも深く刺さった。
弱くない。
ただ、知らないだけ。
なら。
知ればいい。
如月は、静かに息を吸った。
「……教えられるのか」
ヴェルの口元が、ゆっくりと上がる。
「何をだ?」
「俺の力の使い方だ」
如月はヴェルを見返した。
「俺が、あいつらと戦えるようになる方法を教えられるのか」
ヴェルは、一瞬黙った。
そして。
楽しそうに笑った。
「ようやく言ったな」
「……何がそんなに面白い」
「いや、嬉しくてな」
ヴェルは立ち上がった。
「昨日のままのお前では、美月も、お前自身も救えない。もちろん、俺の面倒な事情も片づかない」
「結局それか」
「大事なことだ。俺は王になりたくない」
「知らないよ」
「冷たい弟だな」
そう言いながらも、ヴェルの目は真剣だった。
「教えてやる。お前が何者なのか。お前の中にある魔王の欠片にどう触れるのか。領域でどう動くのか。魂の境界をどう掴むのか」
如月は息を呑んだ。
知らなければならないことが、多すぎる。
だが、もう逃げる理由はなかった。
昨日、自分は負けた。
美月を守るために走り、悪魔を掴み、そして殺されかけた。
次も同じなら、守れない。
それだけは、認めるしかなかった。
「頼む」
如月は短く言った。
その声に、余計な感情はなかった。
ただ、必要だった。
ヴェルは満足そうにうなずく。
「いい返事だ」
そして、ふと思い出したように指を鳴らした。
「だが、その前に一つやることがある」
「何だ」
「昨日のあいつに話を聞く」
如月は眉をひそめた。
「昨日のあいつ?」
「鴉の羽虫だ」
「……死んだんじゃないのか」
ヴェルは笑った。
「俺が握り潰したのは、あいつの領域と逃げ道だ。魂の芯までは潰していない」
「なぜ」
「情報を吐かせるために決まっているだろう」
ヴェルは如月の肩に手を置いた。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
「――」
床が消える。
壁が消える。
天井が遠ざかる。
重力の向きが、ぐにゃりと曲がる。
如月は反射的に身構えた。
だが、次の瞬間にはもう、そこは自室ではなかった。
足元に広がっていたのは、草原だった。
見渡す限りの緑。
風が草を撫で、波のように揺らしている。
空は高く、薄い雲がゆっくりと流れていた。
遠くには、巨大な山々が連なっている。
四方を囲むようにそびえ立つ山脈。
その頂には雪が残り、陽の光を受けて白く輝いていた。
如月はしばらく黙って、その景色を見ていた。
「……意外だな」
「何がだ」
「もっと地獄みたいな場所かと思った」
ヴェルは少しだけ得意げに笑った。
「弟を休ませる場所まで地獄みたいにしてどうする」
「俺を休ませるための場所なのか」
「半分はな」
「残り半分は?」
ヴェルは前方を見た。
如月も、その視線を追う。
草原の中央に、一本の黒い柱が立っていた。
その柱に、一体の悪魔が縛りつけられている。
黒い鎖が腕を締め、翼を押さえ、首から胸元までを絡め取っていた。
膝を地面につき、頭を垂れている。
暗い赤の肌。
黄色く光る瞳。
鴉を思わせる黒い翼。
短剣のような爪。
昨日、美月を殺そうとした悪魔だった。
如月の胸の奥が冷たくなる。
自然と拳に力が入った。
悪魔はゆっくりと顔を上げる。
その目に、昨日のような余裕はない。
恐怖と怒り。
そして、隠しきれない屈辱が混じっていた。
ヴェルは悪魔の前に立つ。
草原を渡る風が、漆黒の外套を静かに揺らした。
その背中は、昨日見た巨大な姿とは違う。
人とほとんど変わらない大きさだ。
それでも。
悪魔は、ヴェルを前にして震えていた。
「名前を言え」
ヴェルの声は低かった。
悪魔は答えない。
ヴェルは少しだけ首を傾ける。
「聞こえなかったか?」
黒い鎖が、ぎしりと鳴った。
「ぐ……っ」
悪魔の身体が強く締め上げられる。
翼の骨がきしみ、爪が地面を引っかいた。
如月は黙ってそれを見ていた。
昨日、自分の首を掴んだ手。
美月の命を狙った嘴。
そのすべてを思い出しても、同情は湧かなかった。
ヴェルはもう一度言った。
「名前を言え」
長い沈黙のあと。
悪魔は、かすれた声で答えた。
「……カロス」
ヴェルの目が細くなる。
「続けろ」
悪魔は歯を食いしばった。
だが、鎖がさらに鳴った瞬間、観念したように顔を上げる。
「カロス・グラウス」
黄色い瞳が、如月とヴェルを順に見た。
「魔王軍黒翼隊――副隊長」
風が止まった。
如月は、その言葉を理解するまでに少し時間がかかった。
魔王軍。
黒翼隊。
副隊長。
ただの刺客ではない。
ただ美月を狙った悪魔ではない。
地獄の軍に属する者。
しかも、ヴェルの父である魔王の軍の者。
如月はゆっくりとヴェルを見る。
ヴェルの表情から、笑みが消えていた。
「……魔王軍だと?」
如月が低く呟く。
ヴェルは答えなかった。
ただ、カロス・グラウスを見下ろしている。
その瞳は、さっきまでよりもずっと冷たかった。
「なるほど」
ヴェルは静かに言った。
「面倒なことになったな」
カロスの口元が、わずかに歪む。
恐怖に震えながらも、どこか勝ち誇ったように。
「命令は……すでに下っている」
如月の背筋に、冷たいものが走った。
ヴェルの声が、さらに低くなる。
「誰の命令だ」
カロスは、ゆっくりと顔を上げた。
そして、血の混じった笑みを浮かべる。
「魔王陛下」
その一言で。
草原の空気が、凍った。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
少し間が空いてしまい、申し訳ありません。
また少しずつ続きを書いていきますので、読んでいただけると嬉しいです。
今回は、如月が初めて自分の“弱さ”を認める回でした。
今までの悪魔とは違う、地獄で鍛えられた悪魔。
そして、ヴェルがただの兄を名乗る悪魔ではなく、魔王の息子としてどれほど異質な存在なのかも少し見えてきました。
次回は、カロス・グラウスが持つ情報と、魔王軍の狙いに迫っていく予定です。
少しでも続きが気になっていただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。
次話もよろしくお願いします。




