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一魂一体  作者: Kioh
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15/18

第15話 赤い砂の領域

一魂一体――いっこんいったい。

ひとつの魂に、ひとつの身体。

 翌朝。


 如月は机の上に置かれたネックレスを、しばらく無言で見下ろしていた。


 黒い紐に吊るされた、菱形の結晶。

 昨夜、ヴェル・ノクスと名乗る悪魔が入り込んだものだ。


 今は何も光っていない。

 声もしない。

 まるで、ただの古びた飾りのように静かだった。


 けれど、如月はそれを家に置いていく気にはなれなかった。


 祖母と二人で暮らす家に、悪魔を残す。

 それも、兄を名乗る得体の知れない悪魔を。


 考えただけで、気分が悪くなる。


「……連れていくしかないか」


 如月は小さく呟き、ネックレスを制服のポケットへ押し込んだ。


『おや、弟に連れていってもらえるとは光栄だな』


 そんな軽口が返ってくると思っていた。


 だが、返事はなかった。


 ポケットの中のネックレスは、ただ静かに冷たさだけを残している。


「……本当に寝てるのか」


 如月は眉をひそめたが、それ以上考えるのはやめた。


 そしていつも通り家を出て、いつも通り学校へ向かった。


 授業は、驚くほど何事もなく過ぎていった。


 教師の声。

 黒板を走るチョークの音。

 後ろの席で小さく欠伸を噛み殺す蓮夜の気配。


 いつもの日常が、そこにはあった。


 昨夜、地獄の王子を名乗る悪魔と会ったこと。

 自分が堕ちた天使を殺さなければならないと言われたこと。

 ネックレスの中に、その悪魔が潜んでいること。


 そのすべてが、まるで悪い夢だったかのように思えてくる。


 だが、ポケットの中にある冷たい重みが、それを許さなかった。


 昼休みも、放課後も、ヴェルは一度も話しかけてこなかった。


 如月は何度かポケットの上からネックレスに触れたが、反応はない。


 拍子抜けするほど静かだった。


 そして、放課後。


 生徒たちが鞄を持ち、教室から少しずつ出ていく。


「如月くん」


 前の席から、美月が振り返った。


 いつものように柔らかく笑っている。


「また明日ね」


 美月は小さく手を振った。


「……ああ。また明日」


 如月は短く返した。


 美月は嬉しそうにもう一度微笑み、教室を出ていく。

 窓の外を見ると、校門の前にはすでに黒い車が停まっていた。


 四宮家の車だ。


 運転手が後部座席のドアを開け、美月が乗り込む。

 車は静かに走り出し、すぐに校門の向こうへ消えていった。


 如月はそれを見送ったあと、ゆっくりと息を吐いた。


「……思ったより静かだな」


 ポケットの中のネックレスに触れる。


「今日は一度も話しかけてこない。もっと面倒なやつだと思ってたんだけど」


 当然、返事はない。


 如月は少しだけ眉を寄せた。


 静かすぎる。

 それが逆に気になる。


 だが、放っておくしかなかった。


 如月は鞄を持ち、学校を出た。


 夕方の空は薄く赤く染まり始めていた。

 部活へ向かう生徒たちの声が校庭から聞こえる。

 帰宅する生徒たちは、駅やバス停へ向かって流れていく。


 その中を、如月は一人で歩いていた。


 校門を出て、しばらくした時だった。


「――ッ」


 左前腕の内側が、焼けるように熱くなった。


 腕に刻まれた印。

 天使の翼と剣の印が、制服の下で脈打つように熱を放っている。


 如月は足を止めた。


 胸の奥がざわつく。


 これは、ただの痛みじゃない。

 警告だ。


 美月に、何かが起きている。


 次の瞬間、鼻の奥を鋭い匂いが刺した。


 殺気。


 それも、普通の悪魔のものではない。

 研ぎ澄まされた刃のように細く、冷たく、一直線に向けられた殺意。


 如月は顔を上げた。


 遠い。

 本来なら、届くはずのない距離だ。


 如月の嗅覚にも限界はある。

 いくら悪魔の匂いを追えるとはいえ、何キロも離れた場所の殺気まで嗅ぎ取れるわけではない。


 だが今は違った。


 腕の印が熱を放つたびに、その匂いの方向がはっきりと分かる。


 美月がいる方角。

 さっき車が走っていった方角。


「美月……!」


 如月の姿が、その場から消えた。


 少なくとも、普通の人間の目にはそう見えたはずだ。


 地面を蹴った瞬間、足元の砂が弾ける。

 如月は人の流れを避け、塀を越え、屋根を蹴り、夕暮れの街を一直線に駆け抜けた。


 視界が流れる。

 風が耳元で裂ける。

 肺が熱くなる。


 だが、止まるわけにはいかなかった。


 匂いが近づいている。


 殺気が濃くなる。

 鋭くなる。

 そして、その先に美月の気配があった。


 如月はビルの屋上から飛び降りた。


 地上では、黒い車が道路脇に停まっていた。

 運転手が何かに気づいたように外へ出ようとしている。

 美月は後部座席の窓越しに、空を見上げていた。


 その上空。


 一羽の鴉がいた。


 ただの鴉ではない。

 翼は黒く、嘴は異様なほど鋭い。

 その小さな身体から、ありえないほど濃い殺気が放たれている。


 鴉は空中で身体を捻り、次の瞬間、矢のように落ちてきた。


 狙いは美月の頭部。


 嘴が、一直線に彼女の額を貫こうとしていた。


「させるか!」


 如月は全身の力を振り絞り、地面を蹴った。


 身体が空へ跳ね上がる。

 指先が、鴉の翼を掠める。

 届かない。


 だが、如月はさらに腕を伸ばした。


 骨が軋む。

 肩が外れそうになる。

 それでも、手を伸ばす。


 そして。


 如月の手が、鴉の身体を掴んだ。


 その瞬間、世界が歪んだ。


「――なっ」


 空気が薄く裂ける。

 景色が裏返る。

 地面も、空も、車も、美月の顔も、一瞬で遠ざかっていく。


 如月と鴉の身体が、透明な何かに吸い込まれるように消えた。


 次に如月が目を開けた時、そこはもう地上ではなかった。


 足元に広がっていたのは、果てしない赤い砂漠。


 乾いた風が吹くたびに、赤い砂が煙のように舞い上がる。

 空には、血を混ぜたような雲が一面に広がっていた。


 太陽はない。

 月もない。

 ただ、世界そのものが赤く濁っている。


 如月はゆっくりと立ち上がった。


「……ここは」


 地上ではない。


 それだけは分かった。


 空気が違う。

 匂いが違う。

 重力の感触さえ、どこか歪んでいる。


 目の前、数メートル先。


 一体の悪魔が立っていた。


 さっきまで鴉だったものだ。


 今は、人に近い形をしている。

 大きさは人間と変わらない。

 だが、肌は暗い赤に染まり、目は黄色く光っていた。


 身体には黒い戦装束のような鎧を纏っている。

 背中には、鴉を思わせる黒い翼。

 腕から伸びる爪は、短剣のように鋭かった。


 ヴェルほど巨大ではない。

 ヴェルほど圧倒的な存在感もない。


 だが、普通の悪魔とは明らかに違った。


 目の前の悪魔は、笑っていなかった。

 ただ、如月を睨みつけていた。


「ヨウ……!」


 悪魔の声には、苛立ちが滲んでいた。


「完璧な作戦だったはずなのに。なぜ間に合う」


 如月は拳を握った。


「お前は誰だ」


 声が低くなる。


「なぜ美月を狙った」


 悪魔は鼻で笑った。


「命令に従っただけだ」


「命令?」


「そうだ。俺に与えられた命令は、お前を殺すこと」


 悪魔の口元が歪む。


「だが、正面からお前を狙う必要はない。あの薄汚い堕ちた天使を殺せば、お前も燃える。そう聞いていたからな」


 如月の目が冷たく細められた。


「……美月を、殺そうとしたのか」


「ああ。楽な仕事になるはずだった」


 悪魔は肩をすくめた。


「だが、お前が余計な邪魔をした。なら、予定を変えるしかない」


 赤い砂が、風に巻き上がる。


「ここは俺の領域だ。地上でも、地獄でもない。俺が作り上げた狩場」


 悪魔は片手を広げた。


「ここに引きずり込んだ時点で、お前に勝ち目はない。速度も、力も、視界も、空気さえも、すべて俺の味方だ」


 如月は答えなかった。


 ただ、地面を蹴った。


 一瞬だった。


 赤い砂が爆ぜる。

 如月の身体が悪魔の目の前まで迫る。


 拳を振り抜く。


 これまでなら、それで終わっていた。


 悪魔の頭を潰し、身体を砕き、魂ごと引き裂く。

 如月にとって、悪魔との戦いとはそういうものだった。


 だが。


 拳は空を切った。


「――」


 如月の目がわずかに見開かれる。


 悪魔は、首を傾けるだけでその拳を避けていた。


 初めてだった。


 如月の攻撃を、悪魔が真正面から避けたのは。


「遅い」


 悪魔が笑った。


 次の瞬間、如月の腹に拳がめり込んだ。


「が……っ」


 呼吸が止まる。


 身体の内側で、何かが潰れるような音がした。


 如月の身体は地面から浮き上がり、十メートル以上吹き飛ばされた。


 赤い砂を削りながら転がる。

 背中を打ち、肩を打ち、ようやく止まる。


 息ができない。


 腹の奥が焼ける。

 身体が思うように動かない。


 如月は歯を食いしばり、片手を地面についた。


 立て。

 立たなければならない。


 そう思った瞬間。


 悪魔は、すでに隣にいた。


「思ったより弱いな」


 悪魔の手が、如月の首を掴んだ。


 そのまま、軽々と持ち上げられる。


「っ……!」


 如月は腕を動かそうとした。

 だが、力が入らない。


 さっきの一撃が、まだ身体の芯に残っている。

 骨ではなく、魂を直接殴られたような感覚だった。


 悪魔は如月の顔を覗き込み、楽しそうに笑った。


「正直、警戒しすぎた。ヨウと聞いていたから、どれほどの化け物かと思えば」


 首を締める力が強くなる。


「ただの出来損ないじゃないか」


 如月の視界が揺れる。


 初めてだった。


 悪魔を前にして、自分の身体が動かない。

 相手の力が、自分を上回っている。

 その事実が、冷たい刃のように胸に刺さった。


「地獄で会おう、ヨウ」


 悪魔は片手を引いた。


 鋭い爪が、如月の顔へ向けられる。

 次に振り下ろされれば、終わる。


 その時だった。


 世界が、揺れた。


 最初は、小さな振動だった。


 だがすぐに、それは地鳴りへと変わった。


 赤い砂漠全体が震えている。


「……何だ?」


 悪魔の表情が変わった。


 足元の赤い砂が、少しずつ低くなっていく。


 風に吹き飛ばされているのではない。


 まるで、この領域そのものが何かに吸い取られているように、砂の高さが少しずつ下がっていく。


「何が起きている……?」


 悪魔の声に、初めて焦りが混じった。


 赤い砂は、さらに減っていく。


 足首まであった砂が消え、やがて硬い地面が現れた。


 赤黒い地面。


 無数の亀裂が走った、乾いた平原。


 如月と悪魔は、いつの間にか赤い砂漠ではなく、ひび割れた赤い大地の上に立っていた。


 空を覆っていた血のような雲が、揺れる。


 次の瞬間。


 その雲が、一瞬で消えた。


 吹き飛ばされたのではない。


 燃え尽きたのでもない。


 最初から存在しなかったもののように、赤い空から跡形もなく消え去った。


 残ったのは、何もない空間だった。


 空もない。


 地平線もない。


 赤い雲もない。


 ただ、果てしない虚無だけが上に広がっていた。


「馬鹿な……」


 悪魔の顔から笑みが消えた。


「俺の領域が……」


 その声が、震えていた。


 ここは、地上ではない。


 地獄でもない。


 目の前の悪魔が作り上げた、魂の奥にある狩場。


 悪魔自身の内側にある領域だった。


 だからこそ、ここでは奴が絶対のはずだった。


 空も、砂も、風も、重力も。


 すべてが奴の意思に従うはずだった。


 だが今、その領域が塗り替えられている。


 赤い砂は消えた。


 血の雲も消えた。


 残されたのは、ひび割れた赤い大地と、何もない空間だけ。


 そして。


 如月は、霞む視界の中で気づいた。


 足元の大地が、わずかに動いた。


「……?」


 地震ではない。


 地面そのものが、ゆっくりと持ち上がるような感覚。


 如月は、ぼやける視界の中で足元を見た。


 赤黒い地面。


 無数の亀裂。


 その亀裂だと思っていたものが、違う形に見えた。


 まるで、皮膚の皺のように。


 まるで、巨大な手のひらに刻まれた線のように。


「……まさか」


 悪魔が、震える声を漏らした。


 如月も、ようやく理解した。


 ここは地面ではなかった。


 赤い平原だと思っていた場所。


 無数の亀裂が走る大地だと思っていたもの。


 それは、巨大な掌だった。


 赤黒い肌。


 大地のように広い手のひら。


 その上に、如月と悪魔は立っていた。


 悪魔は、ゆっくりと顔を上げる。


 何もない空間の向こうに、巨大な存在がいた。


 紅い瞳。


 赤黒い肌。


 王族の礼装を思わせる漆黒の外套。


 ヴェル・ノクス。


 昨夜、如月の前に現れた地獄の王子が、そこにいた。


 ただし、その大きさは昨夜とは比べものにならない。


 この領域そのものを塗り替え、赤い砂漠を消し去り、赤い大地に見えるほど巨大な掌の上に、如月たちを乗せている。


 それが、ヴェル・ノクスの力だった。


「ヴェル……ノクス……王子……?」


 悪魔の声が掠れる。


 如月を掴んでいた手が、わずかに震えた。


 この領域は、もう悪魔のものではなかった。


 赤い砂漠も。


 血の雲も。


 奴が作り上げた狩場も。


 すべて、ヴェルによって塗り潰されていた。


 悪魔は自分の領域に如月を引きずり込んだはずだった。


 だが今、その領域そのものが、ヴェルの存在によって上書きされている。


 支配権を奪われたのだ。


 ヴェルは、自分の掌の上にいる悪魔を見下ろした。


 その目に、笑みはなかった。


『離せ』


 たった一言だった。


 その声が響いた瞬間、悪魔の腕が弾かれた。


 如月の身体が、巨大な掌の上に落ちる。


「っ……」


 息が漏れる。


 視界が霞む。


 悪魔は逃げようとした。


 だが、足が動かない。


 この空間そのものが、すでにヴェルの支配下にあった。


「ま、待――」


 悪魔が何かを言いかけた。


 その瞬間。


 ヴェルの指が、ゆっくりと曲がった。


 如月は薄れていく意識の中で、それだけを見ていた。


 何もない空間。


 巨大な掌。


 その上で震える悪魔。


 そして、静かに閉じられていくヴェルの拳。


 世界が、赤黒い闇に包まれる。


 最後に見えたのは、笑みのないヴェルの瞳だった。


 そこで、如月の意識は黒く途切れた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、如月が初めて悪魔相手に追い詰められました。


そして、兄を名乗るヴェルの本当の力も少しだけ見え始めました。


次回は、この戦いの後に何が起きるのか?


では、次話もよろしくお願いします。

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