第20話 欠片の名
一魂一体――いっこんいったい。
ひとつの魂に、ひとつの身体。
如月は、同じ場所に立っていた。
足元には、まだ黒い斬痕が残っている。
草原だったはずの地面は、如月を中心に大きく切り裂かれ、そこだけ色を失っていた。
草は黒く染まり、土は光を持たない。
焼けたわけでもない。
砕けたわけでもない。
ただ、命と色だけをまとめて刈り取られたような跡。
その中心に、如月は立っている。
そして、少し離れた正面にはカロス・グラウスがいた。
さっきと同じ位置。
同じ姿勢。
だが、周囲だけはもう同じではなかった。
カロスの黄色い瞳は、如月から離れない。
黒い腕輪を嵌めた両手は、いつでも動けるようにわずかに開かれている。
警戒している。
当然だ。
つい先ほど、如月の中から漏れた力が、ヴェルの領域の一部を刈り取った。
カロスが黒翼隊の副隊長でなければ、死んでいた。
それは、カロス自身が言ったことだった。
「もう一度だ」
カロスは低く言った。
「お前の中にいる悪魔と、話してこい」
如月はゆっくりと息を吸った。
怖くないわけではない。
むしろ、怖い。
自分の中に知らない誰かがいた。
そいつは、如月が覗き込んだ時、向こうからも如月を見ていた。
そして言った。
どうして、こんなに遅かったんだ、と。
自分を見るまで、どれだけ時間をかけるつもりだったんだ、と。
気味が悪い。
吐き気がするほど、気味が悪い。
だが、もう逃げるつもりはなかった。
如月は目を閉じた。
「……行く」
短く言う。
カロスは答えなかった。
ただ、わずかに腰を落とし、両足に力を込める。
次に何が起きても動けるように。
逃げるために。
あるいは、止めるために。
如月は意識を沈めた。
身体ではなく。
頭でもなく。
魂そのものから。
カロスが教えた言葉を、もう一度思い出す。
魂で想像しろ。
けれど、如月はまだ、自分の領域を想像しようとはしなかった。
今必要なのは、世界を作ることではない。
自分の中にいる誰かを見ること。
その正体を知ること。
そして、話すこと。
足元の草の感触が遠ざかる。
風の音が薄れていく。
カロスの気配も、ゆっくりと離れていく。
暗闇が近づいてくる。
いや、違う。
自分が暗闇の奥へ沈んでいるのだ。
十秒ほど経った頃。
如月の身体から、また黒い煙が漏れ始めた。
肩から。
腕から。
背中から。
影がほどけるように、ゆっくりと。
カロスの目が細くなる。
前回と同じだ。
黒い煙は風に流されず、如月の周囲にまとわりつく。
草原の色が薄れ、空の青さが遠くなる。
そこだけ、世界から光が抜けていく。
だが、カロスは動かなかった。
まだだ。
前回、危険だったのはこの後だった。
黒い煙が濃くなり、止まった瞬間。
その直後に、無数の刃が世界を薙いだ。
カロスは息を浅くする。
逃げる準備はしていた。
だが、今回は如月の様子が少し違った。
前回のように、混乱していない。
恐怖で揺れていない。
如月は、ただ静かに立っていた。
黒い煙の中心で、まるで深い水の底へ沈んでいくように。
◇ ◇ ◇
如月は、再び暗闇の中にいた。
何もない場所。
声もない。
光もない。
風もない。
ただ、底のない黒だけが続いている。
だが、前回とは違う。
今回は、探すべきものを知っていた。
如月は暗闇の奥を見つめる。
いる。
確かに、そこにいる。
最初は影だった。
人の形をした、曖昧な黒。
けれど、如月が意識を集中させるほど、その輪郭は少しずつはっきりしていく。
頭。
肩。
腕。
脚。
そして、背中から伸びる細い尾。
如月はさらに深く意識を向けた。
目を逸らさない。
逃げない。
今度は、見続ける。
影の向こうに、顔が見え始める。
少年だった。
中学生くらいの背丈。
如月よりずっと小さい。
だが、人間ではない。
頭には、小さな角があった。
肌は赤黒い。
耳はわずかに尖り、瞳は暗闇の中で静かに光っている。
腰の後ろから伸びる尾が、ゆっくりと左右に揺れていた。
その姿を見た瞬間、如月の胸の奥が冷たくなる。
似ている。
あまりにも、似ていた。
ヴェル・ノクスに。
顔立ち。
角の形。
赤黒い肌。
尾の動き。
何より、そこに立つだけで空気を変えるような存在感。
大きさも、年齢も、纏っている気配も違う。
けれど、その少年は確かに、若い頃のヴェルをそのまま切り取ったように見えた。
「……お前」
如月が声を出そうとした瞬間。
少年が走った。
暗闇の中を、軽い足音もなく駆けてくる。
如月は反射的に身構えた。
だが、少年は攻撃してこなかった。
如月のすぐ前でぴたりと止まり、顔を上げる。
身長差のせいで、少年は如月を見上げる形になった。
それなのに、不思議と見下ろされているような感覚があった。
少年は、少しだけ寂しそうに笑った。
「もう戻ってこないかと思った」
声は、幼い。
けれど、その奥にある響きは古かった。
長い時間、誰にも届かなかった声。
如月は眉をひそめる。
「誰だ、お前」
少年は、きょとんとした顔をした。
それから、少しおかしそうに笑う。
「俺?」
小さな角が、暗闇の中でわずかに揺れた。
「俺は君だよ」
「……は?」
「元は、魔王の息子だったけど」
如月は言葉を失った。
理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
自分の中にいる悪魔。
少年の姿。
ヴェルに似た顔。
魔王の息子。
そして、俺は君だという言葉。
あまりにも情報が繋がらない。
如月は低く言った。
「意味が分からない」
「大丈夫」
少年は軽く肩をすくめた。
その仕草まで、どこかヴェルに似ていた。
「今は分からなくてもいいよ。後でちゃんと説明してやるから」
「後で?」
「ああ」
少年は如月の周りを少しだけ歩いた。
まるで久しぶりに会った相手を確かめるように。
まるで、長い間待ち続けていたものが本当に目の前にいるのかを、確かめているように。
「それに……」
少年の声が、少しだけ低くなる。
如月は目を細めた。
「何だ」
少年は足を止めた。
そして、如月を見上げる。
「一つ、お願いしたいことがあるんだ」
「お願い?」
「うん」
少年は笑った。
だが、その笑顔はさっきまでより少しだけ弱かった。
「俺さあ、ここで何年も閉じ込められちゃっててな」
その言葉に、如月の表情が変わる。
「閉じ込められてる?」
「そう」
少年は自分の胸に手を当てた。
「ずっとここにいた。ずっと暗い場所で、ずっと君を待ってた」
如月は答えなかった。
少年の声は軽い。
笑っている。
だが、その言葉の奥には、どうしようもない孤独があった。
何年も。
この暗闇で。
一人で。
如月は、自分の胸の奥に嫌な重さを感じた。
「君が俺を見つけるまで、出られなかった」
少年は言う。
「だからさ」
そこで、少年は如月へ手を差し出した。
「解放してくれる? 俺を」
如月は、その手を見る。
小さな手だった。
人間の子どものように見える。
けれど、その指先には小さな黒い爪がある。
魔王の息子。
自分の中にいた悪魔。
そして、自分だと言った存在。
信用できる要素など、どこにもない。
普通なら、手を取るべきではない。
それくらいは、如月にも分かった。
分かったうえで、如月はため息を吐いた。
「どうして閉じ込められてるのかは知らない」
少年が瞬きをする。
如月は続けた。
「それに、俺に何ができるのかも分からない」
「うん」
「でも」
如月は、少年の目を見た。
「できることなら、助けるくらいはしてやる」
少年は、数秒だけ固まった。
そして。
「あは」
小さく笑った。
「あははははっ」
その笑い声は、暗闇の中に不思議なくらい明るく響いた。
「君って、本当に変だな」
「よく言われる」
「悪魔にも?」
「最近はな」
少年は楽しそうに笑ったまま、差し出した手を少しだけ揺らした。
「心配しなくていい。やり方は簡単だよ」
「本当かよ」
「うん。ただ、手を貸して」
如月は少しだけ迷った。
だが、結局手を伸ばした。
少年の手に向かって。
その瞬間、少年の瞳が細くなる。
嬉しそうに。
懐かしそうに。
そして、少しだけ泣きそうに。
少年は手を振り上げた。
如月の手と、自分の手を合わせるように。
ぱん、と。
軽い音が鳴った。
手を叩き合わせただけの音。
それだけだった。
なのに、次の瞬間。
如月の視界に光が溢れた。
暗闇が割れる。
黒い世界の奥から、白い光が広がっていく。
眩しい。
目を閉じているはずなのに、瞼の裏まで焼けるように明るい。
少年の姿が光の中へ溶けていく。
如月は咄嗟に声を出した。
「おい!」
少年は笑っていた。
光の向こうで。
「また後で」
その声を最後に、世界が白く染まった。
◇ ◇ ◇
如月は、ゆっくりと目を開けた。
そこは暗闇ではなかった。
ヴェルの草原だった。
空は青く、遠くの山脈には雪が残っている。
足元には黒い斬痕。
周囲には色を失った草。
そして正面には、カロス・グラウスが立っていた。
今回は、何も起きていない。
少なくとも、前回のように周囲が刈り取られることはなかった。
黒い煙も、ゆっくりと如月の身体へ戻るように薄れていく。
如月は自分の手を見る。
何かが変わった感覚はある。
だが、それが何なのかは分からない。
「……戻ったのか」
如月が呟く。
カロスは、ほんの少しだけ安堵したように息を吐いた。
「ヨウ」
その声には、珍しく焦りが混じっていなかった。
「よかった」
カロスは如月へ一歩近づこうとした。
その瞬間だった。
カロスの身体が、完全に止まった。
足も。
腕も。
翼も。
指先さえも。
まるで、見えない針でその場に縫い止められたように。
如月は眉をひそめる。
「カロス?」
返事はない。
カロスは動けなかった。
動かなかったのではない。
動けなかった。
何かがいる。
それを感じた瞬間、カロスの本能が全身に命令を出した。
動くな。
逃げるな。
翼を広げるな。
呼吸さえ浅くしろ。
一歩でも動けば死ぬ。
速度で逃げられる相手ではない。
黒翼隊の副隊長として培ってきた感覚が、はっきりとそう告げていた。
カロスの黄色い瞳が、如月の背後を見る。
そこに、黒い影が浮かんでいた。
如月の背後。
少し上の空間。
黒い煙が人の形を取るように、ゆらゆらと浮かんでいる。
如月はその気配に気づき、振り返ろうとした。
だが、その前に影が動いた。
速い、という言葉では足りなかった。
カロスの視界から消えた次の瞬間、それはもうカロスの顔の前にいた。
黒い煙の塊。
人の形をしている。
だが、顔は見えない。
目も見えない。
口も見えない。
それでも、カロスは分かった。
見られている。
目のない煙に、真正面から覗き込まれている。
カロスは動かない。
いや、動けない。
黒い腕輪が、かすかに脈打っていた。
ヴェルの拘束が反応している。
だが、それはカロスを守るためではない。
目の前の存在に対して、腕輪が警戒しているのだ。
そんな馬鹿なことがあるか、とカロスは思った。
ヴェル殿下の支配が刻まれた腕輪だ。
副隊長である自分の魂を締め上げ、逃亡も殺意も封じる拘束。
その腕輪が、目の前の黒い煙に反応している。
カロスの喉が、小さく鳴った。
黒い煙は、しばらくカロスの顔の前で揺れていた。
数秒。
あるいは、もっと長く感じた。
やがて、その煙がゆっくりと下へ降りる。
草の上に足が触れた。
煙がほどけていく。
黒い輪郭が消え、赤黒い肌が見える。
小さな角。
少年の顔。
細い尾。
中学生ほどの背丈。
如月の中にいた少年が、そこに立っていた。
カロスの目が、大きく見開かれる。
如月も言葉を失った。
少年は、二人の反応を気にする様子もなく、カロスを見上げた。
そして、少し首を傾げる。
「お前」
その声を聞いた瞬間。
カロスの表情が崩れた。
「カロスなの?」
少年は、懐かしそうに言った。
その一言で、カロスの膝から力が抜けた。
どさり、と。
黒翼隊副隊長カロス・グラウスは、その場に座り込んだ。
翼が力なく草の上に落ちる。
両手は震えていた。
如月は初めて見る。
カロスが恐怖以外で崩れる姿を。
命乞いでもない。
屈辱でもない。
ヴェルに対する畏怖でもない。
カロスの目から、涙が落ちていた。
一滴。
また一滴。
暗い赤の肌を伝って、草の上に落ちる。
カロスは泣いていた。
死を恐れてではない。
殺されると思ったからでもない。
ただ、そこにいるはずのない者を見たから。
二度と会えないはずだった者の声を聞いたから。
「……ルシェル」
かすれた声だった。
カロスは震える手を地面についた。
頭を下げる。
まるで、王の前に跪く兵のように。
だが、その声にあったのは、忠誠だけではなかった。
安堵。
懐かしさ。
そして、長い時間押し殺してきた悲しみ。
「ルシェル殿下……」
如月は、何も言えなかった。
少年は、静かにカロスを見下ろしていた。
その顔には、ほんの少しだけ困ったような笑みが浮かんでいる。
「久しぶりだね、カロス」
草原に、風が吹いた。
色を失った斬痕の上を、静かに通り抜けていく。
カロスは頭を下げたまま、涙を止められずにいた。
そして如月は、ようやく理解し始めていた。
自分の中にいたものは、ただの欠片ではない。
本に記された“魔王の魂の欠片”などという言葉では、到底片づけられない。
名前がある。
顔がある。
声がある。
誰かに待たれ、誰かに覚えられていた存在。
その名は――
ルシェル・ノクス。
魔王の息子だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、如月の中にいた“欠片”に、初めて名前が与えられる回でした。
まだすべての事情は明かされていませんが、カロスの反応から、彼がただの魔王の魂の一部ではないことが見えてきたと思います。
次回もよろしくお願いします。




