三 秘密
「夕食がたったこれだけなんて」
「しょうがないだろ。今は節約しないとダメなんだ」
リトはしょぼんと肩を落とした。もともとないような肩が完全に消滅してしまっている。そのへんの商店で買った粗悪な種がよほどおいしくないらしい。俺は安いライ麦のパンを頬張りながら、深いため息をついた。
「どうして泥棒を捕まえなかったんですか?捕まえていたら今ごろご馳走を食べられていたというのに!」
「……あんな風に泣かれたら捕まえられないだろ」
俺は焚火をぼんやりと眺めながら、獣人の泣き顔を思い出していた。大きなまなこから涙を流すあの表情を忘れられなかった。どうしてあんなにも悲しそうに、そして何かを恐れるように泣いていたのか。黒猫の獣人は一体何を隠しているのだろうか。
あの後、獣人はすばやく逃げていってしまった。涙のわけを聞くこともできず、漠然としない罪悪感が心に残っていた。泣かせてしまったというほの暗い罪の意識が、胸をしめつけてくる。
「なあリト、さっき会った獣人の好感度を見せてくれ」
「かしこまりました!」
一冊の本が空中で開き、勝手にページが捲れていく。開いたページを読み込んでいると、好感度ゼロの文字が目に入った。俺はがっくりと肩を落とした。主張の激しい肩がなだらかになる。なで肩になったまま、ライ麦パンに再びかじりついた。
「どうしたら好感度が上がるんだ」
「わたくしのアドバイスがほしいですか?」
きらきらとした目でリトが問いかけてくる。はやく聞いてくれと訴えかけてくる眼差しに負けて、俺はつい口を開いてしまった。
「一応聞いておこうかな」
「ふふん、ずばり、プレゼントをするといいでしょう!」
「プレゼント?」
「はい、好きなものを渡せば相手も好意を寄せてくれるはずです!」
「……そんな簡単な話じゃないと思うけどな」
「とにかくやってみないと!あの獣人の好きなものをお教えしますよ」
リトは声高らかに言い放ったが、すぐに気まずそうに視線をそらした。どうやら不都合なことがあったらしい。
「……情報が足りなすぎて、好きなものがわかりません」
「だろうな。あいつの名前も知らないのに」
大して期待していなかった俺は、その場に寝転がり夜空を見上げた。現世では見ることのできなかった満点の星空が広がっている。生きることに必死で空を見上げる必要性なんて忘れていた。広い世界を前にすると、自分の考えていることがひどくちっぽけなもののように思えた。
「なにこれ」
「うまそうなバナナ」
「僕のことゴリラだと思ってる?」
獣人は深いため息をついた。今日も今日とて地下のにおいは最悪で、新鮮なバナナが明らかに場違いだった。俺は差し出したバナナを引っ込めて、その辺の鉄くずに腰かけた。
「お前のことなにも知らないから、とりあえず食べ物にしたんだよ。何が欲しいか言ってくれたらそれをやる」
「欲しいものなんてないし、なにが目的?僕に媚びてもいいことなんてないよ。はやく帰って」
「バナナ嫌いか?」
「好きでも嫌いでもないし、食べたくない」
ゆらゆらと尻尾を揺らしながら獣人は言った。明らかに不機嫌そうな顔をしているが、この前のように逃げ出す気はないらしい。とりあえず猫のお気に召さなかったバナナをカバンにしまい、俺はまん丸の目をまっすぐ見つめた。
「とりあえず名前を教えてくれよ。俺はヒイラギだ。」
「なにそれ、へんな名前」
「ちょっと遠くの国出身なんだ」
異世界から来たなんて説明をするのは面倒で、適当にごまかした。獣人は興味がなさそうに背を向けた。小柄な身体で、武器商人から盗んだ剣を背負っている。いかにも大事そうにしているその光景は、どこか違和感があった。
カバンの中のバナナを勝手に食べ始めたリトは放っておき、俺はしつこく質問を続けた。
「名前は?」
「言いたくない。なんで教えてないといけないの?」
「俺が知りたいから」
「……もしかして、この前のこと気にしてるの?僕が泣いたから、バナナはお詫びの品ってこと?だとしたら全然うれしくないし、迷惑だよ。僕はあんたと馴れ合うつもりなんてない」
「どうしてあのとき泣いたんだ」
揺れていた尻尾がぴたりと止まる。背を向けられているため表情はわからないが、長い沈黙が彼の動揺を物語っていた。
この獣人は何かを隠している。そしてその秘密を解き明かす鍵が、きっとあの涙にあるはずだ。俺は自分の直感を信じて追及し続けた。
「人間が怖いのか?それとも触られるのが怖いのか?昔になにかあったとか――」
「うるさい!」
振り返った獣人は牙をむき出しにして怒りを露わにした。よほど強い怒りを感じているのか、顔が妙に赤らんでいる。耳や尻尾の毛を逆立たせる彼を前にして、俺は後退ることも怯えることもなく向かい合った。
「そうやって人の心にずけずけ入り込んできて!僕をどうしたいんだ!」
「お前のことを知りたいんだよ。何が好きで、何が嫌いか。何を恐れているのか」
素直な気持ちを伝えたが、返ってきたのは温度のない嘲笑だった。
「……あー、なんだ、そういうこと。僕みたいな、かわいそうな猫に情が湧いちゃったんだ。助けてあげたいとか思った?泣いてるところ見て母性本能とか刺激されちゃった?余計なお世話だよ。僕はかわいそうなんかじゃない。一人で生きていけるし、一人で戦える!誰も僕に指図するな!」
「その剣は戦うために盗んだのか?」
獣人は目を泳がせた。俺の質問が予想外だったのか、牙をむき出しにすることすら忘れて立ち尽くしていた。何か思うことがあったのか、彼は剣の柄を握った。指先が白くなるほど強く握っており、並々ならぬ思いがそこにあるようだった。
「戦いたい相手がいるんだろ。だから剣を盗んだんだ。金が目的なら他にいくらでも高価なものがあったからな。自分を守るためにその剣が必要だったんだろ」
「……違う」
「相手は誰だ?その怪我もそいつにやられたのか?」
俺は一歩ずつ獣人に近づいていった。距離が少しずつ縮まっていく。獣人は微動だにせずにうつむいていた。このまま触れられるかもしれない距離まで近づいたその時、華奢な身体がぐらりと傾いた。
「おい、大丈夫か」
とっさにその身体を支えれば、触れ合った皮膚から人肌以上の熱を感じた。よく見れば額に汗がにじんでいる。呼吸は荒く、赤らんだ顔で苦しそうな表情を浮かべている。
「勇者様、すごい熱です!」
リトは小さな手で獣人の額に触れた。その感触が気になったのか、閉じられていた瞼がゆっくりと開いた。潤んだ瞳を見た瞬間に、泣かせてしまったあのときの罪悪感が蘇ってきた。
「……放っておいて」
か細い声で獣人が言う。もうなにもかも諦めているような、静かな声色だ。俺は発熱した細い身体を背負い、急いで駆け出した。
「掴まってろ」
声をかけて地上に繋がる梯子を上り始めた。返事はなかったが、首元に回った腕にわずかな力が込められた。素直に言うことを聞いてくれた彼の温もりを感じながら、俺は酷く胸を揺さぶられていた。
名前も知らないこの獣人を助けなければいけない。そんな使命感に突き動かされて、街へと急いだのだった。




