小室泰六(SHERLOCK) - 駿河台の朝靄、畳まれなかった三足の草履と職人の算法
駿河台の朝靄、畳まれなかった三足の草履と職人の算法
【あらすじ】
明治三十三年、秋。
駿河台の足袋問屋「大黒屋」で、差配人の黒田宗兵衛が刺殺体となって発見された。
蔵の正面戸には内側から横木が掛かり、外から出入りした形跡はない。死体のそばには、真新しい草履が三足、きちんと並べられていた。
前夜、近くの職人長屋では火事が起きていた。警察は、火事を起こした職人たちが黒田と争い、殺害したのではないかと疑う。
しかし、小室泰六は三足の草履に違和感を覚えた。
草履は、本当に三人が履いたものなのか。
蔵は、本当に密室だったのか。
そして、帳簿に残された小さな数字の食い違いは、何を意味しているのか。
和田進一は、疑いを掛けられた職人たちの話を聞き歩く。彼らの証言は少しずつ食い違っていた。だが、その沈黙の奥には、誰かを守ろうとする思いと、失うことを恐れる暮らしがあった。
三足の草履、閉ざされた蔵、そして職人たちの算法。
泰六が見つけるのは、犯人の仕掛けだけではない。人を罪人に仕立てるために、証拠がどのように並べられるのかという、もう一つの謎だった。
【登場人物紹介】
◾️小室泰六
鋭い観察眼と論理的な推理力を持つ探偵。
目の前にある証拠をそのまま信じることなく、誰が、何のために、その証拠を残したのかを考える。今回の事件では、三足の草履と帳簿の数字に着目する。
◾️和田進一
泰六の相棒であり、本作の語り手。
人々の言葉に耳を傾け、その証言の背後にある暮らしや感情を見つめる。職人たちの沈黙を、ただちに罪の証拠とは考えない。
◾️柴崎巡査
事件を担当する警察官。
火事と殺人を結び付け、職人たちを疑う。早く事件を解決しようとするあまり、目の前の証拠が示す筋書きを疑うことができずにいる。
◾️黒田宗兵衛
足袋問屋「大黒屋」の差配人。
職人への支払いと荷の受け渡しを管理していた。職人たちから恐れられていたが、その死によって、問屋の帳簿に隠されていた問題が明るみに出ようとしていた。
◾️源吉
若い足袋職人。
火事のあった長屋に住み、黒田と口論したことがあるため、警察から真っ先に疑われる。自分の身を守ることよりも、仲間たちの暮らしを心配している。
◾️杉原
大黒屋の帳場係。
荷の出入りや帳簿の管理を担当する、数字に強い男。問屋の内情を知る立場にあり、職人たちの賃金や納品の記録にも関わっている。
駿河台の朝靄、畳まれなかった三足の草履と職人の算法
第一章 朝靄のなかの三足
神田の秋は、朝の訪れが早い。
夜の冷えをまだ地面に残したまま、薄い靄が路地を漂っていた。駿河台の坂を上がると、遠くの屋根も、向かいの家の軒先も、白い息の向こうにあるようにぼんやりと見えた。
その朝、私は小室泰六とともに、足袋問屋「大黒屋」へ向かっていた。
きっかけは、朝刊の片隅に載った小さな記事である。
前夜、淡路町の職人長屋で火事があり、二棟が焼けた。火の始末を誤ったのではないかという話が出ている。そして今朝、駿河台の大黒屋で、差配人の黒田宗兵衛が死んでいるのが見つかった。
記事には、二つの出来事が関係している可能性がある、と記されていた。
「火事に殺人か。朝から穏やかではないね、和田君」
泰六は新聞を畳み、懐中時計を確かめた。
「警察は、もう犯人の見当をつけているそうです」
「それは結構なことだ」
「結構、ですか?」
「見当をつけること自体は悪くない。ただし、見当を事実と取り違えなければ、という条件がつく」
泰六はそれだけ言うと、足を速めた。
大黒屋の店先には、すでに数人の人だかりができていた。表の店では、奉公人たちが落ち着かない様子で行き来している。奥の蔵の前には警察官が立ち、近づく者を制していた。
私たちを見ると、柴崎巡査がこちらへ歩み寄ってきた。
「小室さん、和田さん。お待ちしておりました」
「ずいぶん早いお出迎えだね、柴崎君」
「冗談を言っている場合ではありません。死体が出たのです」
「承知している。亡くなったのは黒田宗兵衛殿だね」
「ええ。差配人です。職人たちの仕事と賃金を取り仕切っていた男でしてな」
柴崎巡査は声を低めた。
「昨夜、淡路町の長屋が焼けました。その長屋には、大黒屋の仕事を請け負っている職人が何人も住んでいます。黒田とは、賃金のことで揉めていた者もいたそうです」
「それで、その職人たちが黒田殿を殺したと?」
「まだ断定はしておりません。しかし、状況はそう考えるのが自然でしょう」
泰六は答えず、蔵の方へ目を向けた。
正面の戸は、厚い板を組み合わせた古い造りだった。その戸の内側には、横木を通すための金具が付いている。発見時には、横木が内側から掛かっていたという。
「誰が発見したのかな」
「今朝、荷を取りに来た奉公人です。何度呼んでも返事がないので、裏手に回って様子を確かめたそうです。その後、戸を開けようとして、内側の横木に気づいた」
「戸を開けられなかった?」
「ええ。人を呼び、横木を外せるように戸の隙間から手を入れようとしましたが、無理でした。結局、戸板の一部を外して中へ入りました」
「それで、黒田殿を見つけたわけだ」
「そうです」
泰六は蔵の戸に近づいた。割られた板の縁、金具の位置、床に落ちた木片を、ひとつずつ眺めていく。
「死体は、どこに?」
「こちらです」
柴崎巡査に案内され、私たちは蔵の中へ入った。
油と木材と、乾いた藁の匂いが混じっていた。壁際には荷箱が積まれ、反対側には足袋の材料が入った俵が並んでいる。窓は小さく、高い位置にあった。朝の光は細い筋になって床へ落ちていた。
黒田宗兵衛は、中央に近い場所で仰向けに倒れていた。
胸元には、深い刺し傷がある。着物には血が広がり、片手は腹のあたりに曲げられていた。
そして、その傍らに。
三足の草履が、並んでいた。
どれも新しい。藁の部分はまだ明るい色を残し、鼻緒にも目立った傷みがない。三足は、つま先を同じ方向へ向け、まるで店先の商品見本のように整然と置かれていた。
私は思わず足を止めた。
「三足、ですか」
「ええ」と柴崎巡査が言った。「職人たちが三人で押しかけたということでしょう。草履を履いたまま、蔵へ入ったのではないかと」
「どうして、そう考えるのです?」
「三足あるからです」
私は、なるほどと思いかけた。
しかし泰六は、草履を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、しゃがみ込み、一本の指を草履の縁へ近づけた。直接触れはしない。表面の泥を、横から眺めている。
「和田君」
「はい」
「この草履は、誰かが履いたものだろうか」
「……新品に見えますが」
「新品に見えることと、履かれていないことは別だ。だが、これは少々、整いすぎている」
泰六は三足を順に見比べた。
「泥の付き方が似ている。いや、似ているというより、同じように付けられたように見える」
柴崎巡査が眉をひそめた。
「土など、歩けば似たようにつくものではありませんか」
「もちろん、その可能性はある。だから、これだけで結論は出さない」
泰六は立ち上がり、蔵の床を見渡した。
「ところで、柴崎君。三人がこの蔵に押し入ったというのなら、三人分の足跡はどこにあるのだろうね」
柴崎巡査は、床を見た。
板張りの床には、薄い埃が積もっている箇所がある。荷箱の周囲には、普段から人が歩くためにできた跡も残っていた。
しかし、三足の草履に対応するような、はっきりした足跡は見当たらなかった。
「……床を拭いたのかもしれません」
「それなら、それを示す痕跡が必要だ。拭いた場所と、拭かなかった場所の違いがね」
泰六は再び草履を見た。
「まだ何もわかってはいない。ただ、三足あるから三人いた、と考えるのは早すぎるようだ」
蔵の外から、冷たい風が入り込んだ。
そのとき私は、三足の草履が、誰かの足を待っているように見えた。
しかし、誰もそれを履いてはいなかった。
第二章 疑われた職人たち
大黒屋を出た私たちは、淡路町の長屋へ向かった。
火事の跡は、まだ生々しかった。焼けた柱が黒く立ち、壁の一部は崩れ、濡れた灰が路地の隅に寄せられている。近所の者たちは、片づけの手を止めて、私たちを見ていた。
長屋の住人の一人が、柴崎巡査に連れられてきた私たちを見て、顔を曇らせた。
「また、源吉を捕まえに来たんですか」
「まだ捕まえると決まったわけではありません」
私はそう答えたが、相手の表情は変わらなかった。
「決まっていなくたって、警察が来れば同じですよ。あの子が何をしたっていうんです」
泰六は、その言葉を遮らなかった。
やがて、焼け残った壁際から、若い男が現れた。
源吉だった。
粗末な仕事着を着て、袖口には煤が残っている。目の下には、眠れなかった者の影があった。
「私が源吉です」
彼は私たちを見た。
「黒田さんとは、確かに揉めました。賃金を減らされたからです。でも、殺してはいません」
「昨夜は、どこにいたのですか」
私が尋ねると、源吉は一度、周囲の者たちを見た。
「長屋にいました。火が出る前も、その後も」
「それを証明できる人は?」
「……います。でも、誰も巻き込みたくありません」
泰六が口を開いた。
「君は、自分が疑われることより、誰かが巻き込まれることを心配しているようだね」
源吉は答えなかった。
「それは、仲間を守りたいからか。それとも、仲間の中に、話せば困ることを抱えている者がいるからか」
「……どちらも、かもしれません」
その答えは、私の予想とは違っていた。
源吉は、すべてを否定しようとはしなかった。
「私たちは、黒田さんに逆らえば仕事を失います。仕事を失えば、家賃も払えない。食べるものにも困る。だから、多少のことは我慢してきました」
「多少のこと、とは?」
「出来高を少なく書かれたり、傷物だと言われて賃金を引かれたり。こちらが文句を言えば、次の仕事は回さないと言われるんです」
彼は焼けた柱を見た。
「この火事だって、私たちが起こしたと思われている。でも、火事の原因はまだわかっていないはずです」
「その通りです」
私は答えた。
源吉は、少しだけ顔を上げた。
「だったら、どうして皆、私たちがやったと決めてしまうんでしょう」
私は、すぐには答えられなかった。
泰六が代わりに口を開いた。
「人は、説明のつかない出来事があると、説明しやすい筋書きを求めることがある。君たちには黒田殿と争う理由があった。火事もあった。だから二つを結び付ければ、わかりやすい話になる」
「でも、それは本当のことじゃありません」
「そうだね。わかりやすいことと、正しいことは同じではない」
源吉は、しばらく黙っていた。
その後、私たちは長屋の住人たちから話を聞いた。
ある者は、夜遅くまで仕事をしていたと言った。別の者は、火が出る少し前に外へ出たと言った。さらに別の者は、夜半に荷車の音を聞いたと証言した。
証言は、少しずつ食い違っていた。
だが、その食い違いが、ただちに誰かの嘘を意味するわけではない。
仕事を終えた時刻を、時計で確かめた者はいなかった。夜番の交代を聞いて時刻を覚えていた者もいれば、遠くの鐘を頼りにしていた者もいた。
私は、証言を一つずつ書き留めた。
泰六は、私の手元をのぞき込んだ。
「和田君。君は今、何を記録している?」
「誰が、いつ、どこにいたかです」
「それだけかね」
「ほかに、何かありますか」
「その人が、何を基準に時刻を覚えているかだ。時計を見たのか、鐘を聞いたのか、仕事の区切りで判断したのか。同じ『夜の九時』でも、その意味は人によって違う」
私は、筆を止めた。
泰六は続けた。
「証言を並べるときは、言葉だけを並べてはいけない。その言葉が生まれた条件も、一緒に考えるのだよ」
私は、もう一度、証言の記録を見直した。
そこには、まだ答えはなかった。
しかし、最初に思っていたほど、職人たちの言葉は曖昧ではないのかもしれなかった。
第三章 帳簿のなかの小さな嘘
翌日、泰六は再び大黒屋を訪れた。
今度は、帳場係の杉原に会うためだった。
杉原は、年の頃三十を少し過ぎた男で、整った身なりをしていた。帳場の机には、帳簿と算盤が並び、筆も墨もきちんと揃えられている。
「お忙しいところ、申し訳ありません」
私が言うと、杉原は軽く頭を下げた。
「いえ。警察にも申し上げた通り、私にわかることなら何でもお答えします」
泰六は、机の上の帳簿を眺めた。
「こちらは、荷受け帳ですか」
「はい。こちらが支払帳で、こちらが出荷帳です」
「三つとも、黒田殿が管理していたのかな」
「いえ。帳簿の記入は私が担当することもありました。黒田さんが確認し、印を押すのです」
「なるほど。では、荷の数を尋ねてもよいだろうか」
杉原は、少しだけ表情を緩めた。
「足袋の数ですか。もちろんです」
泰六は帳簿を開き、いくつかの日付を指で示した。
「この日の仕入れは二百足。職人への材料の払い出しは百八十足。完成品としての出荷は百六十足。残りの四十足は、傷物として処理されている」
「はい。傷物は売り物になりませんから」
「そうだね。では、こちらの日はどうだろう。仕入れが百五十足。払い出しが百三十足。出荷が百十足。傷物が三十足」
「それも、間違いではありません」
泰六は、次の帳簿を開いた。
「こちらの記録では、傷物として戻された足袋のうち、十足が再び出荷されている。だが、その十足は、どの職人が直したのかな」
杉原は、帳簿をのぞき込んだ。
「それは……」
「支払帳には、修繕の手間賃が記されていない。出荷帳には、再出荷の記録がある。けれど、職人への支払いがない」
「小さな修繕でしたので、別の勘定にしたのかもしれません」
「かもしれないね」
泰六は、あっさりとうなずいた。
「だから、これだけで不正だとは言わない。ただ、同じような差が、何度も繰り返されている」
杉原は黙った。
「数字は、ただ並べているだけでは意味がない。仕入れ、払い出し、完成品、傷物、再出荷。それぞれを結び付けて、初めて何が起きたかが見えてくる」
泰六は算盤を引き寄せた。
「ところで、杉原君。職人への支払いを差し引くとき、誰が最終的にその額を決めていたのかな」
「黒田さんです」
「君は、計算をしただけかね」
「……帳簿をつけるのが私の仕事です」
その答えは、正しいのかもしれない。
しかし、私は杉原の指先が、帳簿の端を強く押さえていることに気づいた。
泰六も、それを見ていた。
けれど、何も言わなかった。
その代わり、帳簿を閉じ、静かに立ち上がった。
「今日は、これで十分だ。見せてくれてありがとう」
大黒屋を出たあと、私は泰六に尋ねた。
「杉原は、何かを隠しているのでしょうか」
「そうかもしれない。しかし、隠し事があることと、殺人を犯したことは別だ」
「では、何がわかったのですか」
「帳簿には、職人たちが不正をしたという証拠は、まだ見当たらないということだ。そして、誰かが数字を扱い、記録を整えていたということだね」
「それは、杉原では?」
「帳簿をつけていたのは杉原君だ。しかし、誰が数字を変えたのかは、まだわからない。記入した者と、改ざんした者が同じとは限らないからね」
泰六は、駿河台の坂をゆっくり下りながら言った。
「和田君。人を疑うときは、その人が何をしたかだけでなく、何をしたと証明できるのかを考えなければならない」
私はうなずいた。
事件は、まだ解けていなかった。
だが、三足の草履が示すものと、帳簿が示すものは、少しずつ別の方向を向き始めていた。
第四章 閉ざされた蔵
その日の午後、泰六は私を連れて、もう一度大黒屋の蔵へ入った。
正面戸は応急の修理が施され、壊された部分には板が打ち付けられていた。死体はすでに運び出され、床の血痕も一部が拭き取られている。
しかし、蔵の隅には、事件当時のまま残されている場所があった。
泰六は、壁際に積まれた荷箱を見た。
「和田君。君なら、この蔵から出ようとしたとき、どこを通る?」
「正面戸でしょう。ほかには、窓くらいしかありません」
「窓は高く、狭い。人が通るのは難しいね」
泰六は、荷箱の裏へ回った。
そこには、壁と荷箱の間に、細い隙間があった。荷箱の奥は暗く、積もった埃が厚い。
「ここは、普段から使われているのですか」
「わかりません。少なくとも、荷物を出し入れする場所には見えませんね」
「そうだ。では、なぜ、ここだけ埃が乱れているのだろう」
私は身をかがめた。
荷箱の下には、擦れた跡がある。壁の板にも、何かがこすれたような細い傷が残っていた。
泰六は、荷箱を少しずつ動かした。
その奥から、古い木製の板戸が現れた。
板戸は、人ひとりがかがめば通れそうな大きさだった。外側には、かつて荷を運び出すために使われたらしい、狭い通路が続いている。
「こんなところに、出入口があったのですね」
「昔の蔵では、荷を運ぶための小さな搬出口が設けられていることがある。使われなくなれば、棚や荷箱で隠される。珍しいことではない」
泰六は、板戸の縁を調べた。
内側の掛け金には、真新しい擦り傷があった。
「この傷は、いつ付いたのでしょう」
「それを、これだけで決めることはできない。だが、事件の前後に、この戸が動かされた可能性はある」
私は、蔵の正面戸を振り返った。
内側から横木が掛かっていたという事実は変わらない。
しかし、それは、犯人が外へ出られなかったことを意味しない。
「では、犯人はこの搬出口から逃げたのでしょうか」
「可能性はある。だが、可能性を見つけたことと、事実を証明したことは違う」
泰六は、板戸を元の位置に戻さず、その構造を確かめた。
「この掛け金は、内側から扱うものだ。外から閉めるには、別の仕組みが必要になる。そこを確かめなければ、密室の謎は解けない」
私は、改めて掛け金を見た。
蔵は密室に見えた。
だが、密室であることを証明するには、出入口がないことだけでなく、出入口を使えなかったことまで確かめなければならない。
その違いを、私は初めて実感した。
第五章 火事の夜の音
その夜、私たちは再び淡路町の長屋を訪ねた。
火事の後始末をしていた住人たちは、少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった。焼け残った道具を拾い集める者もいれば、隣家の軒先を借りて食事を作る者もいる。
私は、前日に聞いた証言をもう一度確かめることにした。
「昨夜、荷車の音を聞いたとおっしゃいましたね」
そう尋ねたのは、長屋の奥に住む老人だった。
「そうじゃ。夜遅くだったと思う」
「どのくらい遅い時刻でしょう」
「さあな。時計は持っとらん。夜番が交代したあとだったと思うが」
「夜番の交代は、いつも同じ時刻ですか」
「大体はな。だが、仕事が遅れりゃ、交代も遅れることがある」
私は、その言葉を書き留めた。
別の住人は、鐘の音を聞いてから火事に気づいたと言った。しかし、鐘がどこから聞こえたのかは、はっきりしなかった。
泰六は、二人の証言を聞きながら、路地の向こうを見ていた。
「和田君。君は、今の話をどう考える?」
「荷車が通った時刻は、まだ確定できません。ただ、夜番の交代を基準にした証言と、鐘を基準にした証言では、時刻の意味が違います」
「そうだね。では、荷車の音が聞こえたという証言は、何を証明するのだろう」
「荷車が通った可能性です。ただし、それが大黒屋から来たのか、どこへ向かったのかまではわかりません」
泰六は、満足そうにうなずいた。
「証言を、必要以上に大きなものにしてはいけない。聞こえた音は音の証拠であって、荷の中身や、乗っていた人物の証拠ではないからね」
そのとき、源吉が近づいてきた。
「小室さん。和田さん。ひとつ、思い出したことがあります」
「何でしょう」
私が尋ねると、源吉は少し迷ってから答えた。
「火事の前、黒田さんが大黒屋の蔵へ向かうのを見たという者がいます。ただ、その人は、見たことを警察に話したがりません」
「なぜです?」
「黒田さんが、誰かと会う約束をしていたらしいんです。その相手が誰なのか、わからないからです」
泰六の目が細くなった。
「その人物を見たのかな」
「いいえ。ただ、黒田さんが誰かを待っているようだった、と」
「なるほど」
泰六は、それ以上は尋ねなかった。
私たちは長屋を後にした。
帰り道、私は泰六に言った。
「黒田は、火事の前に誰かと会おうとしていたのかもしれません」
「そうだね」
「帳簿の不正を知っていたのでしょうか」
「その可能性もある。だが、黒田殿が誰を待っていたのか、それが殺人と関係するのかは、まだわからない」
泰六は、夜空を見上げた。
「ただ、事件の順序を決めつけないことだ。火事が起きたから殺人が起きたのか。殺人を隠すために火事が利用されたのか。それとも、二つは別々の出来事なのか」
その三つは、どれも同じではなかった。
そして、私たちはまだ、その答えを持っていなかった。
第六章 三足の草履が語るもの
翌朝、泰六は三足の草履を改めて調べることにした。
警察の許可を得て、草履は一足ずつ紙の上に置かれた。私は、泰六の指示に従い、泥の付着している場所を記録した。
三足とも、裏側の前方と踵に、似た色の泥が付いていた。
しかし、よく見ると、泥の厚さも、付着している角度も、ほとんど同じだった。
「これほど似るものでしょうか」
私が尋ねると、泰六は答えた。
「同じ場所を歩けば、似た泥が付くことはある。だが、三足の泥が同じような位置に、同じような厚さで付いている。しかも、履いた形跡が乏しい」
泰六は、草履の鼻緒を示した。
「鼻緒には、足を入れたときの伸びや擦れがほとんどない。もちろん、新品でも履けば必ず大きな跡が付くとは限らない。しかし、裏側の泥と合わせて考えると、誰かが泥を付けた可能性が高い」
「つまり、三人分の足跡を偽装するために?」
「そう考えるのが自然だね。だが、まだ確定ではない」
泰六は、三足を並べた。
「和田君。この草履を置いた人物は、何を望んだのだろう」
「三人の職人が蔵へ入ったと思わせることです」
「では、なぜ三人なのか」
私は、少し考えた。
「職人たちが三人で黒田と争った、という話を作りたかったのでしょうか」
「それも一つの可能性だ。しかし、もう一つある」
泰六は、私たちが前日に調べた帳簿を取り出した。
「ここに、職人三名が材料を受け取ったとする記録がある。だが、材料の払い出し数と、その後の完成品の数が一致しない日がある」
「それは、先ほどの傷物の記録と関係するのでしょうか」
「そうかもしれない。もし帳簿に不正があったなら、三人の職人が蔵に集まり、黒田殿と争ったという筋書きは、帳簿の不一致を彼らの仕業に見せかけるのにも都合がよい」
私は、ようやく三足の意味が見え始めた気がした。
草履は、単に犯人の人数を示すためのものではない。
職人たちを疑わせるために、帳簿の不正と現場の偽装を結び付ける役割を持っていたのだ。
しかし、まだ疑問が残っていた。
「では、犯人は誰なのでしょう」
「それを決めるには、もう一つ、確かめる必要がある」
泰六は、草履を紙に包み直した。
「この三足を置くことができた人物は、誰だったのか。そして、密室を作ることができた人物は、誰だったのか」
私は、杉原の顔を思い浮かべた。
帳簿を扱い、荷の出入りを知り、蔵の構造にも詳しい人物。
だが、それだけで彼を犯人と決めることはできない。
泰六も、同じことを考えているようだった。
第七章 算法の答え
その日の午後、私たちは柴崎巡査立ち会いのもと、大黒屋の蔵を再び調べた。
泰六は、まず搬出口の掛け金を確かめた。
「この掛け金は、内側からしか動かせないように見える。しかし、板戸の隙間から、細い棒を差し込めばどうだろう」
彼は、蔵にあった細い木片を手に取り、掛け金の位置を確かめた。
だが、何度試しても、外側から掛け金を動かすことはできなかった。
泰六は、木片を置いた。
「なるほど。これでは、外から閉めることはできない」
柴崎巡査が言った。
「では、やはり密室だったのではありませんか」
「いや。犯人が出たあと、誰かが内側から閉めたのならどうだろう」
「誰かが残っていたということですか」
「あるいは、被害者が自分で閉めた後に殺されたのかもしれない。可能性はいくつもある。だが、今は、搬出口から出た者がどうやって閉めたかを考えなければならない」
泰六は、搬出口の外へ出た。
私は、その後に続いた。
外側の通路は狭く、荷を運ぶための小さな台が置かれていた。台の上には、古い縄と木片が残っている。
泰六は、板戸の下部を調べた。
「和田君。この戸は、いつも完全に閉まっていたのだろうか」
「荷の出し入れに使わなくなってからは、そうだったのではないでしょうか」
「ならば、閉じたときの跡が残るはずだ」
彼は、板戸の下にある溝を指した。
そこには、古い埃の層が残っていた。しかし、一部だけ、細く削られたような跡がある。
「戸を動かした跡ですか」
「その可能性がある。さらに、こちらを見てくれ」
板戸の縁には、小さな穴が開いていた。そこには、古い紐が通されていたらしい跡がある。
泰六は、床に落ちていた短い紐を拾った。
「この紐が、事件のときに使われたものかどうかは、まだわからない。だが、搬出口を閉めるために何らかの工夫がされた可能性はある」
柴崎巡査は、腕を組んだ。
「つまり、犯人は紐を使って、外から戸を閉めたのですか」
「まだ断定はできない。紐の長さも、掛け金の形も、実際に再現してみなければならない」
泰六は、紐を大切に包んだ。
「密室の謎は、見つけた仕掛けを当てはめるだけでは解けない。仕掛けが本当に働くかどうか、確かめなければならないのだよ」
私は、その言葉を聞きながら、三足の草履を思い出していた。
あれもまた、置かれているだけでは証拠にならなかった。
それが何を意味するのかは、別の事実と照らし合わせて初めてわかる。
泰六は、次に杉原を呼ぶよう、柴崎巡査に頼んだ。
杉原が蔵へ入ってきたとき、顔には疲れが浮かんでいた。
「何か、わかったのですか」
「いくつかね」
泰六は、三足の草履を机の上に置いた。
「杉原君。この草履は、誰が用意したのだろう」
「さあ……職人たちが持ち込んだのではありませんか」
「職人たちが履いた形跡は乏しい。泥の付き方も不自然だ。誰かが、三人分の足跡を偽装するために用意したと考えられる」
杉原は、何も言わなかった。
「そして、帳簿には、職人三名が材料を受け取ったとする記録がある。だが、その記録は、ほかの帳簿と一致しない。傷物として処理された足袋の数、再出荷された数、職人への支払い。どれも、繰り返し小さな差が生じている」
「それは、黒田さんが決めたことです」
「そうかもしれない。だが、君は帳簿を管理していた。誰が数字を変えたのか、知らないとは言えないのではないかな」
杉原は、目を伏せた。
泰六は続けた。
「さらに、蔵の搬出口には、最近動かされた痕跡がある。正面戸が内側から閉ざされていたからといって、誰も外へ出られなかったことにはならない」
柴崎巡査が、杉原のそばへ歩み寄った。
「杉原。何か知っていることがあるなら、話しなさい」
長い沈黙があった。
やがて杉原は、両手を握りしめた。
「……黒田さんは、帳簿のことを知っていました」
「何を?」
「私が、荷の数を改めていたことです」
杉原は、顔を上げた。
「最初は、ほんの少しでした。傷物の数を多く書き、売れる品を別の勘定に回す。そうして生じた差を、職人たちへの支払いから差し引くこともありました」
「それは、黒田殿の指示だったのかね」
「最初は、そうでした。しかし、次第に私自身も……」
杉原の声が途切れた。
「黒田さんは、それを知って、私を問い詰めました。帳簿をすべて調べ直すと言ったのです。そうなれば、私が何をしてきたのか、すべて明らかになる」
柴崎巡査が言った。
「それで、黒田を殺したのか」
杉原は、しばらく目を閉じていた。
やがて、かすれた声で答えた。
「……はい」
彼は、黒田との争いを語った。
帳簿のことで口論になり、黒田が警察へ訴えると言った。杉原は、これまでの不正が明るみに出れば、仕事も信用も失うと恐れた。
その恐怖が、取り返しのつかない行動へと彼を追い込んだ。
黒田を刺した後、杉原は搬出口から蔵を出た。そして、あらかじめ用意していた紐を使い、外側から掛け金を動かして戸を閉めたという。
正面戸の横木には手を触れず、発見者が蔵へ入ることを難しくした。
三足の草履は、職人たちが蔵へ押し入ったように見せるために置いた。
泥も、自然に付いたものではなかった。職人たちの仕事場の土に似せて、草履の裏へ付けたのだった。
柴崎巡査は、杉原を見つめた。
「なぜ、職人たちに罪を着せた」
杉原は、顔を伏せた。
「彼らには、黒田さんを恨む理由がありました。火事もあった。三人が争いに来たことにすれば、帳簿のことも、殺人のことも、彼らの仕業だと思われると……」
「それで、三足の草履を並べたのか」
「はい」
杉原の声は、ほとんど聞こえないほど小さかった。
泰六は、しばらく彼を見ていた。
「君は、数字を扱う仕事をしていた。数字が、どれほど多くの人の暮らしに関わっているか、知っていたはずだ」
杉原は、答えなかった。
「一足の差は小さく見えるかもしれない。だが、その一足の差が、職人にとっては一日の食事を左右することもある。君は、それを知りながら、数字を変えたのだね」
「……はい」
「そして最後には、その数字の嘘を隠すために、人間まで別の形に見せようとした」
泰六は、三足の草履を見た。
「だが、証拠を並べ替えても、起きたことそのものは変わらない」
杉原は、何も言わなかった。
柴崎巡査が、静かに彼の腕を取った。
事件は、ようやく終わりを迎えようとしていた。
第八章 畳まれなかった草履
数日後、私は泰六とともに、再び駿河台を訪れた。
大黒屋では、帳簿の調査が続いていた。職人たちへの支払いも、改めて確認されることになったという。
しかし、焼けた長屋が元に戻ったわけではない。失った道具や住まいは、誰かが推理をしたからといって、すぐに戻ってくるものではなかった。
源吉は、焼け残った道具を整理していた。
「源吉さん」
私が声を掛けると、彼は振り向いた。
「事件は、解決したそうですね」
「はい。杉原が犯人だったと聞きました」
「君たちが疑われたことは、残念だった」
私はそう言った。
源吉は、少しだけ笑った。
「疑われるのは、慣れていますから」
その言葉に、私は返す言葉を失った。
慣れている。
人から疑われることに。自分の言葉を信じてもらえないことに。仕事を失うかもしれないと怯えながら、それでも黙って働き続けることに。
それが、彼らの日常だったのだ。
「でも、今回は違いました」
源吉が言った。
「私たちの話を、最後まで聞いてくれる人がいましたから」
私は、泰六を見た。
泰六は、いつものように表情を変えなかった。
「話を聞いただけでは、何も解決しないよ」
泰六は言った。
「証言は確かめなければならないし、証拠も調べなければならない。だが、話を聞かなければ、何を確かめるべきかさえわからないことがある」
源吉は、深く頭を下げた。
大黒屋を離れるとき、私は泰六に尋ねた。
「泰六さん。三足の草履は、最後まで畳まれずに残っていましたね」
「そうだったね」
「どうしてでしょう」
泰六は、しばらく考えた。
「犯人にとっては、職人たちを疑わせるための道具だった。だが、草履そのものには、罪はない」
「草履に、罪はない……」
「誰かが、それをどう使ったかという問題だよ。道具は、置かれた場所や使われ方によって、意味を与えられる。けれど、その意味が本当のことを示しているとは限らない」
私は、蔵の中に並んでいた三足を思い出した。
あの草履は、三人の職人が歩いた証拠ではなかった。
誰かが、三人の職人に罪を着せようとした証拠だった。
その違いは、わずかなようでいて、決して小さくはなかった。
泰六は、坂の向こうに目を向けた。
朝靄は、もう消えていた。
駿河台の空は、秋らしく澄んでいた。
私は、ふと思った。
犯人を見つけることと、その人間を理解することは、同じではない。
証言が食い違うことと、誰かが嘘をついていることも、同じではない。
そして、正しい推理にたどり着くことと、すべてを正しく知ったと思い込むことも、同じではない。
だから泰六は、論理を手放さない。
だから私は、人間を見ることをやめない。
三足の草履は、もう誰の罪も証明してはいなかった。
ただ、誰かが人を罪人に仕立てようとした、その痕跡として残っていた。
駿河台の秋風が、静かに吹き抜けた。




