第五十八話「最後のプロポーズ」
重い扉が閉まる音が、
静寂の中に溶けて消えていく。
残されたのは、降り注ぐ朝の光と――二人。
リリエルの胸が、痛いほどに高鳴る。
もう、逃げ場はない。
ごまかしも、偽りの契約も、すべてが消え去った。
アレクシスは、しばらくの間、静かに沈黙を守っていた。
やがて、彼はゆっくりと、彼女の前へ歩み出る。
その一歩一歩に威圧感はなく、
ただ、揺るぎない決意だけが宿っていた。
「……リリエル」
低く、穏やかな声。
そして。
彼はその場で、片膝をついた。
石畳に落ちる衣擦れの音が、やけに鮮明に響く。
リリエルは、思わず呼吸を止めた。
辺境伯が。
誇り高き、あの鉄の男が。
誰に命じられたわけでもなく、自らの意志で、一人の女性に首を垂れている。
「契約は、破棄する」
アレクシスは顔を上げた。
その瞳に、一点の曇りもない。
「一年の期限も、お前の父君との承諾も関係ない。俺が欲しいのは、そんな名前だけの『契約の花嫁』ではないんだ」
差し込む朝日が、彼の髪を黄金色に縁取る。
「俺が欲しいのは……お前だ」
静かな、しかしすべてを賭した告白。
「誰かの代わりの後妻としてではない。
責任や義務を果たすためでもない。
俺がこれからの人生を共に歩みたいと願う、
ただ唯一の女性として」
彼はそっと、大きな手を差し出した。
かつて戦場で剣を握り、
多くの命を背負ってきたその手は、
今、微塵も震えていない。
「リリエル」
愛しさを噛み締めるように、名を呼ぶ。
「俺と――結婚してくれ」
その言葉が、凍てついた広間の空気を震わせる。
それは命令ではない。
魂の底からの、切実な願いだった。
初めて、完全に対等な立場での求婚。
広間は、すべてを浄化するような光に満ちている。
リリエルの頬を、涙が静かに伝い落ちる。
だが、その雫はもう、
悲しみや迷いによるものではなかった。
彼女の番だ。
その手を取るか、それとも――。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
最初は互いに「契約」という盾で心を守っていた二人が、
呪いという極限状態の中で、ようやく「自分の意志」で向き合うまでを描きました。
特に最後にアレクシスが膝をつくシーンは、
彼が公爵としてのプライドではなく、一人の男としての誠実さを選んだ瞬間として、大切に書きました。
皆さんの心に、彼らの朝の光が届けば幸いです。




