第四十四話「青香花の約束」
石造りの小さな屋敷。
アレクシス、マキシム、セレスティーヌ、ビリー
困ったことがあると、必ず足を運んだ場所。
マキシムの叔父にあたるギリアンの別邸。
そこへ辿り着くまでの道を、アレクシスはほとんど覚えていなかった。
ただ胸の奥に燻る確信だけが、彼をここへ急がせた。
扉を開けると、乾いた薬草の匂いが漂う。
寝台に横たわるビリーは、ほとんど骨と皮だけになっていた。
それでも――
アレクシスを見ると、かすかに笑った。
ギリアンは悲痛な表情を隠そうともせず、アレクシスの肩を叩き、部屋を後にする。
「……必ず来てくれると思ってたよ」
「お前は、分かっていたんだな」
声は低く、震えてはいない。
だがそれは怒りではなかった。
確認だ。
ビリーは目を細める。
「何のことだ?」
「ルーカスのことだ。……いや、違う。知りたいのは、セレスティーヌの真意だ」
「セレスの真意……か」
その名を聞いた瞬間、ビリーの胸が軋んだ。
事故の日の光景が脳裏をかすめる。
崩れ落ちる馬車。
血の匂い。
冷えていく指先。
ビリーはゆっくりと息を吸った。
「青香花のこと……思い出せたんだな」
青く、ほのかに甘い香りを放つ花。
アレクシスは眉を寄せる。
「……ああ」
「賭けは、お前の勝ちだな」
かすかに笑う。
「覚えているか?
それは、お前がセレスに初めて贈った花なんだよ」
――初めて。
その言葉が胸の奥に落ちる。
だが思い出せない。
贈ったことすら曖昧だった。
ビリーは静かに続ける。
「お前は結婚するまで、セレスに一度も花を贈らなかった。
結婚してからも、ただの一度だけだ。
風邪をこじらせたときに、あの花を贈った」
アレクシスは息を詰める。
「……俺は、忘れていた」
「お前にとっては小さなことだったかもしれない。
でもな、セレスにとっては違った」
責める声ではない。
ただ事実を置くような声音。
胸の奥で、何かが崩れる。
「俺は耳にたこができるくらい、何度も聞かされたからな……」
ビリーは虚ろな瞳のまま、語り始める。
「事故が起きたとき、俺はすぐに引き返した。
セレスは、まだかろうじて意識があった」
声はかすれている。
「俺は謝った。こんなことになるなら、最初から身を引けばよかったと」
セレスは笑って、うなずいた。
「そして最後のわがままを聞いてくれと頼まれた。
それが、今回のことだ」
アレクシスの瞳が揺れる。
「ルーカスは……」
「愛されるよりも、愛することしか知らない。
まるで自分のようだと」
その言葉は、どこまでも優しかった。
「どうか……あの子を解いてあげて、と」
「解く?」
「リリエルへの想いを断ち切れるように。
忘れられるように」
アレクシスは目を見開く。
「……それで、呪いの花を?」
「ああ」
セレスティーヌは、自分の命が尽きることを理解していた。
だから。
ルーカスが永遠に報われぬ愛に縛られぬように。
呪いの花を送らせた。
「セレスは言ってたよ。
“ルーカスはきっと、間違えるから”ってな」
静寂が落ちる。
アレクシスの拳が、わずかに震えた。
「……では、俺は」
低く問う。
「俺にも花を送ったのは、なぜだ」
ビリーの瞳がやわらぐ。
「セレスは、お前にも本当の愛を知ってほしかったんだと思う」
「……」
「それでも最後まで、自分のことを思い出してほしいと願ったんだろうな。
青香花だと気づけるかどうかは、半分以上賭けだった」
かすかな笑み。
「答えを探す、その短い時間でさえ。
真剣に自分のことを考えてほしかったんだ。
……あいつらしいだろ」
その瞬間、すべてが繋がる。
忘却ではない。
試すための花。
問いかけの花。
愛を知るための花。
「……身勝手だな」
口元がわずかに歪む。
だがその声は、どこか優しかった。
ビリーは微笑む。
「セレスは、お前には不器用だったからな。
最初から間違えてたんだ。
俺にしておけば、誰も不幸にならなかったんだ。」
外で風が鳴る。
窓辺の青香花が揺れた。
「約束は、果たしたぞ」
ビリーの視線が遠くなる。
「これで……セレスの願いは……」
言葉が途切れる。
ゆっくりと、息が抜けた。
静寂。
アレクシスは、しばらく動かなかった。
やがて立ち上がり、窓辺へ向かう。
青香花。
ほのかな香りが漂った気がした。
遠い日の自分。
笑って花を受け取ったセレスティーヌ。
思い出せなかったはずの光景が、鮮やかに蘇る。
「……セレス」
それだけを呟いた。
涙は落ちない。
ただ――
彼は初めて理解した。
これは呪いではない。
セレスティーヌからの、
最後の贈り物なのだと。
この回を書くのは、少し苦しかったです。
セレスティーヌは、完璧な人ではありません。
むしろ間違え続けた人です。
でも、だからこそ愛おしい。
青香花は呪いではなく、
最後まで消えなかった想いの証でした。
次から、また違った角度から展開していきます。




