第四十二話「空白の記憶」
アレクシスは館を駆け出してから丸一日、
馬に乗り続けた。
睡眠を取ったのがいつだったのか思い出せない。
不眠不休で酷使し続けた身体に、
残る力をすべて注ぎ込む。
「さすがに……遠いな」
掠れた声が朝靄に溶ける。
やがて、王都近くのルーカスの館が視界に入った頃には、空は白み始めていた。
塀を越え、舗道を踏みしめる足音が朝の静寂を切り裂く。
目的地は――ルーカスのもと。
理由は自分でも分からない。
だが、急がなければならない。
それだけは、はっきりしていた。
「ルーカス! いるんだろ? アレクシスだ! 大丈夫か!」
側近が駆け寄る。
「アレクシス様!!
ルーカス様は昨日から混乱されておりまして……
誰も近付く事が許されておりません。
とてもお会いできる状態では……ないのかと。」
頭が真っ白になる。
姉の好きな花を間違えたのか?
そんなはずはない。
「行かせてくれ! ルーカスの元に!」
二人の関係を知る側近たちは、
短い沈黙の末、無言で道を開けた。
館の一室。
ルーカスは椅子に座ったまま、
何もない空間を見つめ涙を流し続けていた。
胸にぽっかりと空いた空洞。
何が悲しいのかも分からない。
ただ、自分の中にある“何かが欠けている”ことだけが、
はっきりと分かる。
「ルーカス――」
廊下から声が響く。
「邪魔をするぞ!」
振り返ると、そこにアレクシスが立っていた。
息を切らしながらも、瞳には決意と焦燥が宿る。
ルーカスは泣き腫らした目をこすり、
不思議そうに首を傾げた。
「……お義兄さん、こんな朝からどうされたのですか?」
「ルーカス!お前は覚えていないのか?
どこから覚えていて、どこから忘れてしまったんだ?」
「何のことです?何を言ってるのですか?」
アレクシスは一瞬、言葉を失う。
「……ルーカス。君の姉が好きな花の名前は?」
「何を、突然。
……白愛花ですが。
母が愛した花を、姉さんも同じように好きだと言っていました。
それが、どうしたんですか? 突然来たと思ったら花の名前なんて……」
アレクシスは静かに息を吸う。
「……リリエルのことを覚えているか?」
その名が、空気を震わせる。
ルーカスの胸が、ほんの一瞬だけ強く脈打った。
だが、それはすぐに霧のように消える。
「リリエルとは、確かお義兄さんが預かっているご令嬢のことですよね?
名前は聞いたことがありますが……まだ紹介された記憶はありません」
静寂が落ちる。
アレクシスの動揺をよそに、ルーカスはどこか穏やかに微笑んだ。
「お義兄さん。姉のことで後妻を娶らないと聞いておりますが……どうぞ自由になってください。
僕にとっては、いつまでもお義兄さんであることに変わりはありません。過去に囚われず、
どうか幸せになってください。僕や姉さんのぶんも」
「ルーカス……」
なぜだろう。
お義兄はんが羨ましくて仕方がない。
理由は分からない。
分からないのに、胸が痛い。
涙がまた、静かに零れ落ちる。
「必ず……幸せにしてあげてくださいね」
会ったこともないはずの彼女の幸せを、
なぜこんなにも願ってしまうのか。
アレクシスは拳を握りしめる。
「ルーカス、安心しろ。
彼女は――必ず俺が幸せにする!」
その言葉は、誓いだった。
そして同時に、
二人の道が決定的に分かれた瞬間でもあった。
何とも切ない愛の形ですが、
ルーカスの分もアレクシスには幸せになって貰いたいですね。
この後も、新たな展開が続いていきますので。
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