第三十九話「最後に咲く花」
屋敷に戻ったとき、空はすでに白んでいた。
長い廊下を、ルーカスは一人で歩く。
部下を下がらせ、最後の審判に望む。
奥の温室。
水を与えなくても、切り刻んでも、燃やしても――
次の日には同じように咲き乱れる黒い呪いの花。
今まで気味が悪いと思っていた。
だが、リリエルへの思いだと聞かされると、悪い気はしなくなる。
不思議な感覚だった。
扉を開けた瞬間、冷たく甘くない空気が頬を撫でる。
中央に――黒い花。
闇を吸い込んだような花弁。
鼓動のように、ゆっくり脈打っている。
ルーカスは立ち尽くす。
「……姉さん」
懐から、小瓶を取り出す。
(派手な香りは嫌いだった)
覚えている。
(甘い匂いも苦手だと言っていた)
覚えている。
“好きだった花”は、僕たちの母が愛した白愛花。
母が大切にしていた栞の花。
姉だけが、母から聞いたことを教えてくれた。
母は父ではない、かつて愛した大切な人から貰った花を捨てられず、栞にして大切にしていた。
白愛花の花言葉は――「君を一生忘れない」。
父より前に婚約していた男性からの贈り物を、母はどんな宝石よりも大切にしていた。
そして、それがリリエルの父からの贈り物だと知るのは、数十年後のこと。
父と母は愛しあっていたように見えた。
だが、母の心には、リリエルの父がいたことも事実だ。
だからこそ、ジークはリリエルとの婚約をすぐに受け入れ、
婚約破棄の理由を告げず、必ず迎えに来る約束も受け入れたのだと思う。
きっと、リリエルの父ジークも母を忘れられずに生きているのだろう。
今なら分かる。
知った当初は、姉とは違って父のことを心から愛していなかったのかと、ショックの方が大きかったことも覚えている。
今となっては、母の、ジークの気持ちも痛いほどよく分かる。
額に汗が滲む。
彼は一本の小瓶を手に取る。
透明な液体。
清らかな香り。
花へ近づく。
黒い花弁が、わずかに震える。
「姉さん、もう終わらせる」
香水を振る。
霧が花を包む。
一瞬の静寂。
次の瞬間、花はひび割れ、音もなく崩れていく。
闇が、霧散する。
光が差し込む。
成功――
そう思った。
リリエル。
これで、やっと君を迎えに行ける。
やっと、君に触れることが許されるんだ。
だが。
胸の奥が、ひどく冷える。
何かが、抜け落ちる感覚。
ぽっかりと空洞が空いた。
ルーカスは瞬きをする。
「……?」
足元に崩れた黒い花の残骸。
温室。
朝日。
すべては分かる。
だが――
なぜ、自分はここにいる?
視線が泳ぐ。
胸が痛い。
理由もなく、涙がこぼれる。
ぽたり、と石床に落ちる。
「……なんだ」
喉が震える。
「大切な何かを失ったみたいだ……」
ぼんやり、誰かの顔が霞んで見えた気がした。
名前が、出てこない。
必死に掴もうとする。
指の間から、砂のように零れる。
心臓だけが、締めつけられるように痛い。
「……っ」
膝が崩れる。
分からない。
思い出せない。
だが。
喪失感だけは、はっきりと残る。
胸を押さえ、嗚咽が漏れる。
「……なんで、泣いてるんだ」
自分に問いかける。
答えはない。
ただ。
取り返しのつかない何かを、失った気がする。
温室に、静かな朝の光が満ちる。
呪いは消えた。
代わりに――
愛だけが、消えた。
遠く、廃教会で。
縄に縛られたビリーが、ふと顔を上げる。
胸騒ぎのように、かすれた声で。
「……ああ」
小さく目を閉じる。
「やっぱり、お前は優しいな」
セレスの願いは、叶ったのだろう。
ルーカスはリリエルを忘れた。
セレスは何もかも分かっていた。
愛されない苦しみをルーカスには味わせないために、
リリエルを忘れられるように。
忘れて――ルーカスだけを見つめて愛してくれる誰かとの幸せを願って。
セレス。
今のお前が好きな花は――
初めてアレクシスがお前に送った花、
青香花。
ルーカス好きの作者としてはもやもやする会になりましたが、
リリエルを巡るのはアレクシスとマキシムの2人に絞られましたね。
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