第二十一話「隠された花に、誓いを」
その夜。
寝台に横になっても、眠りは訪れなかった。
瞼を閉じるたび、布袋の中で転がる種の感触と、
『まだ会えない。でも、待っていて欲しい』
――たった一行の文字が、鮮明に蘇る。
どういう意味なのだろう。
私と彼は、婚約破棄したはずなのに。
リリエルは胸の前で手を組み、静かに息を吸った。
私たちの関係は、いつから変わってしまったのだろう。
思い出は、意図せず、ずるずると過去へ引き戻されていく。
社交の場から、完全に遠ざかってから――
どれほどの時が経ったのか、リリエル自身にも分からなくなっていた。
今では、社交に出ていたことが夢のようで、
記憶は曖昧になり、思い出そうとしても輪郭を結ばない。
外出は控えられ、来客も選ばれ、
彼女の世界は、部屋と庭と、机の上に届く手紙だけになった。
最初は、たくさん届いていた手紙も、
私に飽きたのか、ある日を境に、ぴたりと止まってしまった。
――ある一人を除いては。
机に向かい、封を切る瞬間だけは、
心臓が、きちんと鼓動を思い出す。
――ルーカス様からだ。
角ばった文字。
文末だけ、ほんの少し震えるように跳ねる払い。
内容も、いつも不器用な優しさに満ちていて、
擦り切れたリリエルの心を、幾度となく癒してくれた。
『今日は、王都で少しだけ雪が降った』
『君にお勧めの本がある』
誰からも見向きもされない日々に、
ルーカスの言葉は、胸の奥をじんわりと温めてくれていた。
(……私を、忘れないで)
姿を見せなくなっても。
噂話が途切れても。
社交界から“消えた”存在になっても。
彼からの手紙だけは、途切れることがなかった。
だから――
来訪の知らせを聞いたとき、
リリエルは、喜びよりも先に、恐怖を覚えた。
「……ルーカス様が?」
思わず、声が裏返る。
会ってしまえば、隠してきたものが、すべて露わになる。
変わってしまった容姿も、
誰からも大切にされていない自分自身も。
それが、怖かった。
それでも、断る理由はなかった。
――文通だけの存在で、いたくなかった。
一目でいいから、どんな男性になったのか、見てみたかった。
⸻
対面の日。
控えめな応接室。
カーテン越しの光は柔らかく、
意図的に、彼女の顔を強く照らさない配置。
リリエルは、いつもより深く前髪を下ろし、
肌を覆うような装いを、母に選ばされていた。
扉が開き、足音が近づく。
「……お久しぶりです、リリエル」
変わらない声。
その一言で、胸がいっぱいになる。
「ご無沙汰しております……ルーカス様」
顔を上げるのが、怖い。
けれど、礼を失するわけにもいかず、
意を決して視線を上げた。
一瞬。
彼の瞳が、わずかに揺れた。
――驚き。
それはすぐに消えたが、
リリエルには、分かってしまう。
(……やっぱり)
変わってしまった。
そう、思われたのだ。
だが、次に向けられた視線は、
拒絶ではなかった。
むしろ、静かな安堵。
⸻
そのとき、ルーカスは内心で息をついていた。
――隠されている。
彼女の美しさは失われたのではなく、
意図的に、覆われているだけだと。
それに気づいた瞬間、
胸の奥に、罪にも似た感情が広がる。
(……これで、いい)
もし、あの夜会の日のまま、
光の中に立つ彼女が、ここにいたなら。
自分は、選ばれなかった。
誰よりも早く、誰よりも強く、
奪いに来る者がいただろう。
この美しさは、
隠されているからこそ価値がある。
知られていないからこそ、奪われない。
――ならば、このままでいい。
誰にも見せず、
誰にも触れさせず、
自分だけが知っていればいい。
彼女は、僕だけのものだ。
――そう思ってしまった。
⸻
「本日は……」
ルーカスは姿勢を正し、
持参した書類を差し出した。
「正式に、婚約の申し入れに参りました」
その言葉に、リリエルの息が止まる。
「……私と、ですか……?」
信じられない。
今の自分を見て、なお?
「はい」
即答だった。
「小さな頃から、ずっとあなただけを思っていました。
私では、あなたの相手に相応しくありませんか?」
胸が、熱くなる。
「ルーカス様のような素敵な方に、
婚約者として選んでいただけるなんて……
夢にも思っていませんでした……」
変わってしまった自分も。
隠すように生きる、こんな自分も。
それでも、愛し続けてくれた人がいた。
リリエルの目に、涙が滲む。
「……ありがとうございます」
震える声で、そう答えるしかなかった。
ルーカスは、その様子を見て、
胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。
彼女は、何も知らない。
自分が、
“ありのままの彼女”ではなく、
“今の彼女だからこそ”
選んでいることを。
けれど、その痛みすら、
彼は“守る覚悟”だと、信じていた。
リリエルは、俯いたまま、静かに思う。
――こんな私でも。
誰かに選ばれ、
誰かの隣にいていい存在になれるのだと。
その感動は、
疑いようもなく、本物だった。
続きも、同じ温度で書いていく予定です。
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