第十五話 「植える手」
布袋の中の種は、小さく、軽い。
指先で転がせば、簡単にどこかへ落ちて消えてしまいそうだった。
それなのに――
その一粒一粒が、リリエルの胸の奥を確かに重くした。
『まだ会えない。でも、待っていて欲しい』
一行だけの紙を、折り目に沿って畳む。
丁寧に畳めば畳むほど、言葉の角が指に刺さる。
リリエルは視線を落としたまま、呟いた。
「……私、本当に、捨てられたんじゃ……なかったの?」
声が震えたのは、
嬉しさよりも怖さのせいだった。
捨てられたのなら、諦められる。
けれど、守られたのなら――戻りたいと願ってしまう。
戻りたいと願った瞬間、また誰かを困らせてしまう。
リリエルは唇を噛んだ。
「この種……どういう意味なんでしょう」
自分に言い聞かせるための問いだった。
深読みなんてしない、と。
期待なんてしない、と。
だが、返ってきたアレクシスの声は、驚くほど低かった。
「……意味がないとは思えない」
その一言で、世界が静かにひび割れた。
アレクシスは小包の中身を見つめ、
少しだけ眉間を寄せた。
怒りではない。
「薬草の種に似てる……
呪いに関わる処方で、使われることがある」
リリエルの呼吸が止まる。
「……え?」
「……詳しくは言えない。
だが、無関係な種じゃない」
即座に切り捨てる。
それは優しさの刃だった。
知らなければ傷つかない、と信じている人の声。
けれど、リリエルはもう、知らないふりが出来なかった。
「ルーカス様は……私を傷つけたくないって」
言いかけて、声が詰まる。
“私を傷つけたくない”という言葉が、
“傷つける何かがある”と告白しているから。
リリエルは、恐る恐る続けた。
「……私のせいで、ルーカス様は苦しんでいたんでしょうか?」
アレクシスの喉がわずかに動いた。
言葉が出かけて、飲み込まれたのが分かった。
サンルームの花が、夜の冷気に微かに揺れる。
沈黙の中でリリエルの胸は、
じわじわと熱くなっていく。
怒りではない。
やりきれなさと、悔しさと、――優しさの残骸だ。
リリエルは布袋を握りしめ、俯いたまま言った。
「……私、植えたいです」
声は小さいのに、決意だけが硬かった。
「植えたら、芽が出ますよね」
芽が出たら、花が咲く。
花が咲いたら、また思い出してしまう。
あの人の笑顔を。惚気ばかりの夜を。
そして、婚約破棄の日の沈黙を。
それでも――植えたいと思った。
真実を知るために。
“会えない”のなら、せめて“ここにある”ものを育てたい。
届いた願いを、踏みにじりたくない。
リリエルは顔を上げ、アレクシスを見た。
「だめ、ですか」
アレクシスの瞳が、ほんの僅かに揺れた。
拒絶ではない。
許すことへの恐れだ。
――許した瞬間、彼女の心はルーカスへ向かう。
そう分かっていてなお、止められない。
止めたら、“縛る”ことになる。
アレクシスはゆっくりと、息を吐いた。
「……好きにしろ」
それは放任ではなかった。
彼に出来る最大限の誠実だった。
“奪わない”という誓いを守るための、痛みを飲む声。
リリエルの胸が、きゅっと締まる。
嬉しいのに、悲しい。
許されたのに、拒まれたみたいで。
リリエルは小さく頷いて、植木鉢を選んだ。
土に指を差し入れると、少し冷たい。
湿り気の中に、温かい匂いがある。
その匂いが、なぜだか涙腺を刺激した。
(ここに居たい)
心の中でだけ呟く。
声にしたら、今の全部が壊れる気がして。
穴を作り、種を一粒落とす。
土をかぶせようとした、その瞬間。
アレクシスの手が、ふいに伸びてきて、
リリエルの指先のすぐ隣の土を、そっと押さえた。
触れていない。
触れていないのに、熱が伝わってくるようだった。
二人の手が並んだまま、止まる。
アレクシスが、低く言った。
「……後悔するぞ」
誰に向けた言葉か分からない。
リリエルに?
それとも、彼自身に?
リリエルは唇を開き、言葉を探す。
「後悔しません」と言えば、嘘になる。
「後悔します」と言えば、植えられなくなる。
だから、違う言葉を選んだ。
「……芽が出たら」
視界が滲む。
泣くつもりなんてないのに、勝手に滲む。
「見て、ください」
それはお願いだった。
約束ではない。
縛りでもない。
ただ、一瞬だけ“共有”したいという、卑怯な祈り。
アレクシスは答えない。
答えられない。
代わりに土を押さえる手に、
ほんの少し力を入れた。
それだけで、リリエルは分かってしまう。
(見てくれる)
――一年後まで。
あるいは、一年後を越えてしまうくらい。
リリエルは急いで土をならし、顔を伏せた。
涙が落ちないように、呼吸を整える。
そのとき、アレクシスがぽつりと零した。
「……俺は」
その先が、言葉にならない。
言えないのだ。
「ここに居ろ」と。
言えば縛る。
言えば誓いが壊れる。
言えば過去が、また誰かを殺す気がする。
リリエルは息を吸って、笑おうとした。
相変わらず、うまく笑えない。
「……お茶、冷めちゃいますね」
話題を逸らす。
逸らさないと、二人とも壊れてしまう。
アレクシスは一瞬だけ目を伏せ、
カップを手に取って一口飲んだ。
「……甘い」
また、それを言う。
砂糖は入っていない。
なのに甘いと言うのは、
きっと、そう言うしかないからだ。
リリエルは頷いて、同じように一口飲んだ。
本当に、少しだけ甘かった。
花の香りと、土の匂いと、
言えなかった言葉が、喉の奥で溶けていく。
その夜、リリエルは寝室へ戻ったあとも、
掌の中の小さな土の感触が消えなかった。
そして――消えなかったのは、
土の冷たさではなく、
触れていないはずの、あの手の熱だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
種を植える、という小さな行為に、
「過去を否定しないこと」
「それでも今を生きること」
そんな意味を込めて書きました。
この夜は、何かが解決したわけでも、
答えが出たわけでもありません。
ただ、戻れない一歩を、静かに踏み出しただけです。
もし少しでも
「この先を見届けたい」
「この二人の行く先が気になる」
と思っていただけたら、
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とても励みになります。




