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『婚約破棄の手紙から始まる、辺境伯との再婚生活』  作者: はる乃


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第十四話「夜のサンルーム」

サンルームの夜は、昼とは別の顔をしていた。

ガラス越しの月明かりが花弁の縁に薄い銀を落とし、

湿った土の匂いが、静かに満ちている。


リリエルは小さなケトルを傾け、カップに湯を注いだ。


乾いたカモミールが湯にほどけていくのを眺めていると、

胸の奥のざらつきまで、少しずつ柔らいでいく気がした。


(一年後には、送り出す)


昼間の言葉が、まだ喉に残っている。


飲み込んだはずなのに、

ふいに浮かび上がり心臓の裏側をこすった。


カップを二つ。

一つは自分のため。

もう一つは……


誰かに差し出す想定のまま、手が動く。

けれど、その“誰か”の輪郭を思い浮かべた途端、

怖くなった。


扉が、わずかに鳴った。


風かと思って振り返り、息が止まる。


そこに立っていたのは、アレクシスだった。

夜更けの執務装束のまま。


肩に外気の冷たさを連れているのに、

その視線だけが、なぜか熱を帯びて見えた。


「……起きていたのか」


低い声。


「はい……。お茶を、淹れていました」


そう言いながら、リリエルは自分の手元を見る。

二つのカップ。

言い訳の余地はない。


アレクシスの視線が、そこに落ちた。


「……カモミールか」


「はい。夜に飲むと、よく眠れるって」


そう告げた瞬間、彼がほんのわずかに目を伏せた。

昼間の「覚えておこう」が、胸の奥で静かに響き直す。


沈黙が落ちる。

サンルームの花は夜でも息をしているのに、

言葉だけが、息を止めていた。


リリエルは、先に動いた。

もう一つのカップを、そっと差し出す。


「よかったら……」


彼の指が伸び、カップを受け取る。

触れてはいない。

触れていないのに、ひどく近い。


アレクシスは椅子に腰を下ろさず、

立ったまま、カップの湯気を見つめた。

そして、ためらうように一口。


「……甘いな」


「お砂糖は入れてません」


「甘い」


それ以上は言わなかった。

代わりに、

カップの縁を指先でなぞり静かに言う。


「……昼のことは、気にするな」


気にするな、なんて。

その言葉は、気にしている人しか言わない。


「……一年後、ですよね」


口にした瞬間、

自分で自分の心臓を握りつぶしたように、

胸がきしんだ。


アレクシスの瞳が、ぴたりと動きを止める。

責める色はない。

ただ、逃げ道のない深さだけがある。


「……そうだ」


淡々とした返事のはずなのに、

声が、ほんの少し低く沈んだ。


「約束だ。お前は――ここに縛られるべきではない」


縛られるべきではない。

その言葉を聞いた瞬間、妙な考えがよぎる。


(縛っているのは、誰?)


私を?

それとも――あなた自身を?


問い返したいのに、

言葉にすれば壊れてしまいそうで、舌が動かない。


代わりに、リリエルは笑おうとした。

うまく、笑えなかった。


そのとき、アレクシスがふっと息を吐いた。


「……お前は」


一拍。


「ここに、居たいのか?」


聞いてはいけない問いだった。

聞けば、答えが必要になる。

答えれば、何かに名前がついてしまう。


リリエルは唇を開き――閉じた。


居たい。

その一言が、喉まで来ている。


――あまりにも、早すぎる。


ここに来て、まだどれほどの時間が経ったというのか。

一年の契約。

仮の居場所。

そう言い聞かせてきたはずなのに。


たった数ヶ月の静けさと、

側で見守ってくれる心地良さに。



(……私は、こんなにも簡単だった?)


驚きと、少しの恐怖。

自分の心が、思っていた以上に柔らかかったことが、

怖い。


だから――言えない。


でも「居たい」と言ってしまえば、

あなたはきっと――責任を取ろうとする。

「守る覚悟」という名のもとに、また自分を罰する。


そして私は、

その檻の中で安心してしまう。


それが、怖い。


「……分かりません」


絞り出した声は情けないほど小さかった。

でも、嘘ではなかった。


アレクシスは、何も言わない。

ただ、カップを持つ指に、ほんの少し力が入る。


「……そうか」


それだけ。


次の沈黙は、先ほどよりも柔らかい。

柔らかいのに、鋭い。

触れないことで互いを守っているのに、

触れられないことが、痛い。


重い沈黙のあと、

二人は同時に口を開いた。


その時、廊下の向こうで足音がし、

セバスチャンの控えめな声がした。


何を言おうとしたのか――

それは、互いに最後まで分からないままだった。



「アレクシス様。失礼いたします」


アレクシスが、わずかに顔を上げる。


「どうした!こんな夜に」


「王都から……小包が一つ。

差出人不明のリリエル様宛に……」


小包。

不明。


その二語だけで、空気が変わった。


アレクシスの目が、ほんの一瞬、硬くなる。


セバスチャンが、布に包まれた小さな箱を差し出す。


封蝋はない。


だが丁寧に結ばれた紐が、妙にきっちりしていた。


リリエルが受け取ろうと手を伸ばした、その瞬間。


「待て」


落ちた声は、鋭かった。

思わず肩が跳ねる。


アレクシスは箱を受け取り、

まず匂いを確かめるように近づける。


そして、躊躇なく紐を切った。


中にあったのは――小さな布袋。


口を開くと、

乾いた種がさらりと音を立てる。


混じっているのは見慣れた形。


サンルームで扱っているものと、よく似ていた。


(どうして種が?)


そして薄い紙切れが一枚。


リリエルは、反射的にそれを取った。


たった一行だけ。

けれど――


文字を見た瞬間、胸の奥がひくりと引き攣れた。


(……この、癖)


角ばった線。

文末だけ、ほんの少し震えるように跳ねる払い。


子どもの頃から何度も受け取ってきた、

見慣れすぎた文字。


『まだ会えない。でも、待っていて欲しい』


息が、止まる。


差出人の名はない。

それなのに、そこに“誰か”が立っているのが、

はっきり分かった。


(……ルーカス)


声に出さないまま、

その名だけが、胸の奥に落ちた。


リリエルは、強く首を振る。


――違う。

――そんなはずがない。


彼とは、終わった。

婚約も、約束も、すべて。


それなのに、どうして。


遅れて、アレクシスが低く言った。


「……ルーカスか」


推測ではなかった。

文字を見ただけで、同じ答えに辿り着いた声。


その事実に、胸の奥が冷える。


――なぜ、この人が。

――なぜ、同じ名に辿り着けるの。


だが、その違和感を考えるより先に、

思考は別の方向へと引き戻された。


何が、どうなっているの?


一拍の沈黙のあと、

アレクシスが低く口を開く。


「君たちの婚約が破棄された理由を、

 俺は詳しく聞いていない」


責める響きはなかった。

事実を、事実として確かめようとする声。


「……これは、どういうことだ」


問いは喉の手前で詰まり、

リリエルは、種の入った布袋を見つめた。


答えられなかった。


喉がひりつき、言葉が形にならない。


(……私は、捨てられたのではなかったの?)

(それなら、この手紙は……何?)


待っていて欲しい。

その言葉が、何度も胸の内で反響する。


破棄された婚約。

交わされなかった説明。

置き去りにされた自分。


それらすべてと、この一行が、どうしても結びつかない。


「……分かりません」


ようやく絞り出した声は、あまりにも小さかった。


「待っていてくれと言われる理由も……

 今さら、そんなことを言われる覚えも……」


視線が落ちる。

紙を持つ指先が、微かに震えていた。


アレクシスは、それ以上問わなかった。


代わりに手紙を一度だけ見下ろし、

静かに言う。


「――混乱して当然だ」


断じるような声だった。


「これは、俺が調べる」


それだけ告げ、彼は視線を上げる。


「君は、今は考えなくていい」


――判断を、彼が預かるという宣言だった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


静かな夜のサンルームで、

「居たい」と「縛りたくない」がすれ違う時間を書きました。


触れない優しさと、

触れられない痛み。

どちらも、二人なりの誠実さだと思っています。


そして届いた、過去からの一行。

この夜が、物語の転換点になる予定です。


次話では、

“過去”と“今”が、少しずつ動き始めます。

もし少しでも

「続きが気になる」

「この二人を見守りたい」

と思っていただけたら、

ブックマークで応援してもらえると嬉しいです。


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