24 夫婦
午後、出航してから二時間が経過している。船室に戻ると、そっとケネスの寝顔を覗き込んだ。
(帰りは、船で王都まで戻るのね……)
砂漠の国とフランツ王国を行き来する定期船に乗っているのだ。ちょうど、バルモアで貴賓室の客人が降りたので、この部屋に入れて良かったとホッとしていた。
何しろ帆船の船室なので、ちょっと狭いけれど、二人用の寝台が備え付けられている。
(もう熱は下がったかな……)
起こさないようにそっと近寄っていく。そして、そっと手を当てて自分の額の温度と比べてみる。
(うーん。まだ、ちょっと微熱が出ているかもしれないわよね……)
それでも何とか峠は越したようだ。ケネスの肩の傷も、しばらくすれば楽になるだろう。
アリーシャは、ベッドの脇で寄り添ってケネスの寝顔を見守っていく。大型の生粋の深い船で航海しているせいもあって揺れも少なく、すべてが穏やかだった。
波音が心地よくて何だか眠くなってくる。事件の後、結局、何だかんだと忙しくて、ゆっくりと横になることもなかった。看護のためにずっと起きたまま枕元に寄り添っていたのだ。
最近、ほとんど眠っていない。
だから、アリーシャは疲れ果てている。
「アリーシャ。アリーシャ……」
ふと気がつくと名前を呼ばれていた。
ケネスが、もどかしそうに手を伸ばしていた。床に座っているアリーシャの頭を撫でている。
「……そんなところで寝るなよ」
その顔つきは、これまで見た中で最も柔らかかった。
「あっ、ごめんね。あたし、なんだか疲れちゃって。看病しなきゃいけないのに眠っちゃったみたいね」
「いいよ。別に死にそうな病人って訳じゃないしな。ちょっと傷が痛むだけだよ」
そう言って、上半身を起こすとベッドの左半分を空けていく。
「さぁ、ここで眠れよ。こっちは、おまえの領土だろう?」
「……うん。でも、いいよ」
「何で?」
「あたし、うっかり寝ぼけて怪我しているケネスの肩に頭をぶつけたりしたら困るもん」
「……お、おまえ! そんなこと心配しているのか? 大丈夫だよ」
ケネスは可笑しそうに笑った。
「おまえってヘンな奴だよな。妙なところで気を遣うんだなぁ。ずっと前に一緒に眠った時、確か、俺の背中を足蹴りにしていたぜ」
「あっ、あの時と今は違うのよ! あたしは新しい自分になったの」
アリーシャは、ちょっと言葉に詰まっていた。うまく言えないけれど、心の中で何かが変わってきているのだ。それを言葉にすることはとても照れくさい。
それに、何だか頭の中が混乱してしまって、どう言えばいいのかが分からない。
いきなり、王妃のせいで結婚しなくちゃいけないようになってしまったアリーシャ。
あの時は、ケネスのことを胡散臭い奴だと思っていた。
でも、暮らしていくうちに惹かれていった。
本当は、黒衣の男に立ち向かうのは怖かった。
廃墟のような聖堂の中で悪党と格闘しながらも、ずっと、あの人はきっと助けに来てくれると思っていた。
そんな事を思い返しているうちに胸が熱くなってきた。
ケネスは、小さな子供をからかうような顔をしてアリーシャを見つめている。
「何がどう違うっていうんだ?」
「……あ、えっと」
泣きそうな顔になる。アリーシャは、か細く消え入りそうな声で呟いていた。
「言葉では上手く言えないわ。ねぇ、ケネス、あたし、このまま、あなたの傍にいてもいいのかな?」
「えっ?」
「なぁ、おまえ、なんでそんなことを言うんだよ?」
「だって、あたし、ガサツだし庶民丸出しだし、嘘から始まった結婚だから……。本当に、あたしでいいのかしらって思っちゃって……」
要するに、自分に自信がないということだ。
そんなアリーシャの心の内側を包み込むように、ケネスは静かに聞いている。
「なぁ、アリーシャ」
ケネスは、どこから話せばいいか迷っていた。
彼自身も、最初はアリーシャのことを義務として引き取った。契約結婚のつもりだったが、牢屋で会った瞬間、この娘は何かが違うという気がした。
(誰にも渡したくない)
この感情を詳細に説明するのは難しいので、彼は、柔らかな何かを噛み締めるように囁いていく。
「俺達は、もう本物の夫婦だろう?」
確かに、最初は偽りから始まったのだ。知らない一面もある。これから、ゆっくりと分かり合えればいい。
「俺は、おまえを愛しているよ……。この気持ちを知らないとは言わせないぜ」
彼は、印を押すかのように何度も柔らかな肌に口付けている。妻の頬に両手を添えて柔らかく微笑む。そんなふうに見つめられると恥ずかしさと嬉しさで胸が一杯になっている。
「夢みたい。物語のお姫様になったみたい」
「あっ、そうだ。アリーシャ、今夜なら何でも答えてやるぜ。さぁ、分からない語彙があるなら、何でも聞けよ」
それを聞いて跳ねるようにパーッと愛らしく笑った。豪華な装飾を施された革表紙の本。それを両手でを差しながら無邪気にねだる。
「そうだ。ケネス、この本を読んでちょうだいよ! 難解な文字が多くて、あたしひとりで読むのが大変なの!」
「またエロイ本をこの俺に読ませるつもりなのかよ。こういうのってさぁ、読むよりも実践する方がずっと気持ちいいんだぜ」
「ち、違うもん! これは砂漠の国の美しい話なのよ! エッチな本じゃないってば! あ、あたし、美しいお話を聞きたいだけなのよ!」
そう言って、ハラスからもらった本をそっと差し出すと、ケネスはそれを広げて隣で、懐かしそうに目を細めていた。山羊の革の表紙は型押しによって装飾されている。大切に読まれてきたものなのだろう。古いけれど、染みひとつない。
『慈悲深く慈愛あまねく神の御名において』
エキゾチックな挿絵入りの写本は、今から三十年前に翻訳されたものだ。オリエント地方では誰もが知っている恋の物語である。
美しい娘ライラと王子のムハンマドの二人が出会うシーンが鮮やかな挿絵で彩られていた。
水浴びをするライラーを覗き見するムハンマド。それが二人の出会いのシーンだ。
「へーえ、この話を読むのは久しぶりだな」
ケネスは、低い声でゆっくりと声に出して読み始めている。
「ある日、天から天使の羽が降ってきました。舞い上がる砂漠の風によって作られたお城の噴水に、愛の女神の吐息と共にヒラヒラと舞い降りたのです……」
朗読している端正な横顔に見惚れてしまう。
いつの間にか、アリーシャはフワリと浮遊するようにして物語の世界に羽ばたいていたのだった。
おわり




