22 黒衣の男
「なぁ、アリーシャ、顔色が悪いぜ。もしかして、おまえ、びびってんのかよ」
午後、ムスクス夫人の館を出ると船着場へと向かった。あとは王都に帰るだけとなっている。
移動中の漆塗りの箱型の馬車の中ではトルカとアリーシャの二人きりなので安心して話せる。
「本音を言うと怖いのよ。あんな事があったんだもん。森で、あたしを狙ったのは黒衣の男だったわ。あたしを殺すつもりで森に潜んでいたのよ」
「黒衣の男? 王都で王子を誘拐しようとした奴のことか? だけど、不思議だな。森の中でアリーシャを狙う暇があるなら、ムスクス夫人の屋敷の中でさっさと暗殺すればいいのにさ。あいつだって、仮面をつけていれば自由に出入りできたと思うぞ」
「黒衣の男が何を考えているのかなんて分からないわ。でも、あいつは王子が入れ替わったことには気付いていないみたいよ」
本物の天真爛漫な王子に関しては安心である。しかし、王子に扮したハラスは危険に晒されることになる。何とも悩ましい状況だ。
さすがに、王子と同じ馬車には乗せてもらえないので、ランドールと共に同行するという形で、ハラスの馬車の後ろについているのだが……。
アリーシャは素朴な疑問を口にしていた。
「そもそも、トルカはどうしてケネスに協力することにしたの? 報酬につられたの?」
「おまえが国外に行ってしまう事が嫌だったのさ。それに、おまえがケネス様と結婚したら、おまえの家族は安泰だ。俺も、いつまでも、つまんないことをやってられないしさ、社会に貢献したくて覚悟を決めたんだよ。誰かの財布を盗んでばかりじゃカッコ悪いもんなぁ。何か一つぐらいはいいことをしたかったのさ」
恥ずかしそうに過去を振り返りながら、タレ目の端っこを細めて笑い皺を浮かべている。
いつだって、トルカは自由気まま。飄々としているように見えて、内心、自分の生き方を恥じているらしい。
「へーえ。何だか、しばらく会わないうちに大人っぽくなったね。驚いたわ」
「なんだよ。俺は、こう見えて、おまえよりも二か月ほど年上なんだぜ。アリーシャ、おまえの方が劇的に変わっているぜ。本物の貴婦人みたいだぜ」
「それ、本気で思ってる?」
「綺麗になっている。色っぽいぜ。それもこれも、ぜーんぶ、ケネス様のおかげなんだよな」
「……うん」
「俺には分かる。ケネス様は、おまえの事を大切に想ってる。おまえは幸せな結婚をしたのさ」
アリーシャは嬉しい気持ちを抱きながらも照れ臭さを感じていた。
(そうだわ。今のあたしは下町の粗野な女の子じゃない。色々な事を学んだ。生まれ変わった。そして、恋する気持ちを知ったのよ)
運河で溺れそうになった時、ケネスに強く抱き締められた。あの人がいなければ、今頃、死んでいる。
色々なことがあり、彼こそが最愛の人になっている。いつも、一生懸命に生きている彼の役に立ちたい。
そんなことを思いながら馬車から外へと視線を移したのだが……。
おかしい。船着場までやたらと時間がかかっているような気がする。
「ねぇ、トルカ、なんだか景色が急に寂しくなったと思わない?」
何となく馬車が遠回りをしているような気がする。前方にオリーブ畑と葡萄畑が広がっている。そして、かつて火山だった山が左手にデンと力強く聳えているのだが、来た時とは景色が違う。
(この道で本当にいいのかしら……。でも、王子の警護の人が道を間違えたりしないわよね)
旧市街の道幅は狭いので王子の豪華な馬車が通れないのかもしれないのだが……。どんどん、民家が少なくなってきた。
他にも心配事があった。ハラスは王子として振る舞えているのだろうか。
王子のよく知る護衛官と、どのような話をしているのだろう。
(嫌な予感がするわ。このまま何も起こらなければいいのだけれど……)
古い石橋の上を通過しようとした時だった。唐突にハプニングが起きたのだ。
「きゃっ!」
いきなり、ガタンと馬車が上下に揺れた。つんのめるようにしてアリーシャの馬車が停止した。
「何なのよ!」
何事かと身構えて前方を確認すると、恐ろしい事にアリーシャの馬車の御者が手綱を握ったまま気絶していたのである。
前を行く馬車も同じように停止している。
しかも、ハラスを乗せた馬車の御者が御者台から滑り落ちている。
大変だ。
護衛の者達が王子の馬車の御者を抱き起こそうとしている。すると、その時、橋の下に潜んでいた数人の賊が突然現れたものだから、王子の警備隊長と部下は剣を構えている。何だか妙だ。闘い慣れているはずの護衛官が次々と斬られて落馬しているではないか。
その光景を目にしたアリーシャが叫ぶ。
「黒衣の男だわ! トルカ! どうしよう! あいつがハラスの馬車に乗り込もうとしているわよ!」
馬車の脇にいた護衛隊長が黒衣の男の背中へと発砲したというのに外れている。逆に、黒衣の男に手首と肩を切られて血を流しながら苦悶の顔でうずくまっている。
黒衣の男がハラスの馬車を乗っ取って御者台に腰掛けた。パチッ。手綱を握ってムチを打って走り出していく。
「待ちなさいよ」
そうはさせないとばかりに、アリーシャは馬車から外に飛び出すと、護衛官が乗っていた葦毛の馬の手綱を握り、暴れる馬を宥めようとする。
トルカも動き出す。面倒な顔の包帯を剝がしながら馬車の外に出ている。去り行く馬車に石を投げようとしたが、そんなことをしても意味がないと悟り、気持ちを切り替えたのか、腕を下げたのだ。
「アリーシャ、おまえは、あいつを追ってくれ。俺は、すぐにケネス様を呼びに戻る。アリーシャ! 急げ!」
「う、うん!」
こんな時にケネスがいたら心強いのに……。少し弱気になりながらも、ようやく静かになった馬に跨り、前方に立ち昇る馬車の土煙に視線を向ける。それを追いかけるしかない。
王様に会わせると約束したんだもの。ハラスを死なせたりしない。自分が何とかするしかない。幸い、乗馬のレッスンも受けている。
だから、必死で追いかけた。前傾姿勢になり、前方を行く馬車を追いかけながら思考を巡らせていく。
(あいつら、王子を誘拐するのが目的なのかしら。殺すのが目的なら、もう殺してるわよね)
ハラスを乗せた馬車は石ころだらけの旧道を走り続けている。
民家もなければ畑も無い。砂礫だらけの乾いた大地が続いている。やがて、小高い丘へと続く小道に入った。グルグルと旋回する様にして上っていくうちに山の中腹にある古い修道院に辿り着いていた。
この修道院は、フランツ王国によって異端とみなされて閉鎖を余儀なくされていたものである。今や、過去の遺物となっている。
石造りで風格はあるのだが老朽化が進み廃墟になっているようである。馬車は、修道院の敷地内へと進む。
「あっ……」
下馬した黒衣の男がハラスを強引に肩に担いだかと思うと、聖堂の正面の重たい観音開きの扉を開けていく。
「逃すもんか……」
アリーシャも馬と共に門の中へと飛び込んでいく。そして、馬上からその黒衣の男の背後から叫んだ。
「待ちなさいよ。どうするつもりなのよ」
すると、ハラスを担いだまま挑発するようにニヤっと口元を歪めて笑った。
「来たのは、おまえだけか?」
愚かな女だと言いたげな目つきをしている。
慌てて馬から飛び降りて慌てて駆けつけてみたものの、目の前で扉が閉じられてしまって入れない。困ったことに扉には鍵がかけられている。
クソッとばかりに分厚い扉を拳で叩いた。
「王子をどうするつもりなのよ! あんたの目的は何なのよ!」
どこか別の入り口があるはずだと思い建物の周囲を走り点検したところ、聖堂の裏口近くの窓枠は脆そうだった。力任せに肘で叩くと木枠が砕けて外れた。
えいやーとばかりに窓から乗り込むと、そこには革表紙の古い本がそのまま残っていた。事務室か何かだろうか。
それにしても、黒衣の男はどこにいるのだろう。
ツカツカと館内を走り回っていく。そして、祭壇のある場所へと踏み込むと、その光景に息を飲んだ。古い聖堂の床は見事なモザイク画で彩られている。
天国への鍵を持つ聖人。あるいは、楽園の情景。農夫と動物。柱頭の天使や馬の浮き彫りも見事だ。それに何より、光溢れる内陣空間は歴史の重みがあり壮麗だ。
「ねぇ、どこ! あんた達、どこにいるの! 何をしようって言うのよ! すぐに追っ手が来るわよ!」
「それは好都合だな」
カツンッ。不意に、翼廊の大きな柱の間から声が聞こえてきたかと思うと柱の影から黒衣の男が現れた。
「フフッ、いい根性だ。おまえの御者が倒れた理由は分かってるか?」
彼は意味ありげにアリーシャを見つめている。
「館から出かける前に眠り薬を飲んだのだよ。途中で眠ってしまうようにしておいたのだ。すべては予定通りだ。おまえがここに来るのを待っていたのだ。邪魔者のケネスを殺し損ねたことは残念だが、まぁいいだろう」
「えっ!」
予定通り? どういうことなのか。
「是非ともやってもらいたいことがある。服を脱げ! さぁ、早く!」
「えっ。あたしを襲うつもりなの?」
反射的に半身になりジリリと後ずさっていくが、黒衣の男は白けたように鼻先で笑っている。
「ふん。おまえのようなガキに興味はない。着替えろ。おまえの死装束だ! 王子と、おまえは、この地で挙式した後で心中するんだよ」
豪華なレースの花嫁衣裳を突き出されて面食らっていた。なぜ、そんな手の込んだことをするのだろう。
普通は王子の胸を刺し殺す方が遥かに簡単なのに、なぜ、そうしないのか?
「市場での誘拐は失敗に終わってしまったな。せっかくだから邪魔をしたおまえに役立ってもらう事にしたのさ。さっさと、ここで心中しろ。王子がアリーシャを諦めきれずに共に死ぬことを選んだ事にするのさ。そうすると何かと都合がいい」
言いながら、男は、アリーシャのドレスを強引に剥ぎ取ろうとする。
「やめて! やだ! やめてーーーーー!」
素手で男相手に、どう抵抗すればいいのか分からない。涙ぐみながら必死になって逃かれようとする。
バサッ。男は、アリーシャを押し倒していく。有無を言わせない強引さで乱暴にドレスを脱がしている。
「いいか。よく聞け。王子は、おまえのせいで死ぬのだ。跡継ぎを失った王族達は互いに争うことになる。何かと目障りなケネスは今度こそ職を追われる。そして、恐ろしい混乱を引き起こすのだ。その時こそが革命の始まりとなる。さぁ、聖なる花嫁となれ!」
「……や、やめて!」
恐ろしい告白にゾッとした。
「あたし、自分で脱ぐから、触らないでよ」
「いいから。さっさと脱げ」
立ち上がり、いそいそとドレスを脱ぎ、ズロースとシュミーズとペチコートだけになると、アリーシャはハラスを目で探した。どこにいるのだろう。見当たらない。
「言うとおりに衣装を着ればいいんでしょう。あたしの方を見ないで」
「ふん、おまえの裸に興味はない。さっさと着ろ」
相変わらず、鋭い視線でアリーシャを監視している。
(こんな奴の命令に従うなんて悔しいわ……)
不本意だが着替えるしかなかった。
手編みのレースの生地が美しい優美なドレスだった。提灯のように膨らむ袖が可愛い。
細い手足を生地に滑り込ませながら、アリーシャは唇を噛み締めていく。
花嫁衣裳とベール。これを身につけるのは二回目。
一度目はケネスとの結婚……。
あの人は、こいつのせいで傷を負ってしまっている。
「宿に火をつけたのはあなたでしょう!」
「ああ、そうだ。おまえは俺の顔を知っている。だから、すぐにでも消そうと思ったが、王子の暗殺に利用することを思いついたのさ。だから、王子と再会してもらう為に宿から燻り出したのだよ」
そして、アリーシャだけを誘拐するつもりだったのかもしれない。
「事件の黒幕はラウルなんでしょう? でも、あなたには他に仲間がいるのね。誰なのよ。あたしが死ぬ前に何もかも教えなさいよ」
「おまえに言う必要などない。早くしろ! ボタンを衿まできちんと留めろ。手伝って欲しいのかな」
「さ、触らないでよ」
ちょうど鎖骨から首筋にかけてレース生地になっており、ボタンは貝殻で出来ている。手が震えているせいで、うまくボタンが嵌らない。
それでも、最後の留め具をパチンと留めた。
(まさか……。すでにハラスは殺されたりしていないよね?)
そのことを心配しながらも、アリーシャは尋ねる。
「王子はどこにいるのよ!」
「こっちに来い。愛しの王子ならばここにいるぞ! 心配するな。傷ひとつ付けていない。何かの発作だろう。喉をぜいぜい鳴らして倒れたが、まだ死んでいない」
ハラスは祭壇の後ろ側の冷たい床の上に横たわっていたのである。
「ねぇ、しっかりして」
苦しそうに目を閉じている。意識はあるが朦朧としているようだった。それに、小粒の汗をギッシリと額に浮かべている。苦しいのか肩で息をしている。
(顔色がとても悪いわ。例の発作かもしれない。ハラスは身体が弱いのよ)
この状況を何とかするにはこれしかない。アリーシャは暴露していく。
「よく聞きなさいよ。残念だったわね。この人は王子じゃないのよ! 王子の異母兄弟なのよ! 本物の王子は、あんたの知らない場所にいる。この人を殺しても無駄よ」
「見え透いた嘘を言うな。異母兄弟なんて話は聞いたことがない」
「本当よ! 本物の王子は生きているわ!」
「時間稼ぎのつもりか? 生憎だが、もうそろそろ追っ手が来る頃だ。それまでに死んでもらわねばならない。心中の証として互いの手首を赤い紐で結ぶのだ」
バルモア島の慣わしとして結婚を反対されたカップルは男女を紐で繋いで命を絶つと言われている。
「何を言っているのよ! 護衛達は、あんたが襲ったことをちゃんと知っているわよ」
「俺は、恋に身を焦がした王子に雇われて駆け落ちを手伝ったという筋書きになっている。王子が告白した手紙をここに残しておく。むろん、筆跡は王子のものだと誰もが思うほどに似ている。俺は捕まる前に外国に逃げる。そして、心中の真相は闇の中となる」
「……用意周到ね」
色々と告白してくれだが、それでもまだ分からない。
「だけど、普通に王子を殺す選択肢もあるのに、なんで、そんなまどろっこしい事をするのよ」
「王子を亡き者にする事に意義を唱える者もいる。理想主義者達は血を流す事無く革命を果たしたいと思っている。だから、王子が自ら命を絶つ事が望ましい。邪魔なおまえを生かしておいて良かったよ。こうして、我々の役に立つのだからな」
それを耳にしたアリーシャは絶望的な気持ちになった。
黒衣の男は、ハラスの手首とアリーシャの手首に赤い紐を固く結んでいる。
そして、祭壇の上に置いていた銀製の盃をハラスに突き出した。
「いいから、とっとと飲み干せ。永遠の愛を誓う二人を祝福する酒が入っている。天国で、おまえ達は結ばれるのだ。司祭の役を俺がやってやろう」
しゃがみ込んでいたハラスが不意に顔を上げると、掠れた声で必死になって質問した。
「ひとつ尋ねたい事がある。いったい何の毒なのだ?」
黒衣の男は素っ気ない口調で答える。
「貴婦人が恋敵に対して使う毒薬だ」
「そうか……。なるほどな」
ハラスは杯を見上げていたかと思うと、やがてヒステリックに笑い出したのだ。その様子を見て、黒衣の男は少しばかり驚いたように聞き返していく。
「王子、なにがおかしいのだ?」
「いや、このまま王子として死ぬのも悪くないと思っただけだ。誰も知らない島で孤独に死ぬしかない運命だった……。アリーシャ、僕は、君のために死ぬなら本望だよ」
「いやっ、死ぬなんて考えないで!」
この人には天性の気品がある。青みを帯びた高貴なオーラが胸に染みる。
今日の彼は、いつも以上に神々しい。
「僕は何の為に生きてきたのか分からなかった。価値ある死を迎えられるなら本望だ。アリーシャ、そんな顔しないでおくれよ」
こんな終わり方をしたくない。アリーシャの大きな瞳から大粒の涙がポロリと流れ落ちた。
ハラスは、そんなアリーシャに向かって慈愛に満ちた笑みを向けている。
「君の事が本当に好きだったよ。僕の初恋は君なんだ。さようなら……」
ハラスが杯の取っ手を持って縁に唇をゆっくりと寄せていく。
「アリーシャ……。天国でまた会おうね」
「えっ! やだっ! ダメーーーーーーーーーーーーーーーー!」
ハラスを止めようとしたけれど遅かった。彼は、座ったままの姿勢で毒入りのワインをゴクンと飲んでしまっている。
「ぐっ」
水に打ち上げられた哀れな小魚のように痙攣したまま喉元を押さえている。その様子を見届けた後、男は、アリーシャにも杯を差し出した。
「さぁ、次はおまえだ。愛しの王子のあとを追ってもらうぞ。とっとと、飲め!」
強引に、アリーシャの首筋と肩を羽交い絞めにしている。
さぁ、飲み干せとばかりに力任せに口元に杯を近付けられるが、首を激しく揺すって抵抗した。だが、男の力は強くて、髪を引っ張られて顎を上げるような形になっていた。強引にアリーシャの口をごじ開けようとしている。
しかし……。流れが変わろうとしている。
何やら騒がしくなっていることに気付いた。建物の外側から蹄の音と男達の声が聞こえてくる。人が駆けつける気配が少しずつ近づいてきている。武官達が王子を探しに来たようだ。
さすがに、冷静な黒衣の男も焦りの色を浮かべている。
「いいから、早くしろ!」
黒衣の男は忙しなくアリーシャに毒の杯を押し出しながらも、チラチラと扉の向こうに視線を移す。その時だった。ハラスが黒衣の男の背後に忍び寄っていたのだ。
黒衣の男を銀の重たい聖杯で強く殴りつけていく。
鈍い音がした。不意をつかれた黒衣の男は、よろめいてユラッと膝から崩れ落ちていく。頭の側面から血を流している。黒衣の男は、頭を抑えたまま苦しそうに顔を歪めている。
「なぜだ! 王子! なぜ、まだ生きている?」
黒衣の男は、苦しそうに肩で息を吐きながらも、持参していた小刀の鞘を握り締めている。ハラスは間髪入れずに黒衣の男の手を杯で叩くと、小刀を振り落とした。そして、もう一回、殴りかかろうとするが、黒衣の男は歯を喰いしばるように踏ん張り、そうはさせまいとしてハラスを突き飛ばした。
男の気迫は凄まじいいものがあり、小柄なハラスなどひとたまりもなかった。後頭部を椅子に打ち付けて気絶している。
そんなハラスを見つめたまま乾いた声で笑う。
「飲んだフリをしただけなのか? 王子、あんたも往生際の悪い奴だな……。仕方ない。もう毒は用意できない。こうなったら筋書きを変えるぜ。王子は途中で死ぬのを拒んだが娘にナイフで刺されて死ぬ。小娘は毒を飲んで自殺する」
勝手に殺すな。この瞬間、足元から怒りが沸きあがった。
――――――殺されてたまるかっ!
アリーシャは黒衣の男に飛び掛った。すると、床に置いていた杯がカタンと倒れて零れていく。
「あたしの分の毒も、もうこれで飲めないわよ。フン、ざまーみろ」
「小娘! 邪魔をするな!」
黒衣の男は、ハラスに向けるはずの短剣をアリーシャに向けてまっすぐに振り下ろそうとする。こうなったら、二人とも刺し殺すつもりなのかもしれない。
「きゃっ!」
アリーシャは聖堂のハザートに向かって逃げようとするけれども、赤い糸で結ばれているせいで糸がピンと張っていて、ここから前には進めない。
「お遊びは終わりだぞ。予定変更だ。二人は互いに剣で突き刺し合って死ぬことにする!」
言いながら、心臓を突き刺そうとして小刀を探している。そして、それを見つけるとこちらに踏み出してきた。
(まずいわ)
今度こそ殺される。そう感じて目を瞑った時だった。
聖堂の高窓の木枠が軋むような音が響いたのだ。
バーンッ。黒衣の男の肩から鮮血が吹き出している。一瞬の出来事なのに、スローモーションのように目に飛び込んできた。
(えっ……?)
誰かが頭上の高窓を壊して入ってきたのだ。こちらを見下ろしているのはケネスである。あんな遠くから撃ったのはケネスなのだ。
彼は、引っ掻き鉤のついた縄を伝ってこちらに降りてくる。
「……ケネス!」
彼が着地すると細やかな埃が光の中でブワッと舞い上がった。
諦めかけていたアリーシャは胸を弾ませる。
(まさか、ほんとうに?)
埃っぽい床。頭上から差し込む光がやけに眩く感じられて身体が浮くような高揚感に見舞われている。
こんなふうに現れるなんて想定していない。すべてが幻なのかと思った。
しかし、幻ではない。救出のために駆け込んできたのだ。
「よし! みんな、こっちだ!」
ケネスが内側にかかっていた鍵を開けて外にいる数名の部下とトルカを手招きしている。そして、アリーシャのもとに駆け寄りながら叫ぶ。
「アリーシャ、無事なのか!」
「ケネス、あたしは平気よ! 早くそいつを捕まえて!」
黒衣の男は肩から血を流しているが、まだ生きている。往生際の悪い奴である。祭壇の前で舌打ちをしていた。彼は、別の出口を探そうとしているが、もう逃げ場はない。
「クソッ! 」
黒衣の男は、外套の内側から何かを取り出そうとしている。短剣だ。ハラスに突き刺して殺すつもりなのだろう。そう判断したアリーシャは男の腕にしがみつき邪魔しようと思った。
行かせない。背後で気絶しているハラスを守りたかった。
しかし、長いベールを踏みつけたせいでろにひっくり返ってしまう。そんなアリーシャの背後に回ると黒衣の男がニヤッと笑う。
「おいっ! 動くな!」
黒衣の男はアリーシャを人質として利用しようと思ったらしい。アリーシャは、後ずさり、そんな黒衣の男に激しく抵抗していく。
「いや! さわらないで!」
黒衣の男は、アリーシャの首に腕を回して締め上げようとしているが、ケネスがそれを阻止しようと、勢い良く男に乗りかかっていく。
「ぐっ……」
黒衣の男は、よろめいてドサッと埃っぽい床に倒れていった。
そこでいっきに畳み込みたいが、そうはいかないようである。黒衣の男がケネスを押し戻した。肩を強く押されたケネスは痛みに貫かれて唸り声をあげた。
ケネスは俊敏に動けない。痛みのせいなのか、その顔つきは朦朧としている。
黒衣の男は右肩を撃たれたはずなのに、案外、傷は浅いようだ。
黒衣の男は、ケネスのうなじに向けて短剣を振り下ろそうとしているものだから、アリーシャは止めに入った。
「あぶないっ!」
アリーシャは、花嫁のベールを振り回して黒衣の男の剣を振り払っていく。その瞬間、ケネスが回転して、華麗に脚をまわして黒衣の男の顎を蹴り上げていく。男は口から血を流して白目を剥いて気絶している。
「うっ……」
ケネスは肩の傷が開いてしまったのか血が滲んでいる。しかし、ケネスは歯をくいしばって這うように近付いて来る。
「アリーシャ、怪我はないか?」
その腕の中に飛び込むようにして叫んだ。
「あたしは平気よ……。だけど、彼が……」
振り向くとハラスは座ったまま胸を押さえていたのだ。言葉も話せないほどに苦しそうにしている。
先刻、確かに猛毒を飲んだはずなのに、こうして彼がまだ生きていることが不思議だった。
「ねぇ! ハラス! 返事をして……」
すると、彼は、アリーシャの手を握り締めて、小刻みに震えながらも健気に微笑んだ。
「アリーシャ……。僕は何かの役に立てたのかな? 王子にはなれなくても王子の身代わりにはなれたよね……」
「ハラス! 解毒すればきっと助かるわよ!」
「いいよ。僕は、どっちみち生まれた時から幽霊と同じだった。もういいのさ。もういいんだ」
「いや、良くない」
素っ気なく呟いたのはケネスだった。
「まだ死んでもらっては困るぞ。しっかりしろ。医師を呼ぶ。その前に、これは切らせてもらう」
ケネスは、剣で二人を結ぶ赤い糸を切っていく。しかし、その剣も持てないくらい握力が弱まっているのか大きく息を吐きながら言った。
「よしっ! 切れた」
彼の額と背中に汗が滲んでおり、床に両手をついたまま苦しそうに目を閉じている。言葉を発することも出来ないようだった。アリーシャは、そんなケネスを支えながら訴えていく。
「やだ! 医者が必要なのはケネスの方よ! もう動かないで。座ってよ! なんで、こんな無茶をするのよ!」
アリーシャが泣いていると、いつの間にか応援部隊がハラスを囲んでいたのである。
「王子! さぁ、こちらに!」
侍従がハラスを丁重に連れ出している。ハラスも顔色が悪いけれども命に別状はないようなのだ。
ハラスのことも気になるが、今は、ケネス以外のことは考えられない。ケネスに向けて悲痛な声で訴えていた。
「死んだらイヤーーーーーーーっ!」
「……お、おまえ、俺を勝手に殺すなよ」
冗談めかした声で喋ろうとするけれど、その声には苦痛の色が濃く滲み語尾が震えている。
「ま、まだ死なない。気を失いそうになっただけだ」
頬を片方だけ緩ませるような笑い方だった。そして、ゆっくりと目を閉じていく。
負傷しているのに無理をしたせいなのだ。身体に負担がかかっているのだ。アリーシャは汗で濡れたケネスの前髪をそっと撫でる。
「ケネス……。ごめんなさい。こんな目に合わせるつもりはなかったの」
ケネスは目を閉じたまま小声で頷いた。
「身代わり王子のおかげで本物の王子は救われたんだな。ランドールは正しかったのさ。あいつは凄いよ」
言い終えると、ケネスは意を決したようにして半身を起こしていた。そして、毅然とした声で、後方にいる護衛官達に告げたのだ。
「いいか。王子の帰還は後日に延期する。みんな、王子を安全なホテルに運んでくれ」
「はい、かしこまりました」
廃墟のような聖堂はまた再びガランと静かになっている。トルカは少し離れた場所から二人の様子を見ていたのだが、嬉しそうに微笑んでいたのだ。
勇敢な花嫁と傷ついた花婿という感じに見える。
(こういう光景も、悪くないよな。今は本物の絆が出来上がってるもんな)
ケネスが舞い降りた天窓から光が射しこんでいたのである。
二人の周囲だけが神々しく輝いているかのように見える。シンプルな挙式の立会人はトルカだけ。さぁ、この後は、口付けだよな。そんな事を想像しながらトルカは眩しそうに目を細めたのである。
ケネスとアリーシャの二人は、一枚の絵のように美しく眩しく感じられる。トルカは咳払いしてから、こう言った。
「俺は、お邪魔な奴になっているようだよな。もう、ここには用はないよな。公爵様の島に向かうぜ」
「トルカ、お願い。アンブラに知らせて欲しいの。ハラスが倒れて大変な状態だから、すぐにこっちに来るように伝えてね」
「はいはい……。ちゃんと伝えるぜ」
トルカは飄々とした顔つきで肩をすくめている。
よく考えたら王子が古城に幽閉されたままなのだ。帰還する前に本物の王子を元の場所に戻さないと今回の事も一件落着にはならないのである。
「ランドールに伝言を頼むぞ。王子と共に島から戻ったなら、すみやかに、そして秘密裏に身代わり王子と入れ替わるように告げてくれ」
「はいよ。ほんじゃ、今日の出来事は包み隠さずランドール様に伝えておくよ」
廃墟に残されたアリーシャとケネスは寄り添ったまま抱きしめ合う。
「おまえが無事で良かった」
「あなたのおかげで助かったのよ」
「いや、アリーシャ、おまえのおかげだよ……。おまえは自慢の奥さんだ」
「それにしても、来るのが早かったわね?」
「実は、俺は、こっそりと離れた場所から馬車を警護してたんだ。部下が刺されそうになっていたので助けるのに手間取った。すまない」
「えっ、そうなの?」
「無茶しないでね。だけど、無茶してくれたおかげで助かったのね」
「おまえの為なら何でもするさ」
きっと、どちらかが欠けていたら、王子やハラスを守る事は出来なかっただろう。アリーシャはケネスへの尊敬の気持ちを高めていたし、ケネスはアリーシャを愛しく感じている。そんな二人は互いに支え合ったまま建物の外へと進み出していたのだった。




