20 狙撃
朝になると、アリーシャとケネスは娼館の一室から出ていった。今朝は、狩猟場に向かう約束をしている。急いで屋敷の客室に戻ると狩猟に合う衣服を取り出して着替えた。二人で走りながら玄関ホールへと向かう。
「遅れてすみません」
皆に謝りながら大型の四輪馬車に乗り込んだのだが、アリーシャ達以上に遅刻した子爵もいたので悪目立ちしなくて済んでホッとした。
「いやぁ、申し訳ないね」
最後の一人が乗り込んで出発したのだが、本当は参加するはずだった何人かは飲み過ぎてダウンしているという。
ということで、朝靄が残る森の中に向かった地元の貴族は九人だけとなった。
ここにいる女性はアリーシャだけ。
主賓のムスクス夫人でさえも二日酔いの頭痛を理由に部屋で寝ているという。
ケネスとアリーシャは他の貴族達のように使用人をはべらせる事なく自由に狩りを楽しむ事にした。
「アリーシャ、ほら、見ろよ」
ケネスは、少し得意げな顔でアリーシャに獲物を見せている。
兎、ヤマウズラ、雉、ライチョウといったものが獲物となる。
火薬を詰めてから獲物を撃つのだが、連続して撃てないので慎重に狙いを定めなければならない。猟犬が這うような姿勢で獲物に近寄ると綺麗に脚を折り畳んで獲物の脇で伏せて主人に獲物の場所を教えてくれる。
調教された賢い犬だ。
「よく肥えてるぞ。大きな穴兎を捕まえたんだ」
ケネスはウサギの耳をつかんでぶら下げたままニッと笑っている。
「ねえ、雉も狙ってみる?」
「おうっ! 任せろよ」
颯爽と馬と共に繁みの奥へと入っている。今日のケネスは何だか楽しそうだった。
夕べ、互いの心に絵を描くように微笑み合って眠りについた。まるで、夢みたいに幸せで、その余韻がしっかりと残っている。
午前十時になった頃、アリーシャは言った。
「あたし、少し早いけど昼食を取りに小屋に行くね」
昼食は、森番の小屋で食べることになっているが、二人きりで食べたい。屋敷の者が用意してくれたバスケットにはサンドイッチとワインが入っていると聞いているので、それを取りに向かう。
もう飽きたのか他の紳士達は小屋に戻ってきている。気さくなアイリトン男爵は、自分が仕留めた鶉を掲げながら快活に笑っている。
「いや、疲れた。もう、我々は帰るよ。君も我々と共に帰るかね?」
「いいえ、あたしは夫と一緒にここにいますわ」
アリーシャがそう呟くと、プッと失笑する声が脇から聞こえてきた。見ると、それはサガだった。
(何なのよ! 何が可笑しいのよ!)
あの男は、相変わらず人をバカにしたように薄笑いを浮かべている。嫌味な奴だ。他の紳士達は、アリーシャと会話をするが、サガだけは一度も話しかけたりしなかった。
(あたしも、あんたみたいなタイプと関わりたくないわよ! フンッ)
他の貴族は帰って昼寝をするという。立ち去る際にアイリトン男爵が心配そうに言った。
「密猟者が来ることもあるからね。獲物と間違えて撃たれたりしたら大変なことになるので気をつけなさい」
密猟者達を取り締まっているけれど、すべての範囲を監視できる訳ではない。
アリーシャは奇妙な胸騒ぎを感じていた。
ケネスは下僕もつけずに一人で行動している。心配になってきた。
「ねぇ、ケネス! あたしよ。今、どこにいるのよ。返事をしてよ」
馬に乗って探してみたものの返事はなかった。猪や狼は凶暴だ。
獣と遭遇して怪我をして動けなくなっていたらどうしようかと不安で胸が苦しくなってくる。
ふと、アリーシャの馬が立ち止まった。おかしい。馬の耳が前に傾いている。これは馬が警戒しているサインだ。前方に何か危険なものが潜んでいるのかもしれない。
「もしかして狼なの? それとも……」
他の誰かがやってきたのかと思い、馬上を旋回させていく。背後の茂みの奥を覗き込んだ瞬間、アリーシャの右頬を矢が通過したものだから、ギョッとして目を見開く。
頬の表面をうっすらとかすったような気がして頬を押さえたが、幸い、どこも怪我していない。それにしても、誰が撃って来たのか分からなくて周囲を見回す。
(まさか、密漁者が、あたしを獲物と間違えた?)
すると、また矢が飛んできた。馬の臀部をかすめたらしい。突然、馬が暴れて脚を高々と上げて首を振り暴れ出したのだ。
「キャーーーーーーー!」
身体が浮いた。アリーシャの馬が驚いて乱暴に振り落としたのだ。馬はヒヒーンと嘶き、アリーシャをその場に残して逃げ去ってしまう。
地面に叩きつけられたせいで、一瞬、意識が飛んだ。
受け身の姿勢で地面に投げ出された時、肘を強打してしまい、擦りむいた箇所がジンジン痺れている。
早く逃げなくちゃいけないのに、意識が朦朧として身体が思うようには動けない。やばい。草陰から弓矢が飛んできた。
咄嗟に横転して逃げようとする。あと少しで、危うく、アリーシャの首筋を射抜くところだった。
「……誰! どこにいるのよ!」
腹這いになり、頭を下げたまま、アリーシャは必死になって周辺に目を凝らしていく。駄目だ……。敵がどこにいるのか分からない。
仕方ないので、地面に伏せて息を潜める。
ガサガサッという葉が揺れる音が近付いてきたものだから身震いした。ここから逃げたいけれど、どの方角に行けばいいのか分からない、もう、大丈夫かなと思い立ち上がった時。
ふっと、懐かしい香りが鼻先を掠めた。
その香水は……。ケネスだ。
「おい、アリーシャどうした! 何があった」
「……誰だか分からないけど弓矢が続けて飛んで来たのよ。あたしを殺すつもりみたいなの。あなたは何をしてたの?」
「おまえの悲鳴が聞こえたから戻ったんだ。つーか、さすがに腹が減ったよ」
「そうだろうと思ってサンドイッチを持ってきたのよ。でも、馬の背に積んだまま、どこかに行ったわ」
「誰の仕業だか分からないが、おまえを狙っているようだな。すぐさま、ここから、立ち去った方がいいな」
アリーシャに向けられた矢が地面に落ちている。一つは木の幹に突き刺さっている。
「他の貴族は帰ったわ」
その時、何となく視線のようなものを感じて振り返ると、長身の男が長銃を構えていたものだから、心臓が凍り付く。
木漏れ日が男の顔を浮かび上がらせている。
(あれは、黒衣の男だわ……)
アリーシャの心臓がドクッと嫌な感じの音を立てており、ケネスも顔色を変えている。
あいつはニヤッと笑っている。ケネスは銃を持っているが装填していない。丸腰だ。これでは勝ち目がない。どうしよう。もう無理だと絶望しかけた時。
「アリーシャ、伏せろ」
ケネスはアリーシャの前に立ちはだかった。その直後、バーンという銃声が響いたと同時にケネスの肩を弾がかすめて血しぶきが飛び散った。
右肩の肉をえぐられて血が滲んでいる。
「ちっ……」
黒衣の男は舌打ちしてから、スルリと身を翻して立ち去っていく。
「ケネス、しっかりして」
とにかく、ここから脱出するのだ。
その時、アリーシャが乗っていた馬が戻ってきた。アリーシャは馬にケネスを乗せると森番の小屋へと戻った。すると、森番の男が慌てたように尋ねてきた。
「どうしたのかね。旦那様、大丈夫なのかね」
大丈夫ではない。馬に跨るのが精一杯という有様だ。馬から降りる際には、森番の助けが必要だった。ケネスは肩を押えたまま痛みに耐えており、意識も朦朧としているように見える。
ケネスに代わってアリーシャが言った。
「この人、森で何者かに撃たれたのよ……」
「なんで撃たれたんですか?」
「分からないわ」
「とにかく、お屋敷に戻った方がいいですな」
重体のケネスを介助するようにして森番が馬車まで運んでくれた。
急いで夫人のお屋敷まで帰還したのだが……。
「まぁ、なんということでしょう! 夫の領内でこのような不祥事が起こるなんて本当に残念ですわ。密猟者の仕業なのかしら」
狩猟の主催者であるムスクス夫人は真っ青になっていた。そして、ここぞとばかりにケネスを看護しようと寄り添っている。
「島で一番優秀な医師に診てもらいましょうね。私の侍医なのよ」
ムスクス夫人は本気で狼狽している。驚いた事に、アリーシャの傷口にも自らが秘伝の軟膏とやらを塗ってくれた。
「あなたの打ち身には、この薬草が効くと思うわ」
ムスクス夫人の薬箱にはギッシリと薬が詰まっていた。
「医師が来るまでに、ケネスの傷の消毒をしましょうね。破傷風になるといけないわ」
さすが、薬屋を営む母に叩き込まれただけのことはある。
「お医者様が来る前に、お湯を沸かさないとね。それと、アルコール度数の高いお酒も必要ね」
医師が来る前に、ムスクス夫人はアルコール消毒済みの手術部屋なるものを整えたのである。
「アリーシャ、ケネスの傷が治るまでずっとここにいらしてもよろしいのよ。ぜひ、そうなさっていただきたいわ。あの傷は長引くわよ」
アリーシャを庇ったせいで黒衣の男にケネスはやられてしまった。銃弾が肩にめり込んでいるので、医者は丁寧に取り除いてくれたのだが、その処置の間、部屋の中からは呻き声が聞こえてきたのだった。
ドアの外で呻き声を聞いているだけで胸が引き裂かれそうになる。
(どうしよう。狙われていたのはあたしよ。あたしのせいで、ケネスに大怪我をさせてしまったわ)
ケネスは、しばらくの間は自由に動けそうにない。




