19 抱擁
「おい、アリーシャ、気がついたのか?」
「えっ、ここは?」
気付くと薄暗くて狭い部屋のベッドの上に横たわっていた。
南国の果物が熟れたような強い臭いが鼻をつく。
上半身を起こすと、古いマットレスが硬く軋むような音がした。
(このベッド、煙草臭いな)
部屋の調度品や内装も下品で古臭い。
アリーシャを覗き込むとケネスがホッとしたように言った。
「ムスクス夫人の屋敷の裏庭から歩いて行ける場末の売春宿だよ」
「やだ。なんで、こんな場所にいるのよ! つう、いたた。痛い。頭がガンガンするわ……。もう、やだぁ」
屋外は祭りのクライマックスを迎えている。破裂音がリズミカルに響いている。華やかなヴァイオリンとカスタネットの音と共に踊り明かす人達が本通りを闊歩しており、祭りに浮かれる街の人達の笑い声が外から漏れ聞こえてくる。
ベッドの脇にある小汚い椅子に腰掛けていたケネスが差し出した。
「水を飲むといい。ニセモノの王子は警護の者に引き渡しておいたぞ」
やはり、偽者だという事がバレている。
アリーシャは、肘掛け椅子に腰掛けてから素直に水を飲み干していく。少し落ち着くと、頭痛も楽になってきた。
「盗み聞きされる心配もない。ここなら何を喋ってもいい。さぁ、これまで隠していたことを全部話せ」
「ちょっと待って、盗み聞きって何なの」
「あの屋敷の客室は会話を盗み聞きできるようになっている。ムスクス夫人は他人の秘密をネタにして強請ることでのし上がってきた。だから、俺は、おまえにランドールの事も聞かなかった」
ああ、そういうことなのか。
「さすがに、先刻の庭園での会話は誰も聞いていないと思いたいが、正直、どうだか分からん」
ケネスは、いったん立ち上がると用心深くドアの外に出て廊下を確認していく。
「よし。誰も尾行していないようだな……」
「尾行!」
その言葉で思い出した。
「ねぇ、聞いてよ! あたしを殴ったのはサガよ。あいつが、あたし達のことをコソコソ覗き見していたのよ!」
「あいつは母親と同類だな。他人を蹴落とす為のネタを常に探している。君と王子との逢引きの現場を盗み見るつもりだったんだろう。もう俺に嘘をつくな。包み隠す事なく正直にすべて話せ。偽者の王子は何者なんだ! なぜ、あんなに似ているんだ?」
アリーシャの肩を掴んで尋問する。その顔が険しいものになっている。
「おまえの仕業だろう。門番は寝ている。裏門は誰でも侵入できる状態になっていたぞ。勝手な真似をして、どういうつもりなんだよ」
容赦ない口調にカチンとなった。
「説明するわ。何も悪いことをしていないわよ! ランドールもトルカもあたしと同じ考えだったのよ! あたしは自分勝手に行動した訳じゃないわ。ちゃんとランドールの案に従って動いたのよ」
公爵の島で見聞きした事を説明すると、イリスの出産を耳にした時、ケネスの顔に驚きの色が走った。
ハラスの孤独な暮らしぶりに心を痛めたように瞳の奥を揺らしていたのである。
「……だからね、こうすることが本物の王子にとっても良い事だと思ったのよ」
すべてを聞き終えたケネスは皮肉な薄笑いを浮かべた。
「別の見方をすれば、お前達はハラスに利用されたのかもしれないな。ランドールと王子を古城で抹殺して、おまえも殺してしまえば誰にもバレることなく王子になれるんだぞ。あいつは、いずれ、我が国の王になろうとしているんじゃないのか。もしかしたら、おまえを殴ったのはアンブラという男なのでは?」
「えっ?」
急に、グラッと気持ちの地盤が揺らいで、色んなことが不安になってきた。
(そんな馬鹿な……)
ううん。ハラスが、そんなことをするなんて考えたくない。
「あたしを襲ったのはアンブラじゃなかったわ。体型が全然違う」
自分に言い聞かせるように声を軋ませて否定する。
「あたしを襲ったのはサガなのよ! あいつ、初めて会った頃から、あたしのことを嫌な目で見ていたもの! アンブラは本当に優しい人だわ。ハラスもそうよ。あたしに綺麗な本をプレゼントしてくたのよ!」
「確かに、あいつは、おまえのことを特別な相手だと思っている。王子と同じ顔をしているせいなのか知らないが、あいつもおまえに惚れている。おまえは隙だらけなんだよ」
「なっ!」
なぜ、そんな言い方をするのだろう。
でも、ケネスに一言も相談せずに王子とハラスが入れ替わったのだから怒るのも当然だ。
「明日はどうするの? 祭りは今夜で終わるんでしょう? これ以上、ここにいる理由はないでしょう。あなたは本物の王子のいる島に行って無事を確かめるといいわ」
「王都に戻る定期船が出港するのはあさってなんだ。客人達の何人かは、明日、狩を行う。俺も、狩りに誘われている」
「もしかして王子も狩りに行くの?」
「いや、いかない。本物の王子は狩りが苦手なんだ。幸福な王子とやらも身体が弱いんだろう? トルカが戻っているならハラスの側にいてもらうよ。屋敷の中にいた方が安全だよ。心配なのは、むしろ、おまえだ」
「あたし、狩りをしたいな! 子供の頃はトルカと一緒に郊外の森で密猟をした事もあるのよ。いつもコソコソと罠をしかけていたの。そこで兎を捕まえたものよ。でも、一度でいいから堂々と狩りをしてみたいわ!」
「早朝に出発する事になっている。早く帰って寝ろ。俺はここにいる。仮に、サガがおまえに何らかの怨みを抱いていても、屋敷内で殺人はしないさ」
「あたしもここで眠るわ」
「綺麗な娘をこんな不潔な場所に寝かせるわけにはいかない」
「き、綺麗? えっ、あたしが?」
キョトンとなり、瞬きを忘れて問い返した。
「やーだ、いつから、そんなにお世辞が上手くなったの?」
「自覚がないのかよ? 栗色の豊かな髪に賢く聡明な大きなハシバミ色の瞳。鹿のように軽やかな手足。おまえは、そこにいるだけで人の視線を惹きつける。俺は、地下牢で初めて見た時から、ずいぶんと面白い女の子だなと思ったよ。これなら、偽装結婚も悪くないと思ったぐらいだ」
調子が狂う。アリーシャは、こういうフワフワした空気が苦手だ。それなのに、彼は、切なげな溜め息を漏らしている。その声も瞳も顔つきも色っぽい。
なぜ、そんな熱い眼差しでこちらを見るのだろう。
彼はアリーシャの顎に手をかけた。
薄い皮膚の表面がヂリヂリと燃えるような、そんな感覚に襲われて赤面してしまう。
何とか必死になってケネスの視線から逃れようと、その手を無理に振り払うと、ベッドから出た。
「やだ、気安く触らないで! 大嫌いなんだがら!」
それは、自分でも驚くほど強い声だった。なぜ、そんなことを言うのか、自分でも分からない。
「そうか、悪かったな」
苦いものを噛み締めるように目を伏せる。そして、毅然とした声で呟いている。
「明日は早いぞ。いいから、おまえは戻れ。帰り道、酔っ払いに絡まれるなよ」
「どうして、一緒に帰らないのよ?」
「一人になりたいのさ」
そう呟くと、彼は、先刻までアリーシャが寝ていたベッドに横たわると静かに目を閉じた。
(やだやだ、もしかして、怒ったの?)
深く尋ねることも出来なかった。
この人を裏切ったのは自分だ。勝手な事をしたのも自分だ。でも、こんな事件に巻き込まれて迷惑しているのだと言いたい。
そうよ。大キライだわ。自分から告げた台詞なのに、なぜか、奇妙な棘となって自分の心を傷つけている。喉の奥で苦い物が込み上げてきたアリーシャはベッドで寝ている彼にしがみつくようにして叫んでいた。
「……馬鹿っ!」
本当に馬鹿だ。
「馬鹿――――――――――――っ!」
なんで、こんなふうになってしまうのだろう。意識の中で何かが吹き荒れるような感覚になり、不意に目頭が熱くなってきた。こんな自分が嫌いだ。
アリーシャは苦しいほどの何かに突き動かされている。
「な、なんだ? いきなり、何なんだよ?」
突然、大声を出し小刻みに震えているアリーシャの顔を見上げながら不思議そうに尋ねた。
「何で泣くんだよ? なぁ、教えてくれ。悪いのは俺なのか?」
「違うわ! あたしよ。あたしは、自分に腹を立てているの。あたし、本当は、あのね、本当はね……」
頭の中がグチャグチャになってしまい、胸の奥底が疼いている。何がどうなっているのか分からない。
「……アリーシャ?」
アリーシャはポロッと涙をこぼしている。そして、身体を震わせながら、何かを伝えようとしてケネスの襟元を握りしめて喉を震わせる。
(あたし! あなたのことを、ずっと、ずっと……)
頭の中がこんがらがって、どうしたらいいのか分からなかった。
鮮やかな色彩のドレスの裾をはためかせてマットレスに飛び乗り、そのままケネスの胸に飛び込むように自分から抱きついた。
(……離れたくない。ここにいたいの!)
言葉でそう囁くよりも、体が動いた。切々と湧き上がる衝動を抑えられなくなり、彼の背中に腕をまわしながら叫んだ。
「……好きよ! 本当は、あなたが好きなのよ」
ケネスを見下ろすと、彼は優しい眼差しを注ぎながら、ゆっくりと呼吸する。安心したように口許を綻ばせた。
「俺も好きだよ」
アリーシャは胸を打たれて涙ぐむ。
ああ、こんな瞬間が来るなんて。これまで、どうして、あんな風に反発していたのだろう。
甘い後悔を噛み締めるようにして口付けを受け止めながら胸を震わせる。
(……あたし、一人で勝手に意地を張っていたのよ。本当に馬鹿だったわ)
ケネスは、少し懐かしそうにクスッと笑って、アリーシャの頬を指先でそっと撫でる。
「覚えているか? おまえが持参していた本があったよな」
ケネスは、アリーシャの髪の先を指先でクルクルと弄びつつ幸福そうに微笑んでいる。
「母の愛読書だったんだ。それを侍女にプレゼントしたんだ。俺も、ガキの頃、こっそり盗み読みしたことがあるよ」
ケネスはアリーシャの横顔を眺めながら、可愛くて堪らないというふうに、クシャッと微笑んでいく。
「昔々、あるところに、アリーシャという可愛い女の子がいました。彼女は、ケネスという若者の愛を拒み続けていたのです。けれど、ある夜、ようやく二人は結ばれたのでした。なんちゃって……」
頭の奥が甘美な味でいっぱいになっている。彼の唇を受けて入れている。
「アリーシャ……。おいで。今夜は一緒にここで眠ろう」
ケネスが両手を広げると、アリーシャは、唇を寄せるようにしてケネスの胸に顔を近づけていく。
「うん……」
アリーシャは涙ぐんでいた。いつのまにか誰よりも大好きな人になっている。
頭の芯がぼんやりとしびれるような幸福なキスをした後でスヤスヤと安らかに眠り込んでいたのだった。




