第9話 俺にも払えるものがある
その紙をレオルが見つけたのは、帳簿台の脇に積まれた控えの中だった。
鉄、燃料石、革帯、留め金。匙保持具や扉の鉤に使った量と、仕入れ値が品目ごとに書かれている。
レオルは右上腕の鉤で、束の一枚を手前へ引いた。
「これは、俺の道具に使った材料か」
「そうです」
ミレーネは槌を置いた。
「まだ請求書ではありません。材料と工賃を確かめるための明細です」
「合計はいくらだ」
エッダが車輪付き作業椅子で近づいた。帳簿を開き、材料費の合計と、その横に分けた工賃を指で示す。
「材料だけで、ここまで。作った時間を入れれば、その右だ」
レオルの顎に力が入った。
「俺には金がない」
低い声だった。
「恩給は止められた。式典が終われば、戦えない者へ払う金はないと言われた。手元には一枚もない」
レオルは明細を控えの束へ戻した。
「これ以上、払えないものを受け取り続けるわけにはいかない。俺は出ていく」
内側の取っ手へ、扉用の鉤を掛けようとする。
去ると言われたのは、初めてではなかった。三日で去るつもりだった人が、扉を開くために残り、鍬を直すために残った。
今度は、払うものがないという理由で出ていこうとしている。
「待ってください」
ミレーネは戸口へ向かった背を呼び止めた。
「払えない客として追い出すつもりはありません。でも、無償で道具を渡し続けるつもりもありません」
昨日までの自分なら、代金はいらないと言ったかもしれない。それではレオルの選択も、工房の明日も守れない。
ミレーネはエッダを見た。
「仕事で払う契約は作れますか」
「作れるよ。ただし、本人が条件を聞いて選ぶならね」
エッダは白紙を帳簿台へ広げた。
ミレーネはレオルへ向き直る。
「労働で道具代を返す契約です。条件を聞きますか」
レオルは扉の前で立ち止まった。しばらくして、帳簿台へ戻る。
「聞かせてくれ」
エッダは紙を縦に区切った。
「まず、できる仕事だ。監督のある送風ふいご。扉の鉤の操作。誰かが水を入れたあとの湯沸かし台。仕事札と材料数の読み上げ確認」
実際に試して、安全条件がわかっている仕事だけだった。
「次に、できない仕事。熱い鉄を持つ。槌や鑢を使う。重い材料を一人で運ぶ。湯沸かし台とふいごを同時に踏む。試していない作業を、できると言って引き受けるのも禁止だ」
レオルが紙を見つめる。
「できない仕事まで、契約へ書くのか」
「書くさ。無理をさせて怪我をすれば、あんたも工房も損をする。できないことを隠して売らないのは、人にも同じだよ」
エッダの鉛筆が、次の欄へ移った。
「午前はふいごと鉤の訓練。安全にできた時間だけ実務へ移す。訓練も工房で使う動きを覚える時間だから、労働時間へ入れる。昼の鐘では規則九どおり休む」
一刻ごとの労働単価と、週ごとに残額を確認することも書き込んだ。
「この単価は、何を基準にした」
レオルが数字を見て尋ねた。
「同じ仕事を頼むときの相場だよ」
エッダは鉛筆の先で、送風と読み上げ確認の欄を順に叩いた。
「腕がないから安くするんじゃない。任せる仕事と時間に値を付ける。訓練で任せられる範囲が増えたら、そのとき単価を見直す。工房だけで勝手に変えず、あんたの同意も取る」
「仕事が減った週は」
「働いた分だけ相殺する。残額を理由に、仕事のない日まで工房へ縛ることはしない」
レオルはその文言も入れるよう求め、エッダが契約書へ書き足した。
「相殺するのは、これまでの装具と、これから本人が見積もりを承認した簡易義手の材料費と工賃だ。新しい道具を勝手に借金へ足しちゃいけない」
「契約の終わりは」
レオルが尋ねた。
「代金を払い終えたとき。あんたか工房のどちらかが、終了を申し出たとき。途中で辞めても罰金はなし。残った代金は利息を付けず、別の支払い方を話し合う。使っている道具を取り上げて身体の代わりにすることもしない」
工房規則六。道具の所有権は、使う本人にある。
ミレーネは、紙に増えていく条件を読んだ。
善意だけで道具を配ることは、相手から対価を払う道も奪う。働いてもらうなら、仕事の範囲と休む時間を決めなければならない。
作ることだけでは、工房も人も守れなかった。
「この条件で、どうですか」
ミレーネが尋ねる。
レオルは最初の欄から読み直した。
「できない仕事を、最初に書いてくれたのはありがたい」
一度、息を吐く。
「できるふりをして、一人で片づけようとするのは、俺の悪い癖だ。この条件で頼む」
エッダは同じ内容の契約書を二枚作った。
「次は署名だ。ミレーネは書ける。レオル、あんたはどう残したい」
帳簿台には鉛筆と印がある。口で印を押すなら早い。足で印を踏む方法も、上腕へ筆を付ける方法も考えられた。
ミレーネは、先に道具を取らなかった。
レオルは自分の右上腕と、棚の匙保持具を見比べた。
「右の帯金を使いたい。匙の代わりに筆を挟めるか」
「できます。自分の名前を書くんですね」
「時間がかかっても、それを選ぶ」
レオルは身体を捻り、帯金から扉用の鉤を外した。
ミレーネは短い筆を挟む当て金を組み、右上腕の帯金へ近づけた。
「取り付けます。触れてもいいですか」
「ああ」
最初は筆先が紙へ届く前に横へ滑った。肩の動きに対して筆が長すぎる。
筆を一寸短くし、当て金の角度を下げる。端紙で三度、線を引いた。触覚はないため、レオルは筆先を目で追い、肩と呼吸で速さを抑えた。
四度目に、契約書へ向かう。
文字は震え、二度ほど線が重なった。それでも、レオル・アシュベルと読める署名が残った。
同じ方法で、もう一枚にも書く。ミレーネが隣へ署名し、エッダが作成者兼立会人として日付と名を記した。
「これで成立だ」
エッダは一枚をレオルへ、もう一枚をミレーネへ示した。
「今日から契約補助員。客ではないが、正式な職員でも職人でもない。契約に書いた仕事と訓練をする立場だ」
レオルの肩から、張っていた力が少しずつ抜けた。
ミレーネは工房の隅にあった、使っていない低い作業台を空にした。
「どこへ置きますか」
「ミレーネの隣がいい。火の色と、指示の両方が見える」
レオルが肩で台を押し、ミレーネが脚を持ち上げる。二人で、ミレーネの作業台の隣へ運んだ。
契約書の一枚は、レオルが選んだ作業台下の棚へ置いた。もう一枚は、工房側の原本として帳簿棚へ納める。
翌日の仕事札も二枚にした。
ミレーネの札には、鍬の仕上げと装具の見積もり。レオルの札には、ふいごの訓練、鉤の点検、材料数の読み上げ確認。
二つ並んだ作業台の上で、明日の仕事が二人分、静かに待っていた。




