第8話 鍛冶師の手も消耗品ではない
その火傷は、昨日はなかった。
レオルは、ミレーネの左手の甲に赤く腫れた筋を見つけた。鍬を打ち直す槌が上がるたび、その筋の周りが引きつる。
「ミレーネ。その手を見せてくれ」
「大丈夫です」
ミレーネは槌を振り下ろした。
「これくらいの火傷は、いつものことです」
いつものこと、という言葉が、レオルの喉に引っかかった。
朝から、ミレーネは何も口にしていない。豆の鍋は竈の隅で冷えたまま。湯を沸かす手間さえ惜しみ、水で喉を湿らせただけで炉へ戻った。
昼になってエッダが声を掛けても、返事は同じだった。
「あと少しです」
かつて、部下が無理をしていれば命じて止めた。休め、と言えばよかった。
だが、ここは軍ではない。ミレーネの身体も時間も、レオルが命令してよいものではなかった。
手を貸せない、という苛立ちが胸の奥で動く。腕がない事実へ沈みかけて、レオルは火傷から目を離した。
ない腕を数えるより、いま使える足と肩を数える。
湯を沸かす手間が惜しいなら、その仕事を自分が引き受ければいい。
「エッダ」
帳簿台へ声を掛けると、エッダが車輪付き作業椅子を回した。
「炉の余熱で湯を沸かしたい。俺が足と鉤で扱える形にできないか」
「ミレーネを炉へ縛り付ける道具なら反対だよ」
「休ませるために使う。湯の支度を、俺がする」
エッダはレオルの顔を見てから、炉の脇へ椅子を進めた。
「なら、火床の正面は使わないことだね。火花とぶつかる」
余熱だけが届く側面には、使っていない留め穴が二つあった。棚には鍬の添え金を切り出した残りの鉄板と、短い連結棒がある。
エッダが部品を床へ並べた。レオルは右上腕の帯金へ扉用の鉤を嵌め、連結棒を引いて長さを確かめる。
「鉄板を載せるだけじゃ、鍋が落ちるよ」
「輪で囲う。輪ごと二本の溝を滑らせる」
「火へ寄せるのは」
「足踏みだ。戻すときは、この鉤で引く」
新しく鍛えた部品はなかった。エッダが鉄板へ既存の輪をボルトで留め、二本の細い案内溝を組む。レオルは足先で溝を押さえ、ずれた方向を伝えた。
輪のついた受け台は、炉の側面へ向かって滑る。床の踏み板を押せば連結棒が台を火へ寄せ、鉤で手前の環を引けば余熱から離れる仕組みだった。
エッダが小鍋へ水を入れ、受け台の輪へ置いた。
レオルが踏み板を押す。鍋が炉へ近づいた。火床の正面から外れているため、火花は届かない。
しばらく待ってから、鉤で環を引いた。鍋は手前へ戻ったが、水から湯気は立っていない。
「遠すぎるね」
エッダが鍋の縁へ指を近づけ、すぐに離した。
「ぬるい。白湯というより、昨日の日向だ」
案内溝を一つ内側の穴へ移した。二度目は、踏み板を押してから湯気が立つまで、レオルが炉の色を見張った。
鉤で引き戻す。今度は鍋の蓋が細かく震え、白い湯気が上がった。
「使う間は離れない。空焚きはしない。火を強くしたときは使わない」
レオルが条件を挙げ、エッダが帳簿の余白へ記した。
「ふいごと同時には踏めないね」
エッダに言われ、レオルは二つの踏み板へ順に足を置いた。湯沸かし台へ体重を移せば、ふいごの支え棒から腰が離れる。
「同時には使わない。鍛える鉄を炉から出し、風を止めたあいだの余熱だけを使う」
受け台の奥には、鍋が火床へ入りすぎないよう止め金も足した。足が滑っても、それ以上は進まない。鉤の環が外れたときは、無理に追わずエッダかミレーネを呼ぶ。
できない動きまで、できることにはしなかった。
高度な道具ではない。エッダが水を入れ、部品を留め、レオルが足と鉤で動かす。二人でなければ、まだ使えない試作品だった。
それでも、レオルが湯を沸かす仕事は引き受けられる。
「ミレーネ」
レオルは鍋を余熱から遠ざけた。
「湯が沸いた。一度、鍬を置いてくれないか」
ミレーネは槌を止めなかった。
「あと少しで、刃先が揃います」
「その言葉を、朝から何度も聞いた」
命じて槌を置かせるのは違う。レオルは、戸口の規則札と、帳簿台にある一枚の紙を見た。
エッダが昨日、ミレーネから聞き取った工房の原則を、八つまで書き並べた紙だった。
「決まりを一つ、増やしてほしい」
槌の音が止まった。
「九つ目だ。職人も休む」
ミレーネが、ようやくレオルを見た。
「それは、お客さんや手伝う人のための決まりでは」
「工房主だけ除いたら、決まりにならない」
レオルは言葉を切った。休め、と命じる代わりに、頼む言葉を探す。
「俺にも守らせてくれ。まず今日は、あなたから始めてほしい。鍬を置いて、一緒に食べてくれないか」
ミレーネの視線が、火傷の筋のある左手へ落ちた。
しばらくして、槌が鉄床の上へ置かれた。
「……座って食べるところまで、決まりですか」
「そうしたほうがいい」
「命令ではないんですね」
「頼んでいる」
ミレーネの口元が、わずかに動いた。
エッダは紙の九番へ「職人も休む」と書き足し、戸口の規則札の下へ留めた。それから冷えた豆を温め、椀へよそう。
「規則は書いただけじゃ腹を満たさないよ」
エッダは「今日の仕事」の紙へ、昼の鐘が鳴ったら火と道具を止める、と追記した。
「鍛造の途中なら、鉄を安全な場所へ戻してから休む。休めなかった日は、理由と時刻を帳簿へ残す。これで決まりが仕事になる」
「そこまで書くんですか」
ミレーネが尋ねる。
「書かなきゃ、あんたは明日も『あと少し』で削るだろうさ」
レオルも、その紙へ目を向けた。
「俺も守る。ふいごを踏む途中でも、痛みや眩暈があれば止める。ミレーネだけの決まりにはしない」
それでようやく、ミレーネは小さくうなずいた。
レオルは鉤で湯の受け台を引き戻した。エッダが鍋を傾け、二人分の椀へ白湯を注いだ。
ミレーネとレオルは、作業台を離れた丸椅子へ並んで座った。豆と白湯、固くなったパンだけの食事だった。
ミレーネは洗ってあった匙保持具を取り、レオルの右上腕へ近づける。
「取り付けます。触れてもいいですか」
「ああ」
革帯が留まり、レオルも自分で豆を口へ運んだ。
ミレーネが自分の椀へ匙を戻す。その隣で、レオルも次の豆をすくった。二つの椀が、同じ速さで少しずつ減っていった。
ミレーネが白湯を一口飲み、長く息を吐いた。
レオルが火傷へ視線を落とすと、ミレーネは何も言われる前に、冷たい水で濡らした布を左手の甲へ当てた。
「休む決まりの範囲です」
「それなら、続けてくれ」
「生き返ります」
そう言って笑った。
湯気の向こうで、疲れが少しほどけたような笑い方だった。
レオルの胸の奥で、張り詰めていたものが緩んだ。
扉を一人で開けたときとも、鍬の添え金を仕上げたときとも違う。道具が動いた成功より、ミレーネが休んで笑ったことのほうが、強く胸へ残った。
仕事は止まっている。それなのに、失ったとは思わなかった。
なぜ、それほど安堵したのか。答えを探そうとすると、胸の内が落ち着かなくなる。
レオルは、その感情へ名前を付けなかった。
ミレーネは白湯の椀を、火傷のある手で包んでいた。その手が匙の保持具を作り、扉の鉤を作り、鍬を直した。
その手は、使えば減ってよい材料ではない。
明日も彼女がその手を使えることを、守りたい。
そう思うことなら、腕のない自分にもできる気がした。




